第110話 討伐の次の日なのに、なぜか保存の利く甘味を考える事になった件
木曜の朝は、討伐の熱が少しだけ身体に残ったまま始まった。
借家の窓から差し込む光はやわらかかったが、板張りの床に落ちる空気はまだひんやりしていて、素足の裏へ朝の冷えを伝えてくる。卓の上には朝食の名残があった。木皿の上に残った小さなパン屑、湯気の消えた椀の底に薄く残る汁、布で拭いたばかりの卓に残る水の筋。そういう静かな朝の手触りの中にいると、昨日まで森で踏みしめていた湿った土の感触が、かえって生々しく思い出される。
ユウトは椅子を少し引いて立ち上がり、肩を回した。火曜、水曜と討伐に出たせいで、腕の付け根から背中にかけて鈍い張りが残っている。痛みというほどではないが、踏み込みと受け身と、相手へ触れる寸前の緊張を何度も繰り返した身体特有の重さだった。だが、その重さは嫌ではない。むしろ、余計な力が抜けて芯だけが残ったような感覚があった。
水場で器を洗っていたレイナが、振り返りもせずに言う。
「昨日より、起きた時の感じが楽でした」
その声には、まだ眠気の欠片が少しだけ残っていたが、同時に妙な明るさも混じっていた。
マリナが椀を重ねながら目を細める。
「昨日は帰ってきた時、脚が張るって言ってたのに」
「張ってますよ。張ってるんですけど、嫌な感じじゃないんです」
レイナは濯いだ器を布へ伏せながら笑った。
「森でちゃんと動けた後って、こうなるんですね。身体は疲れてるのに、またすぐ動けそうな感じがします」
「わかる」
ユウトがそう返すと、レイナがこちらを見た。
「やっぱりですか?」
「うん。昨日までの感覚が、まだ手に残ってる」
言葉にした瞬間、ユウト自身もそれをはっきり自覚した。無限収納を通す時の意識、相手の体勢が崩れる前の重さの寄り方、踏み込みの深さ。そういうものが、朝の静かな借家の中でも身体から抜け切っていない。
壁際ではダインが盾の革紐を確かめていた。太い指で留め具を押し、締まりを見て、位置を直す。何度見ても同じように見える動作なのに、そこに迷いがないから目が離れない。
「浮かれるな」
低い声が落ちた。
レイナが口を尖らせる。
「浮かれてません」
「顔が緩い」
「それは少し否定できませんけど」
言い返しながらも、レイナの口元はやはり笑っていた。けれど、その空気は悪くない。昨日までの二日間で、五人ともそれぞれの手応えを掴んでいたからだろう。気の緩みではなく、確かな実感の上に乗った明るさだった。
その時、戸が二度叩かれた。
こつ、こつ、と一定の間隔で鳴る。強くも弱くもない。こちらの朝食後の流れを知っている相手の叩き方だ。
「ガルドさんですね」
マリナが言って戸へ向かう。開けると、朝の空気と一緒にガルドが入ってきた。自宅で朝食を済ませ、そのままこちらへ来たのだろう。髪は整っており、服にも乱れがない。隣の家から数歩歩いてきただけなのに、もう外へ出る顔をしていた。
「悪い、ちょうど片付いた頃だと思ってな」
「ちょうどよかったです」
マリナがそう返すと、ガルドは軽く頷いて中へ入る。
「娘に、今日も行くのかって聞かれた」
椅子へ腰を下ろしながら、ガルドがぽつりと言った。
「今日は討伐じゃないって言ったら、じゃあ早く帰ってきてって言われたよ」
レイナがふふっと笑う。
「いいですね、それ」
「いい話ですね」
ユウトがつられて言うと、ガルドはほんの少しだけ口元を緩めた。
「だから、今日は無駄に長引かせるつもりはない」
その一言で、部屋の空気が自然に切り替わった。火曜と水曜の討伐が終わり、今日は木曜だ。明日からはまた金、土、日と店が続く。その境目にある準備日を、どう使うか。気が緩むわけがない。
「師匠の店ですね」
ユウトが言うと、ガルドは頷いた。
「討伐の次の日だからって、店で動けなきゃ意味がない」
ダインも短く続ける。
「体の感覚は繋がっている」
その言葉に、ユウトは小さく息を吐いた。まさにその通りだと思った。森での踏み込みも、店の中で材料や道具を捌く動きも、結局は身体の使い方だ。昨日までの感覚を持ったまま店へ入れれば、何かしら違いは出るはずだった。
「じゃあ、今日はその確認ですね」
マリナが静かに言った。
「討伐の感覚を持ったまま、店でどこまで動けるか」
