第111話 アップルパイに続く持ち帰り商品が、思ったよりすんなり売れた件
金曜の朝は、まだ空気の底に夜の冷えを少し残したまま始まっていた。
借家の戸を開けると、外の空気がそのまま頬を撫でる。石畳は乾いているのに、靴底へ返ってくる感触はひやりと硬く、歩き始めたばかりの身体を静かに目覚めさせた。空は高く晴れている。だが陽はまだ低く、建物の影は長い。通りの先からは荷車の軋む音が聞こえ、遠くのパン屋から焼きたての匂いが薄く流れてくる。交易都市の朝はいつも早いが、金曜の朝はその中に少しだけ忙しなさが混じる。今日からまた、魔王のケーキ屋の営業が始まるからだ。
ユウトは肩へかけた袋の位置を直しながら、無意識に小さく息を吐いた。
火曜と水曜の討伐、木曜の準備日を終えて迎える金曜。流れとしてはいつも通りのはずなのに、胸の奥がほんの少し落ち着かない。理由ははっきりしていた。昨日決まった、新しい持ち帰り用の甘味。それが今日、初めて客の前へ出る。
隣を歩くレイナが、横目でこちらを見てすぐ笑う。
「ユウトくん、やっぱり気にしてますね」
「何が」
「新しいのです」
朝の冷たい空気の中でも、その声は妙に弾んでいた。自分だけではないのだろう。レイナもまた、あの甘味がどう動くのか気になっている。
「まあ、気にはなるよ」
素直にそう言うと、レイナが少しだけ目を丸くした。
「今日はちゃんと認めるんですね」
「認めるだろ。昨日あれだけ形にしたんだし」
「そうですけど」
レイナは口元を押さえて笑う。
「でも、先生に言われる前に認めるの珍しいです」
前を歩いていたマリナが、そこで振り返った。
「聞こえてるわよ」
「聞かせてるんです」
レイナが悪びれもせずに返すと、マリナは小さく息をつく。その仕草は呆れているようにも見えるが、口元は少しだけ柔らかかった。
「気になるのはいいけど、まずはいつも通りよ」
「はい、先生」
「今日は金曜。新しい物に目が行くのは当然だけど、それで全体の流れを崩したら意味がないわ。開店から売り切れまで、いつも通り回せることが先」
「わかってます」
そう答えながらも、ユウトは胸の奥のざわつきを完全には消せなかった。だが、それでいいのだとも思う。気にならない方が不自然だ。
後ろから、落ち着いた足音が追いついてきた。
「顔を見ればわかる」
ガルドが並ぶ。
「新しいやつが気になってるな」
「そんなに出てますか」
「少しな」
短く返して、そのまま前を向く。
「気にするのは悪くない。だが、手を止める理由にするな。見るために気にしろ」
ダインが低く続けた。
「客も流れだ」
レイナが少し笑う。
「また討伐みたいな事言ってますね」
「違わん」
ダインはそれだけ言った。
たしかに違わなかった。相手を見る。流れを見る。崩れる前を読む。森でも店でも、結局はそこへ行き着くのかもしれない。火曜と水曜の感覚が身体に残っているせいか、ダインの言葉はすんなり入ってきた。
魔王のケーキ屋の建物が見えてくると、店の前にはもう数人の人影があった。まだ列と呼ぶほどではない。けれど、開店前から足を運ぶ客の顔はいつも決まっている。焼きたての匂いに惹かれて来る者、売り切れる前に確実に手に入れたい者、あるいはただこの店の空気が好きで早く来る者。それぞれ理由は違うのだろうが、戸の前に立つ顔には少しだけ期待がにじんでいる。
店の中へ入ると、甘い匂いが一気に鼻へ広がった。
焼き菓子の香ばしさ、果実の濃い甘み、温めた乳のやわらかな匂い。営業前の静かな店には、もうそれだけで客を呼べそうな気配が満ちている。
「おはようございます!」
元気な声が飛んできた。
作業台の少し奥で、山本みなみが慌てたように手を止めてこちらを向く。前掛けはきちんと結ばれ、髪もまとめられている。少し早く来て準備を手伝っていたのだろう。頬にうっすら粉が付き、肩にはまだ少し力が入っていた。
「おはよう、山本さん」
マリナがそう返すと、山本さんはすぐ頭を下げた。
「おはようございます。あの、今日もよろしくお願いします」
言葉はきちんとしているが、やはり少し早い。緊張しているのがわかる。
「こちらこそ」
レイナが笑いながら言う。
「朝からもう動いてたんですね」
