第113話 新しいスキルの使い方を朝から夕方まで叩き込まれる件
月曜の朝は、休みの日らしい静けさをまとっていた。
借家の窓から差し込む光はやわらかく、板張りの床の上に細長い白を落としている。昨日までの営業で使った身体はまだ少し重かったが、金曜から日曜までを走り切った後の疲れは、嫌なものではなかった。腕や肩の奥に残る張りも、しっかり働いた後の重みとして身体に馴染んでいる。
卓の上には朝食の名残が残っていた。空になった木皿、湯気が消えた椀、布で拭いた跡の薄い水筋。休日の朝らしいゆるんだ空気が部屋の中にはあったが、ユウトの気分だけはそこへ完全に溶け込めていなかった。
昨日の営業が終わった後、師匠ははっきり言ったのだ。
そろそろ次へ進める。
新しい使い方を教える。
その言葉が、昨夜から頭の片隅にずっと残っていた。
椅子から立ち上がり、肩を回す。筋肉の奥で小さく軋むような感触があった。火曜と水曜の討伐、木曜の準備、金曜から日曜までの営業。その全部を越えてきた身体は疲れている。だが、今日はその上からさらに違う種類の負荷がかかる。そう思うと、背筋が自然と伸びた。
向かいでレイナがその様子を見て、すぐに口元を緩める。
「本当に月曜からやるんですね」
「やるって言われたからな」
「いや、そうなんですけど」
レイナは椀を重ねながら笑った。
「普通ちょっと間置きません? 土日営業終わって、はい次ですって」
「師匠だしなあ」
ユウトがそう答えると、レイナは妙に納得したように頷いた。
「それはそうですね」
マリナが静かに茶を口に運び、それからユウトへ視線を向けた。
「黒崎くん」
「はい、先生」
「今日、私も行くわ」
言葉はあまりにも自然で、だからこそユウトは一瞬だけ反応が遅れた。
「え?」
マリナは椀を置き、まっすぐこちらを見る。
「邪魔をしに行くわけじゃないわ。パーティの動きとして見ておきたいの」
「先生が?」
「ええ」
その答えに迷いはなかった。
「新しい使い方を覚えるなら、どういう形で戦術に組み込めるかも一緒に見たいもの。それに」
そこでほんの少しだけ言葉が止まる。
「黒崎くん一人で聞いて帰ってきて、あとから説明されるより、最初から見ていた方が早いでしょう」
理屈としてはその通りだった。けれど、それだけではないのだろうとユウトにはわかった。心配もしているのだ。言葉にはしないが、月曜の朝から師匠と副官さんに絞られに行く自分を、一人で行かせたくない気持ちもきっとある。
レイナがすぐに口元を押さえた。
「へえ」
「何よ」
マリナがわずかに眉を寄せる。
「いえ、先生もちゃんと行くんだなあって」
「行くわよ。パーティの事なんだから」
その答え方はいつもの先生だった。けれどレイナは、言葉の端よりもその声の柔らかさを面白がっているようだった。
壁際で盾の革紐を確かめていたダインが、低く口を開く。
「いい」
短い一言に、全員がそちらを見る。
「見ておくべきだ。使い方が変わるなら、戦い方も変わる」
続けて、ガルドも頷いた。
「先生がいるならちょうどいいな。ユウトが新しい事を覚えても、戦いの中でどう使うかは別だ。そこを繋げられる奴が一緒に見てるなら無駄がない」
「そういうこと」
マリナが静かに言う。
ユウトは小さく息を吐いた。心配されているのもわかるし、戦術の話としても正しい。何より、先生が一緒に来るのが嫌ではなかった。それどころか、少しだけ安心した自分がいる。
「わかりました。お願いします」
そう答えると、マリナは小さく頷いた。
「ええ」
借家を出る時、月曜の街はまだ静かだった。金曜から日曜のような慌ただしさはない。石畳の上には朝の光が薄く広がり、荷車の数も少ない。休みの日らしい空気だ。
だがユウトの足取りだけは、休みとは程遠かった。
