第114話 訓練後の酒場でいつもより愛が重くなる件(本編とは少ししか関係してません)
月曜の夕方、借家へ戻る頃には、ユウトの身体はもう一日分きっちり使い切った後の重さを抱えていた。
店の裏手で朝から夕方まで叩き込まれたせいで、腕も肩も脚も、どこを動かしても鈍く張る。けれど妙なのは、疲れているはずなのに右と左の感覚だけがまだはっきり残っていることだった。右で通す。左で広く触る。逆もやる。少し離れた場所へ触れる感覚を置く。副官さんに何度も崩され、何度もやり直した流れが、身体の芯にそのまま残っていた。
借家の戸を開けると、先に戻っていたレイナがすぐにこちらを見た。
「うわ、顔すごいですね」
「ひどい言い方だな」
「褒めてるんです。頑張った人の顔です」
そう言いながらも、口元は完全に笑っている。
マリナはユウトの横に立ったまま、小さく息をついた。
「黒崎くん、着替えたら少しは落ち着くかしら」
「どうだろ」
「どうだろじゃないわよ」
そう返しながらも、マリナの声は少しだけやわらかい。訓練中ずっと見ていたせいだろう。疲労の種類まで見抜いている顔だった。
居間の奥ではダインがすでに戻っていて、座ったまま短く言った。
「ひどくやられた顔だ」
「やられました」
「うむ」
その一言だけで十分だと言いたげに、ダインはそれ以上は言わない。
その時、開け放した戸の向こう、隣の自宅の前からガルドの声がした。
「先生、あとで迎えに来る」
マリナがそちらへ顔を向ける。
「はい」
「着替えたら声かけてくれ」
「わかりました」
ガルドは自宅の戸口に立ったまま軽く手を上げ、それ以上は入ってこなかった。隣とはいえ、そこはきちんと分かれている。その自然さが、逆にいつもの月曜らしかった。
レイナがそれを見て、にやりとする。
「じゃあ、やっぱり行くんですね」
「行くんだろ、どうせ」
ユウトが言うと、レイナは大きく頷いた。
「もちろんです。月曜の夜ですから」
月曜の夜は酒場だ。もうそれは流れになっている。しかも今日は訓練明けだ。レイナの目が面白がって光るのも仕方がない。
「師匠と副官さんも来るんですよね」
その問いに、マリナが頷く。
「さっき別れる時に、あとで行くって」
「濃いですね」
「何がよ」
「月曜の酒場の空気です」
レイナはそう言ってから、わざとらしくユウトの顔を覗き込んだ。
「それに今日は、ユウトくんがいつもより危なそうですし」
「危ないって何だよ」
「訓練の感覚残ってるんじゃないですか?」
それは否定しづらかった。右と左がまだ妙に別々に意識へ上がってくる。物を取る時すら、一瞬だけ手の置き方を考えてしまう。その状態で酒が入ったらどうなるのか、正直自分でも少しわからない。
マリナが困ったように眉を寄せた。
「変なことにならなきゃいいけど」
「先生、それ毎回言ってますよね」
「毎回そう思ってるもの」
そう言いながら、マリナとレイナは自分たちの部屋へ戻った。ダインも自分の部屋へ引く。ユウトも部屋に入って着替えながら、今日の訓練を思い返した。副官さんに最後に崩された感触がまだ肩口に残っている。なのに、そこへ酒場の熱気が重なる予感まであって、頭の中が妙に落ち着かなかった。
着替えを終えて居間へ出ると、レイナはすでに上機嫌の顔で待っていた。マリナも落ち着いた服に替えている。そこへ戸口からガルドが声をかける。
「行くか」
隣の自宅で家族に声をかけてきたのだろう。いつも通りの自然な顔だった。
酒場の前へ近づくと、まだ中へ入る前からざわつきが伝わってきた。戸を開けた瞬間、酒と肉と人の熱が混ざった匂いが押し寄せる。店の中はすでに賑わっていた。月曜の夜、しかもユウトたちが来る日だ。常連達の目がこちらへ一斉に向く。
「来たぞ」
「今日は先生もいるぞ」
「当たりだな」
「訓練帰りらしいですから」
最後の一言は、たぶん相沢だ。もう壁際の良い位置を取っている。今さら初見の客みたいな顔はしない。愛の劇場はすでに定期開催化され、高級下着のフィッティング予約や予約済み商品の受け渡しまで組み込まれている。相沢は観客ではなく、完全に運営側の顔で場を見ていた。
席へつくより先に店主が杯を置く。
「店からだ」
「ありがとうございます」
受け取る指先へ、器の冷たさがひやりと乗った。