「ちょっと早く来た方が落ち着くかなって」
山本さんはそう答えてから、視線を作業台の方へ戻した。
その先では、師匠がすでに腕まくりをした状態で立っている。副官さんは会計台の横で帳面をめくり、商品の数と金額の確認をしていた。
師匠がこちらへ目を向けるなり、口の端を上げる。
「おはようさん。なんや、今日は全員ちょっと締まっとるな」
「おはようございます、師匠」
ユウトが頭を下げると、師匠はにやりとしたまま続けた。
「お前はちょっと落ち着かん顔しとるけどな」
やはりそこを見抜かれる。ユウトが苦笑すると、師匠はおかしそうに肩を揺らした。
「気にすんなとは言わん。新しいもん出す日やしな。でも焦るな。売れるもんはちゃんと売れる」
副官さんは帳面を閉じる。
「配置は昨日決めた通りです。初日なので、まずは動きを見ます」
それだけ言って視線を店内へ走らせた。誰がどこに立つか、何がどの位置にあるか、その確認だけで十分だというような顔だった。
カウンターの上には、今日並べる商品がすでに整っていた。
定番のケーキが並び、その少し横にアップルパイが置かれている。香りも見た目も強く、持ち帰り商品としてはすでに店の顔のひとつだ。そして、その少し離れた位置に、新しい持ち帰り用の甘味が並んでいた。
華やかさは控えめだ。だが、しっかり焼いた表面と、詰まった中身の重みを感じさせる形には、別の魅力がある。アップルパイが「今すぐ食べたい」と思わせるのに対して、こちらは「あとで食べるために持って帰りたい」と思わせる顔をしていた。
山本さんが、その皿の位置をもう一度だけ確かめる。
「……こっちの方が、見えやすいですよね」
少し不安そうにユウトを見る。
「うん。アップルパイを見たあとに、もう一つ持ち帰るならって目に入る位置だと思う」
「よかった」
小さく息を吐いたが、その直後にはもう炉の方へ向き直っていた。今日の自分の役目が、どこにあるのかをちゃんとわかっているのだろう。
師匠がその背中を見て、面白そうに笑う。
「ちゃんと新人の顔しとるな」
山本さんがぴくりと肩を揺らした。聞こえたらしい。
「え、えっと……」
「悪い意味ちゃう。よう頑張ろうとしてる顔や」
その言葉に、山本さんは少しだけ頬を赤くした。
「が、頑張ります」
営業前の最後の時間、店の中には静かな緊張があった。外からは客の足音が近づいてくる。中では誰もが自分の持ち場へ入り、今日の流れを頭の中でなぞっている。
ユウトは師匠の横で最後の仕上げを手伝っていた。布を動かし、皿を出し、必要な道具を揃える。木曜の準備日の感覚がそのまま残っているのか、手の動きがよく繋がる。どこで何が要るか、身体が先に知っている感じがあった。
「ユウト、そっちの皿」
「はい」
「その次、包み」
「はい」
師匠の声へ、ほとんど間を置かずに手が動く。そこへ、少し遅れながらも山本さんが入ってくる。
「師匠、次の型こっちでいいですか」
「ええで。火、見ながらな」
「はい」
まだ声に硬さはあるが、逃げてはいない。流れの中へ入ろうとしているのがわかる。
やがて、戸が開いた。
「おはようございます」
マリナの落ち着いた声が店へ広がる。
最初に入ってきたのはいつもの常連だ。近所の奥さん、仕事前らしい男、少し身なりのいい女性。みんな、まずは店の匂いを吸い込むようにしてから商品へ目を向ける。アップルパイがある位置はもう知られている。視線は自然にそこへ流れ、そのあとで他の商品へ移る。
新しい甘味は、最初の数分はまだただそこにあるだけだった。
だが、それでも視線は確実に止まる。
「これは新しいの?」
年配の女性が聞いた。
レイナが笑顔で答える。
「はい。持ち帰りやすくて、少し日持ちもする甘味です」
「日持ちするの」
「ええ。すぐ食べなくても大丈夫ですし、少しずつでも食べやすいですよ」
女性はアップルパイと見比べる。
「そうねえ。アップルパイは今日の分にして、こっちは明日にしようかしら」
「そういう買い方も出来ます」
マリナが自然に言葉を継ぐ。
女性はにっこり笑って、両方を選んだ。
その最初の一つが動いた瞬間、ユウトは作業台の横からさりげなくそちらを見た。ほんの一つだ。それでも、買う理由がちゃんと分かれているのが客の言葉からはっきり出たのは大きかった。