「そういうことだな」
ガルドは立ち上がった。
「行くか」
借家を出ると、木曜の街は少し落ち着いて見えた。金土日のような客の浮き足立った空気はまだなく、石畳の上には朝の光が淡く伸びている。荷車を引く音、店を開ける戸板の音、どこかで鳴る包丁の硬い響き。そういう街の朝の音の中を、五人は並んで歩いた。
通りの途中、肉屋の前を通り過ぎる。軒先には畜産の肉も、魔物の肉も同じように吊られていた。脂の匂いと、血の乾いた鉄っぽい匂い、それに香草の青い香りが混じって流れてくる。火曜と水曜に持ち込んだ獲物も、こうしてどこかで切られ、並び、誰かの食卓へ行くのだろう。そう思うと、昨日までの討伐がまた少し違う重みを持つ。
「昨日の角、きれいでしたもんね」
レイナが横を歩きながら言った。
「受付の人、かなり驚いてたし」
「値が上がるなら驚かれても構わん」
ガルドが淡々と返す。
「でも、ああいうのを見ると、昨日までの事が店にも返ってきそうな気がします」
レイナの言葉に、ユウトは少しだけ顔を上げた。たしかにそうかもしれない。相手を見て、必要なだけ通す感覚。無駄を削る意識。それは店の中でも役に立つはずだ。
「仕事が変わるだけだ」
ガルドが言った。
「やることは同じだよ。余計な動きを減らして、必要な所へ力を通す。それだけだ」
魔王のケーキ屋に着くと、まだ営業前の静けさが残っていた。戸は開いているが、客の姿はない。中へ入ると、焼き菓子の残り香と、粉と乳の混ざった匂いが鼻へ届く。営業日の熱気はない。けれど、静かな忙しさが店全体に満ちていた。
作業台の向こうで、師匠がすでに腕まくりをして立っている。副官さんは帳面を開き、材料箱の数を確かめていた。
そして、その少し横では、山本みなみが真新しい前掛けの紐を結び直していた。もう店の空気には入っているものの、まだ完全に馴染み切った動きではない。けれど、早めに来ていたらしく、布や器具の並びはすでに整っている。こちらに気づいた瞬間、少しだけ顔を明るくした。
「おはようございます!」
元気よく頭を下げる声が、静かな店の中へまっすぐ響く。
「おはよう、山本さん」
マリナが返し、レイナも笑顔で手を振った。
山本さんはすぐに視線を師匠の方へ戻したが、その横顔には少しだけ緊張が見える。料理スキルと火魔法を持つ彼女は、店の中ではまだ新人だ。だからこそ、早く来て、少しでも先に手を動かしていたのだろう。
師匠がこちらを見るなり、目を細める。
「お、森帰りの顔しとるな」
関西訛りのその声に、ユウトは自然と背筋を伸ばした。
「おはようございます、師匠」
「おはようさん。ちゃんと戻ってきたみたいやな」
軽い言い方だが、目はユウトの立ち方や肩の入り方まで見ている。
副官さんも顔を上げた。視線がユウトに止まり、次にレイナへ流れ、それから山本さんの手元を一度だけ見て、また帳面へ戻る。
「悪くないですね」
それだけ言って、すぐに次の箱へ手を伸ばした。だが、その一言が思ったより重く胸へ残る。副官さんが余計な言葉を使わないのはいつもの事だ。その人が悪くないと言うなら、本当に悪くないのだろう。
山本さんも、その一言を自分に向けられたわけではないとわかっていながら、少しだけ背筋を伸ばしていた。
「ほな、始めるで」
師匠が手を打つ。
「木曜は準備日や。明日からまた忙しいんやから、今日のうちに詰められるとこは詰める」
全員がそれぞれの位置へ散った。ガルドとダインは木箱や棚の確認に回り、マリナとレイナは店内の布や皿の準備へ向かう。ユウトは師匠の作業台へ入り、粉袋と道具を前へ引いた。山本さんはそのすぐ横で、火入れに使う器具や焼き型を確認し、師匠が次に何を求めるかを目で追っている。
最初に自分でもはっきり感じたのは、手の迷いが少ないことだった。
棚から型を取る。作業台へ置く。卵の籠を取る。布をどける。必要なものへ手が伸びる順番が、頭で考えるより先に身体で繋がる。昨日までの討伐で、踏み込みや位置取りに無駄が減ったせいだろうか。置く位置も、戻す位置も、少しだけ正確になっていた。
師匠がその横で生地を混ぜながら、横目だけを向ける。
「お、今日ちょっと手ぇ早いやん」
ユウトは思わず顔を上げた。
「そうですか?」