ユウトは一口飲む。
酒が喉を通り、熱になって落ちる。そこまではいつも通りだ。だが今回は、その直後に身体のどこかが崩れるのではなく、逆にはっきりする感覚があった。訓練で削られた意識の残骸が、酒に炙られて妙な形で立ち上がったのかもしれない。
「先生」
自分の声が、いつもより少し低く聞こえた。
レイナがすぐに顔を上げる。
「あ、始まった」
「始まるな」
ガルドが短く言い、ダインは静かに杯を持つ。
マリナがわずかに肩を引いた。
「ちょっと黒崎くん、今日は訓練の後なんだから」
最後まで言う前に、ユウトの腕が伸びていた。
抱き寄せる。
だが今日は、それがただの勢いではなかった。背中へ回した腕が自然に腰の位置を合わせ、逃げる方向へ先に身体がずれる。逃げ道を塞ぐ置き方を、酔った頭のままやってしまっていた。
「ちょっと強いですって!」
レイナが声を上げる。
マリナも目を見開いた。
「ちょ、ちょっと黒崎くん!」
逃げようとするが、一瞬遅れる。立ち位置を取られ、腰の位置を合わされ、その一瞬でさらに引き寄せられた。
酒場の空気が変わる。
「なんか今日違うぞ」
「近いな」
「先生、逃げろ」
「いや逃げられてないぞ」
相沢はその空気を見てすぐに動いた。壁際から店主へ小声を飛ばす。
「奥、少し詰めてください。後ろの視界が悪いです」
それから常連達へ低く言う。
「静かに。今、いいところです」
完全に手慣れている。今日の回の質が高いと見た瞬間、もう場の制御へ入っていた。
ユウトはマリナの顔を見たまま、一瞬だけ黙った。
店が静かになる。
そして、はっきりと言った。
「言葉だけでは愛は伝わらない!」
酒場の中へその声がまっすぐ響く。
常連が息を呑む。レイナが両手で口を押さえる。ガルドは杯を持ったまま肩を揺らし、ダインは静かに頷く。相沢は目を細めたまま、わずかに口元を上げた。
「愛を掴み取るには、時に強引な行動も必要なんだ!」
そのまま、マリナを強く抱き抱える。
腕の力だけではない。身体ごと寄せ、逃げ道をなくし、立つ位置で捕まえる。訓練の余韻がそのまま酔いに出ているせいで、いつもよりずっと情熱的で、ずっと逃げにくい。
マリナの口から小さく息が漏れた。
「……っ!」
一瞬だけ、本当に抵抗が止まる。
そこをレイナが見逃すはずがなかった。
「先生、止まってますってそれ!」
「と、止まってないわよ!」
言い返すが声が揺れている。頬だけではなく耳まで真っ赤だ。けれど完全には離れようとしない。出来ないのもあるだろう。だが、それだけではないと誰の目にもわかる。
店内が一気に沸く。
「今日すげえぞ!」
「強引だな!」
「先生が受け止めてる!」
「やめなさいよあんたたち!」
マリナが叫ぶが、その勢いすら抱き込まれた体勢のせいで半分しか出ない。
ユウトはさらに熱っぽい声で続けた。
「先生は綺麗だ」
一拍。
「今日の先生は」
目を細める。
「誰よりも綺麗だ」
酒場が一瞬静まり返る。
相沢が小さく呟く。
「……今日は上だな」
もう売れるかどうかを考える段階ではない。どう最大化するかの顔だ。相沢は壁際の別の常連へ目配せし、小声で言う。
「フィッティング予約、後ろから前倒しで回してください。今、視線は全部こっちです」
高級下着の予約済み受け渡しも、こういう場の熱に合わせて動かしているのだろう。抜け目がない。
マリナは顔を伏せかけ、それでも完全には伏せられなかった。
「……もう……」
その声は叱るには弱すぎた。
レイナがにやにやしながら身を乗り出す。
「先生、今日かなり受け入れてません?」
「そんなわけないでしょ!」
「でも逃げてないです」
「逃げられないのよ!」
「言い方がだいぶ弱いです」
「うるさい!」
ガルドが小さく笑う。
「今日は強いな」
「うむ」
ダインも短い。
ユウトの愛の語りは止まらなかった。
「先生、俺は先生を誰よりも愛している」
「だから離さない」
「先生も俺から離れたくないはずだ」
「そういうのを勝手に決めないで!」
マリナは反論するが、そのたびに声が掠れて、余計に場が盛り上がる。
「俺と先生は魂で結ばれている!」
「また始まった!」
「つまり魂の夫婦なんだ!」
「はい出ました!」