次に、革鎧姿の冒険者風の男が声をかける。
「これ、持って歩けるのか?」
レイナが答えようとしたが、少しだけマリナの方を見る。マリナはほんのわずかに頷いた。行っていい、という意味だ。
「崩れにくいですし、持ち帰りやすいですよ」
レイナが言う。
「アップルパイよりは、持って帰るのに向いてます」
「味はどうだ」
「しっかり甘いです。少しずつでも満足感あります」
男は少し考え、アップルパイではなく新しい方へ手を伸ばした。
「じゃあ今日はこっちだな。歩いて戻る途中に崩したくねえ」
そのやり取りを聞いていた別の客が、すぐ横から言う。
「じゃあ、うちも一つ追加で」
そこから、流れがじわじわと変わり始める。
新しい商品は、いきなり店の顔になるわけではない。だが、誰かが買い、その理由が口にされるたび、別の客の中にも「自分ならどう使うか」が生まれていく。
「これ、家で少しずつ食べるのに良さそうね」
「子どもがこういうの好きそうだ」
「明日分に取っとくのもありか」
そういう声が少しずつ増えていった。
レイナの説明も、その流れに合わせて変わっていく。
「しっかりした甘さがあります」
「少しで満足感があります」
「持ち帰って、あとで食べるのにも向いてます」
マリナは客の顔を見て、勧め方を微妙に変えていた。手土産にするならアップルパイ。自宅でゆっくり食べたい客には新しい方。押しつけるのではなく、客が自分で選びやすいように言葉を添えるから、店の空気が重くならない。
作業台の方では、山本さんが必死に焼きを回していた。
「次、入れます!」
型を受け取り、すぐ炉の前へ出る。火魔法で熱を整える時、まだ少し肩に力が入っている。だが、手を止めてはいない。師匠の横で焼きの補助へ入るのは、まだ緊張するのだろう。それでも、置いていかれまいとする意志がはっきり見えた。
「山本さん、そっちの包み下げて」
「はい!」
ユウトが声をかけると、返事は早い。動きもちゃんとついてくる。
「焦るなよ」
師匠が言う。
「はい!」
「返事はええから、火や」
「は、はい!」
そのやり取りに、レイナが少しだけ肩を震わせた。笑っているのだろう。けれど、誰も山本さんを茶化すわけではない。あの必死さは、見ていてむしろ嫌いになれなかった。
ガルドは外の列と入口の流れを見て、詰まりそうなところで自然に客へ声をかけている。ダインは無言のまま足元や棚の周りを見て、邪魔になるものを少しずつ動かしていた。副官さんは会計台の横で、勘定を合わせながら全体の売れ方を静かに見ている。
店が回っていく。
気づけば、いつもの金曜らしい熱が店内に満ちていた。
レイナがふいに小さく息を飲んだ。
「先生」
マリナへ寄って、声を潜める。
「これ、思ったより減ってます」
マリナがさりげなく視線を落とす。たしかに、新しい商品の皿の上が予想より早く軽くなっていた。
「ほんとね」
その声には、抑えていても少し弾みがあった。
師匠も作業台から顔を上げる。
「おいおい、ほんまやな」
面白そうに笑う。
「初日でこれは悪ないやん」
ユウトは思わず棚の方を見た。ちゃんと減っている。しかも、アップルパイの勢いを削がずに動いている。
その瞬間、山本さんも気づいたらしい。焼き上がった型を持ったまま、目だけが棚へ向いた。
「……あ」
一瞬だけ手が止まりそうになる。
だが次の瞬間、唇を引き締めた。
「まだ焼きます」
その声は、さっきまでより少し強かった。
「なくなったら困りますし」
師匠がその背中を見て笑う。
「ええやん。そういう時に止まらんのは大事や」
山本さんは振り返らず、次の型へ手を伸ばした。緊張している。けれど、それに飲まれて止まるのではなく、むしろ手を動かす方へ使っているのがわかった。
昼が近づくにつれて、店の中の熱はさらに増していく。
アップルパイはいつも通り強い。焼きたての香りと、目に入った時の贅沢感で客を引き寄せる。手土産にも、自分へのご褒美にも選ばれる。
だが、新しい持ち帰り商品も、その隣でちゃんと居場所を作っていた。
「今日はこれも持って帰ろうか」
「アップルパイは今日、こっちは明日かな」