「そうや。取る、置く、戻すが詰まっとらん。森行った後って、たまにこういう日あるんや」
師匠はそう言いながらも手を止めない。泡立てた生地へ粉を落とし、木杓子で底から返す。その動きも無駄がなくて、見ているだけで勉強になる。
「昨日までの感覚が、まだ残ってるのかもしれません」
「それを店で使えるなら悪ないやろ」
師匠の声は軽いが、内容はそのままだった。
ユウトは頷き、次の器具へ手を伸ばす。必要な時に必要な場所へ。森で相手へ触れる前に集中した感覚が、今は型や道具へ向いている。それが不思議としっくり来た。
その横で、山本さんも忙しなく手を動かしている。まだ師匠やユウトほど流れの中へ溶け込めているわけではない。けれど、目はよく動いていた。必要になりそうな器具を先に寄せ、使い終わった型をすぐ引き、火を使う場面になれば一歩前へ出る。新人らしい硬さはあるが、置いていかれまいとする意志がそのまま動きに出ていた。
「山本さん、そっちの型お願い」
「はい!」
返事は早い。声だけでなく、手もちゃんとついてくる。
師匠が小さく笑う。
「ええ返事や。焦らんでええから、流れだけ切らすなよ」
「は、はい!」
少しだけ上ずった返事になり、それを聞いたレイナが遠くで吹き出した。
水場ではレイナが洗い物をしていた。器具へ張った生地の名残を、水でふやかしながら落としていく。前なら少し飛び散っていた水が、今日は妙に静かだった。流したいところへだけ水が走り、布巾の外へほとんど飛ばない。
それを見ていた副官さんが、帳面から目を上げる。
「無駄が減っていますね」
レイナがはっと顔を向けた。
「えっ、ほんとですか?」
「水の当て方です。余計な飛び方をしていません」
それだけ言って副官さんはまた帳面へ戻る。
レイナは少しだけ唇を噛んで笑った。
「昨日の名残ですね、これ」
マリナが皿を拭きながら答える。
「いいじゃない。討伐の後にそういう形で残るなら」
「でも、こういうところで褒められるのって、なんか変な感じです」
「あなたはすぐ顔に出るから、わかりやすいのよ」
「先生も結構嬉しそうですよ」
「私は普通よ」
そう言いつつ、マリナの口元も少しだけ緩んでいた。
そのやり取りを聞きながら、山本さんがちらりと水場の方を見る。自分も何か一つでも、昨日までとは違う成長を見せられるだろうか。そんな気配がその横顔に滲んでいた。だが、すぐに炉の前へ向き直り、火の様子を確かめる。今の自分に出来ることを外さない。その真面目さは、店の中ではむしろ頼もしかった。
準備は順調に進んでいた。
粉の袋を開け、卵を割り、型を並べ、生地を流す。店の中は静かなのに、動きは止まらない。外から見れば穏やかな木曜の朝でも、その内側では明日からの営業に向けた段取りが絶えず進んでいる。
その流れが一度だけ止まったのは、副官さんが材料箱の前で手を止めた時だった。
「……少ないですね」
声はいつも通り平坦だったが、その一言でユウトはすぐに顔を上げた。
副官さんの視線の先には、干した果実を入れた箱がある。木の蓋を開けたまま、中身を指先でかき分けて確認していた。
師匠もそちらへ顔を向ける。
「どれや」
「ドライフルーツです。思ったより減っています」
ユウトも近づいて中を見る。干した果実はまだ残っているが、週末分を全部回すには少し心許ない量だ。金土日は昼前後には売り切れる。師匠とユウトに山本さんが加わって焼きの手数は増えたとはいえ、それでも材料の計算は甘く出来ない。
「火曜の確認でちょっと使った分が響いたか」
師匠が箱の中を見て、小さく息を吐く。
「足りへんわけやないが、余裕はないな」
副官さんが帳面をめくる。
「今から買い足してもいいですが、質が同じものを揃えられるとは限りません」
「今日のうちに決めといた方がええな」
師匠が言うと、店の空気が少しだけ変わった。深刻というほどではない。だが、見て見ぬふりは出来ない小さな問題だ。
ユウトは箱の中の果実を見つめた。干してある分だけ水分は抜けている。甘みは濃く、保存も利く。これをただ減らしたくないと思うより先に、別の考えが頭の奥で引っかかった。
「師匠」
「ん?」
「これ、逆に使えませんか」
自分で言ってから、ユウトは少しだけ言葉を探した。