マリナと並んで歩く。後ろからはガルドとダインがついてくる。レイナは今日は借家へ残るらしく、戸口で「頑張ってきてくださいね」と笑って送り出していた。その言い方が妙に軽かったせいで、逆に今日の訓練の重さを思い出してしまった。
師匠の店へ向かう道の空気は、静かなのに少し張っている。営業の朝ではないから、通りを行く人々の足取りもゆるい。肉屋の前には畜産の肉と魔物の肉が並び、青物屋では葉のついた野菜が朝露を残している。そういう日常の景色の中を歩きながら、ユウトの頭の中では、これから何を教わるのかという思いだけが繰り返されていた。
「そんなに固くならなくていいわよ」
横からマリナが言った。
声はやわらかい。だが、それだけでかなり気持ちがほぐれる。
「固くなってますか」
「少しね」
「……やっぱりわかりますか」
「わかるわよ。黒崎くん、何か構えてる時は肩が上がるもの」
言われてみて、たしかに肩へ少し力が入っているのに気づく。息をゆっくり吐くと、胸の奥の詰まりが少し薄れた。
「先生、今日ほんとに見るだけですか」
「そうね。見るだけ、のつもりよ」
「つもり?」
「必要なら言うかもしれないけど」
そこで少しだけ口元を緩める。
「でも、基本は見て考えるわ。黒崎くんの新しい動きを、どう使うか」
その言い方に、ユウトは思わず小さく笑った。先生らしい。心配でついて来るのだろうに、最後は結局そこへ落ちる。
店へ着くと、戸はもう開いていた。営業日ではないから客の姿はない。中へ入ると、焼き菓子の残り香と、木の棚に染みついた甘い匂いが鼻へ届く。静かな店内の奥で、師匠がすでに腕まくりをして立っていた。副官さんはその少し後ろで、いつものように表情を変えずにこちらを見た。
「おう」
師匠が先に声を上げる。
「ちゃんと来たな」
「おはようございます、師匠」
「おはようさん。今日は見学付きか」
そう言って視線をマリナへ向ける。
マリナはまっすぐ頭を下げた。
「邪魔はしません」
「先生が来るなら都合はいいですね」
副官さんがそう言った。
「戦いの中でどう見えるかを、その場で判断できます」
「だから来たのよ」
マリナの返しは静かだった。けれど、目にはしっかりとした意志がある。
師匠が手を打つ。
「ほな、始めるか」
場所は店の裏手にある空き地だった。訓練のために使うには十分な広さがあり、地面は踏み固められている。朝の光はもうそこまで届いていて、足元には短い影が落ちていた。
ユウトがそこへ立つと、師匠が正面に立つ。
「今までのお前の使い方は、雑や」
開口一番、それだった。
ユウトは目を瞬かせる。
「雑、ですか」
「そうや」
師匠はあっさり頷く。
「強いし、使えとる。せやけど、雑や。一個の大きい手としてまとめて使っとる」
そこで自分の両手を軽く上げる。
「今日は分ける」
「分ける?」
「右と左や」
その言葉に、ユウトは一瞬だけ考えた。右手と左手。もちろん両方ある。けれど、無限収納を使う時にそこを強く意識したことはほとんどなかった。触れて、通して、切る。必要な場所へ必要なだけ。それで十分だと思っていた。
師匠が続ける。
「右は切る。通す。貫く。一点でええ」
次に反対の手を上げる。
「左は広く使う。触る、削る、崩す。面や」
そこで少し笑う。
「今までのお前は、これをまとめてぐちゃっと一個にしとった」
言われてみれば、否定は出来なかった。切る時も、削る時も、意識の根っこは一つだった。片方で何かをしながらもう片方で別のことをするという感覚は、ほとんどなかった。
「まずは分けろ」
師匠の声が少し低くなる。
「右は右。左は左。別もんや思え」
そこから始まった訓練は、最初の一歩から壁だった。
木片がいくつか用意される。師匠がそれを地面に並べた。
「右で一個、切れ」
ユウトは右手へ意識を寄せる。いつも通りにやれば切れる。そこは問題ない。木片の端へ触れ、薄く通す。軽い音と一緒に木片が二つに割れる。
「はい」
「次」
師匠が別の木片を指す。