「家の人、こういうの好きなんだよな」
そんな声が何度も聞こえる。
別の理由で買われている。
それが何より大きかった。
追加で焼いた分も、出せばまた動く。全部が一気に消えるわけではない。だが、初日としては十分すぎるほどの手応えがある。
作業台の流れも良かった。
ユウトの手はよく動き、師匠はその分だけ次へ集中出来る。山本さんはその横で、少し遅れながらも焼きの補助へ食らいついてくる。固さはまだ抜けないが、朝よりずっと流れへ馴染んでいた。
「山本さん、そっち熱い」
「はい!」
「見えてるならええ」
師匠の短いやり取りに、山本さんが何度も頷く。その頷き方ひとつにも必死さがにじむ。新人らしい不器用さだが、それが逆に今の位置をよく表していた。
最後の客を見送る頃には、いつもの金曜らしく昼前後で売り切れが近づいていた。定番が減り、アップルパイも残り少なくなり、新しい商品も初日としてはしっかり数を動かしている。
戸を閉めると、外のざわめきが急に遠くなった。
店の中へ残るのは、甘い匂いと疲れた呼吸だけだ。
副官さんが帳面を開き、数字を確認する。
「初日としては十分です」
いつも通り淡々とした声だった。
「商品として成立しています」
レイナが、ぱっと顔を明るくする。
「やっぱり当たりですね」
マリナも穏やかに頷いた。
「ええ。しかも自然に入ったわ。無理に押さなくても、欲しい人がちゃんと買っていったもの」
師匠が腕を組む。
「アップルパイと食い合ってへんのがええな。持ち帰りって枠は同じでも、買う理由が別や」
ガルドが言う。
「悪くない。客が選びやすい」
「選べるのはいい」
ダインも短く続けた。
その少し後で、山本さんが大きく息を吐いた。
「……よかった」
小さいが、肩から力が抜けるのが見て取れた。
師匠がその顔を見て笑う。
「初日でそれだけ回れば十分や。よう踏ん張ったな」
「わ、わたし、途中ちょっと手が止まりそうになりました」
「止まらんかったやろ」
「……はい」
「ならええ」
その一言で、山本さんがようやく少し笑った。
片付けを終えて店を出る頃には、陽は傾き始めていた。昼の温かさを少し残した石畳が、靴底へやわらかく返ってくる。朝よりも人通りは多く、街には夕方へ向かうざわめきが広がっていた。
レイナが大きく伸びをする。
「また増えましたね、持ち帰りの商品」
「アップルパイとは違う売れ方をしてたわね」
マリナが言う。
「家であとで食べる用に選んでる人が多かった」
「悪くない流れだ」
ガルドが頷く。
「土曜は今日よりもっと早く動くかもしれん」
「その可能性はあります」
副官さんが帳面を抱えたまま言う。
「数の配分は明朝見直します」
その少し後ろで、山本さんがぽつりと呟いた。
「……売れていくの、すごかったです」
レイナが振り向く。
「わかります。なくなるの早いと焦りますよね」
「はい。しかも、自分が焼いた分も混ざってると思うと余計に」
山本さんは少しだけ照れたように笑った。
「でも、嬉しかったです」
その言葉には飾りがない。
マリナがやわらかく目を細める。
「初日としては十分すぎるぐらいだったもの」
「そうですね……」
山本さんは頷き、それから少しだけ背筋を伸ばした。
「明日、もっと頑張ります」
朝より少しだけ強い声だった。まだ新人らしい硬さはある。けれど、その中へ確かな手応えが混じり始めているのがわかった。
ユウトは歩きながら、その声を聞いていた。
火曜と水曜の討伐、木曜の準備、金曜の営業。その流れの中で、自分の感覚が店へ返ってきた実感はたしかにある。だが、それだけではない。山本さんがこの店の流れの中で、ちゃんと自分の位置を掴もうとしているのも今日の金曜にはしっかり混じっていた。
アップルパイに続く持ち帰り商品。
それが今日、ちゃんと一歩目を踏み出した。
明日は土曜だ。もっと忙しくなる。だが、その忙しさはきっと悪くない。そう思えるだけの手応えが、今日の一日には確かにあった。
借家の灯りが見えてくる。その隣にはガルドの家の明かりもある。今日もまた、一日が次へ繋がった。その感触を胸の中で静かに確かめながら、ユウトは夕暮れの石畳を歩いていった。