レイナが楽しそうに煽り、常連達も笑う。店主はすでに完全に見世物として楽しんでいる。けれど、その熱気の中心で抱きしめられているマリナだけは、本当に困り切った顔をしていた。困っているのに、振りほどき切れない。今日のユウトは、いつもよりずっと抱き方が重いのだ。
やがて酒が回りきり、ユウトの声に少しずつとろみが混じり始めた。それでも今日はいつもみたいにすぐ崩れない。芯だけ妙に残っている。だからこそ、最後まで腕も体勢も離れにくかった。
相沢はその様子を見て、満足そうに店主へ頷く。
「今日は十分です。後半の予約受け渡しはもう流せます」
「さすがだな」
「こういう日は熱を逃がさない方が伸びます」
完全に慣れている。
さすがに遅くなりすぎる前に、ガルドが声をかけた。
「帰るか」
ダインも静かに立ち上がる。レイナは名残惜しそうだったが、さすがにこれ以上引っ張る気はないらしい。
店主が笑って手を振る。
「今日は十分だな」
「十分すぎる!」
「次も頼むぞ!」
そんな声を背中で聞きながら、酒場を出る。
夜の街は、酒場の中とは別世界みたいに静かだった。灯りのついた窓がいくつか並び、石畳へ落ちる影が長い。夜風が頬に当たると、さっきまでの熱が少しだけ引く。
だがユウトは、その夜風の中でもマリナを離さなかった。
半分抱き抱えるようにして歩く。抱きしめる力は少し抜けたが、今度は寄りかかる重みが増えている。
「完全に持ってますよね、それ」
レイナが呆れ半分、笑い半分で言う。
「まあいい」
ガルドが答える。
「先生も転びそうなほど嫌がってはいない」
「うむ」
ダインも短く頷く。
マリナは顔を赤くしたまま、それでも歩調を合わせていた。
「黒崎くん、ちゃんと歩いて」
「歩いてる」
「私ごと歩いてるのよ!」
「先生は大事だから」
「そういう問題じゃないわ!」
そう言いながらも、結局そのまま借家まで来てしまう。
借家の前で、ガルドは隣の自宅へ向かう前に軽く手を上げた。
「じゃあな」
「お疲れ様でした」
マリナが返す。
ダインは借家の戸口まで来て、そこで短く言った。
「寝かせろ」
「はいはい、わかってるわよ」
レイナが笑って先に戸を開ける。
中へ入り、どうにかユウトを寝台まで連れていく。今日はいつも以上に抱き込み方がしっかりしていたせいか、完全に力が抜けてもなお袖を掴む指が離れない。
「黒崎くん」
マリナが呼ぶ。
返事はない。目は半分閉じている。寝る寸前だ。なのに指だけが少しだけ力を残している。
「……もう……」
マリナは小さくため息をつき、一本ずつ指を外していく。その途中で、ユウトが寝ながらわずかに力を入れた。
「先生……」
その声はもう夢の中みたいに曖昧だった。
「はいはい、私はここにいるわよ」
そう返すと、不思議なくらい素直に力が抜ける。そこでようやく袖を外し、布団を肩まで掛けることが出来た。
部屋を出て戸を静かに閉める。
レイナは途中まで面白そうな顔をしていたが、最後は「おやすみなさい」とだけ言って自分の部屋へ戻った。ダインも今日はそれ以上何も言わず、自分の部屋へ引く。
居間には灯りだけが残る。
酒場の熱気も、常連の声も、相沢の冷静な手配も、全部遠い出来事みたいに思える。けれど、自分の身体に残っている熱だけはどうしても消えなかった。
マリナは椅子へ腰を下ろし、そっと頬に手を当てる。
「……熱い」
口に出すと、余計にそう感じた。顔だけではない。胸の奥がじんわり熱を持っている。あれだけ人前で愛を語られて、あれだけ強く抱き抱えられて、平然としていられるわけがない。
胸元へ手を当てる。
「なんなのよ……」
小さく呟く。
訓練の後だから少しおかしかったのだ。いつもより情熱的で、いつもより強引で、抱きしめ方まで妙に正確で。だから動けなかったのだと、いくらでも言い訳は出来る。
けれど、それだけではないと、自分でもわかっていた。
言葉だけでは愛は伝わらない。
愛を掴み取るには、時に強引な行動も必要なんだ。
あの酔っ払いは、そんなことを真顔で言ったのだ。
思い出した瞬間、顔の熱がまた上がる。
「……ほんと、なんなのよ」
もう一度呟いてから、マリナはほんの少しだけ笑ってしまった。
月曜の夜は終わった。
だが、いつもと同じではなかった。
ほんの少しだけ。
けれど確かに、何かが変わっていた。