「左で、広く削れ」
左手へ意識を移す。今度は切るのではなく、面で触れて削るつもりで使う。やろうとして、わずかに遅れた。感覚が右と同じ動きへ寄ろうとするのを、無理に押し戻す。結果、削れたことは削れたが、端が欠けたような不格好な形になった。
「……下手ですね」
思わず自分で口にすると、師匠が笑う。
「そら初めてやからな」
副官さんが横から冷静に言う。
「片方を使っている間、もう片方の感覚が消えています」
ユウトは息を吐く。やっぱり見抜かれている。
「同時にやろうとしすぎてるんですかね」
そこでマリナが口を開いた。
「黒崎くん」
「はい、先生」
「今、右に意識を寄せたまま左を使おうとしてるでしょう」
その言葉に、ユウトははっとした。たしかにそうだ。右でやる時の感覚が基準になっていて、左をその変形として使おうとしていた。
「両方同時にやろうとしてるんじゃなくて、片方に引っ張られたままもう片方も使おうとしてるのよ」
「……あ」
「別のものとして考えて」
その言い方は、先生らしい翻訳だった。師匠の言葉は感覚の話として入ってくる。先生の言葉は、それを頭の中で整理してくれる。
もう一度やる。
右は切る。左は広く触る。そう分けて考える。すると今度は少しだけマシになった。左で削った木片の表面が、さっきより滑らかに削れている。
師匠が頷く。
「そうや」
だがそこで終わらなかった。
「……せやけど、それやとまだ半分や」
「半分?」
「右は切断、左は範囲。今はそれでええ」
師匠はそこで少しだけ目を細めた。
「でも固定すんな。入れ替えろ」
ユウトが眉を寄せる。
「え?」
「右でも広く使え。左でも切れ。どっちでも出来るようにせえ」
それは、さっきよりもずっと難しく聞こえた。
右は切る、左は範囲。そこまでならまだわかる。だが、それを今度は逆にする。右で広く、左で切る。それでは何のために分けたのかと思いそうになるが、違うのだろう。状況に合わせて入れ替えられるようになれ、という意味だ。
「それが出来んと、結局固定や」
師匠が言う。
「固定は読まれる。崩される。道具として半端や」
やってみる。
左で切る。右で範囲。
それだけで感覚が一気に崩れた。
切ろうとした左が、右のやり方に引っ張られる。右で広く触ろうとすると、今度は左に意識を取られて全体が止まる。頭の中で左右が絡まり、いつもの無限収納そのものまでぼやけそうになる。
副官さんが淡々と言った。
「今の状態では実戦では使えません」
悔しいが、その通りだ。
「黒崎くん」
またマリナの声が来る。
「“右でやる”って決めてるから崩れてる」
その一言が胸へ刺さる。
ユウトは左手を見る。次に右を見る。たしかに、知らず知らずのうちに「右が主」「左が補助」という感覚が染みついていた。スキルそのものに右も左もないのに、自分の身体の使いやすさで勝手に序列を作っていたのだ。
「どっちでも同じことが出来ないと意味がないわ」
マリナが静かに言う。
そこでようやく、師匠が言いたいことが頭の中で一本に繋がった。
再び木片の前に立つ。
右で切る。今度は左でも切る。左手の感覚はまだ鈍い。だが、薄く通す意識だけに絞れば、なんとか切れた。切り口は右より荒い。けれど、たしかに成立した。
師匠が口元を上げる。
「それや」
その一言で、身体の奥へ小さな手応えが落ちる。
午前中の訓練は、そこからひたすらその感覚を身体へ落とし込む作業だった。
右で切る。左で切る。右で広く触る。左で広く触る。分ける。入れ替える。崩れる。やり直す。繰り返すほど、頭の方が先に疲れてくる。腕や脚ではなく、意識そのものが削られていくような疲れだった。
短い休憩を挟んだ時には、喉が妙に渇いていた。座っただけで脚が重い。まだ昼前だというのに、身体の内側に熱が溜まっている。
師匠が水を飲みながら言う。
「今の段階で出来とる必要はない。せやけど、分かれてないと次行かれへん」