「すぐ食べるケーキじゃなくて、保存が利く方に」
師匠の手が止まる。
「ほう」
その一音だけで、店の空気がまた変わる。レイナもマリナも手を止めてこちらを見た。ガルドとダインも木箱を動かす手を止めている。山本さんも、今まさに炉の温度を見ていた手を引き、じっとこちらへ意識を向けた。
ユウトは箱の中の果実を指でつまんだ。乾いていて軽い。だが噛めば甘みは強い。水分が少ない分、日持ちもする。
「店ですぐ食べるだけじゃなくて、持って帰れるやつとか、少しずつ食べられるやつとか。数日持つ甘いものがあってもいいんじゃないかなって」
言葉にしながら、自分の中で形が見えてくる。討伐に出た時の携帯食ほどではなくても、持ち運びやすくて、崩れにくくて、少しずつ食べられる甘味。店でその場で食べる華やかなケーキとは別の良さがある。
師匠が腕を組む。
「ほう。持ち運びも見るんか」
「はい。遠出の前とか、帰ってからゆっくり食べるとか、そういうのにも向く気がします」
「悪ないやん」
師匠の目が少し真面目になる。
「前に新作三つ考えろ言うた時より、ちゃんと売り口まで見えてるな」
レイナが笑う。
「逃げられませんでしたね、新作」
「そういう話だったな……」
ユウトが苦笑すると、マリナが横から静かに言う。
「でも、いいと思うわ。華やかなものだけじゃなくて、残しておける甘味があると、買う理由が増えるもの」
ガルドも頷く。
「遠出の前に買えるなら悪くない。甘い物が残ってるだけで、気分が違う時はある」
ダインが短く付け足す。
「腹に残るなら、なおいい」
副官さんは箱の残量を見ながら言った。
「材料効率も悪くないですね。量を使い切る方向にも出来ます」
そこで、少しだけ遠慮がちに山本さんが口を開いた。
「あの」
全員の視線が向くと、少しだけ肩をすくめる。それでも言葉は止めなかった。
「焼きの入り方を安定させやすいと思います。水分が少ないなら、火の通りも読みやすいですし……ちゃんとやれば、作る量を増やしても揃えやすいかと」
言い切った後、少しだけ不安そうに師匠を見る。
師匠は一拍だけ黙って、それからにやりと笑った。
「ほな、やってみるか」
山本さんの顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
そう決まると早かった。
作業台の上へ必要なものが集められる。粉、卵、砂糖、少量の乳、干した果実。師匠が比率を見ながら口を出し、ユウトが手を動かす。混ぜる時の感触がいつもよりはっきり指へ返ってきた。少し硬め、生地に重さを持たせる。焼いた後に崩れにくくするなら、その方がいい。
「押し固めすぎるなよ」
師匠が言う。
「硬すぎると食いにくい」
「はい」
「でも軽すぎても持たへん。真ん中や」
「はい」
返事をしながら、ユウトは生地をまとめる。必要なだけ、狙った硬さまで。そう考えていると、昨日までの討伐で相手の繋がりだけを抜いた感覚と、どこかで重なる。過不足なく通す。その意識が、今日の木曜にはずっと繋がっていた。
その横で、山本さんは型へ流し込まれる生地の硬さを真剣な目で見ていた。指先で少しだけ表面をならし、師匠の手元を見て、次に自分がどのタイミングで受け取るべきかを測っている。
「山本さん、火の見方わかるか?」
師匠が問いかける。
「はい。強すぎると表だけ先に固くなります。中の重さが残ったままだと、あとで崩れやすくなると思います」
「せやな。じゃあ、任せてみるか」
「……はい!」
返事の直後、山本さんは一瞬だけ深く息を吸った。緊張を押し込めるためだろう。その仕草が新人らしくて、ユウトは少しだけ笑いそうになる。
焼く前の段階で、レイナが覗き込んでくる。
「これ、見た感じ結構しっかりしてますね」
「保存利かせるなら、このぐらいは必要やな」
師匠が答える。
「でも、噛んだ時にちゃんと甘さが開かんとあかん」
「少しずつ食べる感じになりそうですね」
マリナが言う。
「紅茶みたいな飲み物が欲しくなるかも」
「酒場に置いたら、つまみにもなりそうだな」
ガルドが何気なく言うと、レイナが吹き出した。
「それ、また店主さんが喜びそうです」
「実際、悪くない発想やと思うで」
師匠がにやりとする。
「甘いもんは甘いもんやけど、食べ方が一つとは限らへん」