「次、ですか」
「射程や」
その言葉で、ユウトは少しだけ背筋を伸ばした。今までの自分の射程は、自分の周囲、おおよそ一メートルほど。触れられる範囲でしか使えない。そこが一段広がるなら、戦い方はかなり変わる。
だが師匠はすぐに釘を刺した。
「勘違いすんなよ。伸ばすんやない」
「え?」
「触れる場所を変えるんや」
そこで右手を軽く上げる。
「お前の手ぇを、向こうへ置くんや」
最初、その言葉の意味が掴み切れなかった。伸ばすのではない。置く。離れた場所へ触れる感覚。
マリナが、少し考えてから口を開く。
「触る場所を変えるってこと?」
師匠が頷く。
「そういうことや」
その一言で、少しだけ見えた。途中を線で伸ばすのではなく、接触点そのものを離れた位置に作る。だから、間に何かがあっても関係ない。そういう話なのだろう。
木片が、今度は少し離れた位置に置かれる。今のユウトの射程、約一メートルから、ほんの少しだけ外れた場所だ。
「触れ」
師匠が言う。
ユウトは意識を向ける。だが、届かない。伸ばそうとすると、すぐに感覚が切れる。線で行こうとしているのだろう。師匠が言ったのはそれではない。
「置け」
もう一度。
ユウトは呼吸を整える。触る場所を変える。そこに手を置く。その感覚だけを思う。すると一瞬だけ、木片の表面へ薄く意識が乗った気がした。すぐに消えたが、確かに何かが触れた。
「今の……」
マリナが小さく息を飲む。
「そうや、それや」
師匠の声が飛ぶ。
もう一度やる。
今度は右で、薄く通す。一瞬だけ離れた位置に触れ、そのまま木片の表面が浅く削れた。切断とまではいかない。だが、離れた場所へ「触れた」感覚ははっきりあった。
副官さんが静かに言う。
「成立しています」
その言葉が、昼過ぎからの訓練をさらに厳しくした。
午後は、副官さん相手の実戦訓練に切り替わる。
空き地の中央へ立つ副官さんは、いつも通り静かだった。木剣を手にしているが、その立ち方だけで十分に圧がある。対するユウトは、右と左の感覚をまだ整理し切れていない。離れた場所へ触れる感覚も、一瞬掴んだだけだ。それでも、やるしかない。
最初の一合目で、それが甘い考えだとわかった。
副官さんの踏み込みは速いのではない。無駄がないのだ。間合いへ入る足、揺れない重心、木剣の軌道。全部が最短で来る。
ユウトは左で広く触れて防ぎ、右で通そうとした。だが右へ意識を寄せた瞬間、左の感覚が薄くなる。防ぎ切れない。副官さんの木剣が腕の外側を掠め、そのまま体勢を崩された。
「遅いです」
副官さんの声は平坦だ。
「片方しか使えていません」
立て直す。もう一度。今度は右を切断、左を範囲と固定してみる。だが、それでは副官さんの動きに対応し切れない。読まれたように軌道を変えられ、逆側へ回られる。左右を入れ替えようとした瞬間、意識がもつれ、今度は足が止まった。
「パターン化しています」
木剣の柄が胸元を押し、ユウトは半歩下がらされる。
悔しい。だが、悔しがる暇すらない。
「黒崎くん」
マリナの声が飛ぶ。
「防御に寄りすぎ」
息が荒いまま、そちらを見る。
「左で触った後、右が遅れてる」
その一言で、やるべき事が見えた。
次の踏み込みに合わせ、左で範囲的に触れる。正面から全部を止めるのではなく、相手の軌道を広く撫でるようにずらす。そこで右を通す。副官さんの木剣の端、その先端に一瞬だけ触れた。ほんのわずかだが、削る寸前までいった感触がある。
副官さんが一歩引いた。
「今のは悪くありません」
初めての明確な評価だった。
胸が熱くなる。だが次の瞬間には、また詰められる。
後半の最後、副官さんは明らかに速度を上げてきた。容赦ではなく、基準を見せるための圧だった。
ユウトは右と左を入れ替えながら使う。左で切る。右で広く触る。さらに離れた位置へ触れようとする。何度かは成立した。副官さんの袖先、木剣の側面、足元の少し前。置いた接触点が一瞬だけ形になる。
だが、持たない。
呼吸が乱れる。頭の処理が追いつかなくなる。左右の切り替えが遅れ、次に何をするか決める前に副官さんが入ってくる。
最後は一方的だった。
左で広く触れて防ごうとした瞬間、読まれて軌道を変えられる。右を通そうとした意識に引っ張られ、足元が止まる。副官さんの木剣が肩口を捉え、そのまま体勢を崩され、ユウトは地面へ片膝をついた。
呼吸が荒い。胸が熱い。腕も脚も重い。なにより頭が疲れていた。
副官さんが木剣を下ろし、静かに言う。
「まだまだですね」
悔しいが、反論は出来なかった。
その時、すぐ近くで足音が止まる。マリナだった。
「立てる?」
声は静かだ。心配はしているだろうが、必要以上に甘くはない。そこが先生らしかった。
「……はい」
手をついて立ち上がる。脚が重い。だが、まだ終わっていない。
師匠が口元を上げる。
「ええやん」
息を整えるユウトへ向けて、気楽な調子で言う。
「左右分けて、入れ替えも出来とる。入口には立っとるで」
副官さんは冷静なままだった。
「基礎は未完成です。ですが、可能性は十分あります」
それからマリナが続けた。
「次は戦術として組めるわ」
その言葉が一番深く刺さった。
出来た、ではない。戦いの中で使える形になる。先生がそう言うなら、この訓練はちゃんとパーティの先へ繋がるのだろう。
夕方の空気は、昼より少しだけやわらかかった。
訓練が終わり、裏手の空き地には長い影が落ちている。身体は重い。呼吸もまだ完全には整っていない。だが、右と左の感覚だけは妙に残っていた。切る。広く触る。入れ替える。離れた場所へ触れる。まだ全部が不安定で、少し気を抜けばすぐ崩れる。けれど、何もなかった朝とは違う。
自分の手を見る。
右手を握る。左手を開く。そこで初めて、本当に別のものとして扱い始めた感覚があった。
師匠が、その横から軽く声を投げる。
「……ほな」
少しだけ間を置く。
「火曜もおんなじ時間に店来いや」
ユウトは一瞬だけ反応が遅れた。
「え?」
師匠が笑う。
「今日で終わりや思っとる顔しとるな」
マリナが当然のように言う。
「当然でしょ」
「今日のは入口や」
師匠はあっさり続けた。
「使えるようになるまでやるで」
副官さんも横から淡々と重ねる。
「明日も同じ強度で行います」
ユウトの顔が、少しだけ引きつったのが自分でもわかった。だが、逃げたいとは思わない。きつい。かなりきつい。けれど、面白いのだ。今までの無限収納が、まるで違う形へ開き始めているのがわかる。
「……はい」
そう答えると、師匠は満足そうに頷いた。
帰り道、夕焼けの色が街へ落ちていた。石畳の上に長い影が伸び、店じまいを始めた通りからは焼き肉の匂いや人の声が流れてくる。
マリナが横を歩いている。しばらく言葉はなかった。訓練の後の疲労が二人の間に静かに沈んでいる。
やがて、マリナが先に口を開いた。
「大丈夫?」
その声はやわらかい。
「きついですけど」
ユウトは正直に言った。
「……面白いです」
そう答えると、マリナが少しだけ笑った。
「なら大丈夫ね」
その笑い方が妙に優しくて、胸の奥の疲れが少しだけ軽くなる。
「今日の動き、ちゃんと意味あったわ」
マリナは前を向いたまま続けた。
「今すぐ使えるところまで行ってない。でも、次は使える」
「先生がそう言うなら、そうなんだと思います」
「ええ。次は戦いの中で形にするわよ」
その言葉に、ユウトは小さく頷いた。
月曜は終わった。だが、これは終わりではない。
右も左も、まだ思い通りには動かない。離れた場所へ触れる感覚も、一瞬掴めるだけだ。それでも、確かに前へ進んだ手応えはあった。
そして明日もまた同じ時間に、同じ場所で叩き込まれる。
その事実だけが、夕焼けの中で妙にはっきり残っていた。