試作は小さめにまとめて焼くことになった。大きく作れば見栄えはするが、まずは形を見る。師匠が温度を見る間に、ユウトは型を並べる。動きに無駄がない。そこへ山本さんが、少し緊張した顔のまま一歩前へ出た。
「入れます」
「おう」
師匠の返事を受け、山本さんが型を炉へ差し入れる。火加減を見る目は真剣で、わずかに魔力を流して炎を整える。その動きはまだ少し硬い。だが、無理な背伸びをしていないぶん、危なさはなかった。自分に出来る範囲の精度をきちんと出そうとしているのがわかる。
焼き上がりを待つ間も、他の準備は止まらない。
ガルドとダインは店内の棚と箱を動かし、営業日の導線を確かめていた。客が入ってきた時に詰まらないよう、荷を置く位置を少し変え、足元の余計なものを片付ける。力仕事は当然だが、それだけではない。どこに何があれば邪魔にならないか、二人ともよく見ている。
マリナはカウンター側で皿や紙の置き方を整え、レイナと一緒に接客の流れを確認していた。どのケーキから説明するか、売れ筋が偏った時に何を勧めるか。木曜の準備日は、そういう声に出さない仕事も多い。
作業台の方では、ユウトが師匠の動きに合わせて必要なものを出し、受け取り、戻していく。その横で山本さんが火を見ている。時々、師匠が「今のままでええ」「そこは少し弱めや」と短く言うだけで、山本さんは大きく頷いて従った。余裕はないのだろう。返事の後に唇をきゅっと結ぶ癖が出ている。
試作が焼き上がった時、店の空気が少しだけ変わった。
香りが違う。いつもの生菓子の甘さとは別の、凝縮された甘い匂いが広がる。果実の深い香りと、焼いた粉の香ばしさが重なって、鼻の奥へじわりと残る。
山本さんが慎重に型を取り出す。少しだけ誇らしそうな顔をしたかと思えば、すぐに師匠へ視線を向けた。自分がどう思うかより、先に師匠がどう見るかが気になるのだろう。
師匠が焼き上がりを確かめ、少し冷ましてからひとつ割った。中は詰まっているが、硬すぎるわけではない。干した果実がところどころに見えて、表面には焼き色が付いている。
「ほう」
師匠が小さく声を漏らす。
ユウトもひとつ口へ運んだ。噛むと、最初に外側のしっかりした食感があり、その後で中の甘みが広がる。干した果実の濃い味があとから重なり、飲み込んだ後も口の中に残った。軽い菓子ではない。だが、そのぶん少しで満足感がある。
「どうですか」
レイナが身を乗り出す。
「……悪くない」
ユウトがそう言うと、師匠が笑った。
「お前がそれ言う時は、だいたいかなりええ時や」
マリナもひとつ口へ運ぶ。噛んで、ゆっくり飲み込んでから言った。
「これ、いいわね。店で買って、家で少しずつ食べる人がいそう」
「食べ応えあります」
レイナも頷く。
「しかも、持って帰りやすそうです。崩れにくいし」
「遠出の前にも買えるな」
ガルドが言う。
「旅の途中で甘い物があるのは悪くない」
「腹にも残る」
ダインも短く評した。
副官さんは小さく切り分けたものを口へ入れ、少しだけ考えてから言う。
「保存性、材料効率、価格。どれも悪くありません」
そこで師匠が、山本さんの方を見た。
「火の入りも悪ない」
短い言葉だったが、山本さんは目を見開いた。
「ほ、ほんとですか」
「こういうのは焼きがずれると、すぐ食感に出る。今のはちゃんと揃っとる」
山本さんは、すぐに返事をしなかった。喉の奥で何かが詰まったように一度だけ息を吸って、それからようやく小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
その声には、安心と嬉しさが混じっていた。
「ようし」
師匠が手を打つ。
「方向は見えたな」
その声に、ユウトの胸の奥が少し熱くなる。ただ思いついただけではない。形にして、食べて、悪くないと言われた。それは素直に嬉しかった。しかも今回は、山本さんがちゃんと焼きの中へ入り、そこで認められたのも大きかった。
そこから先も木曜の準備は続いた。
試作で一度流れが変わったが、店の仕事は待ってくれない。明日から金曜営業だ。作るべきものは多く、整えるべきものも多い。けれど、店の中の空気はどこか明るかった。保存の利く甘味という新しい方向がひとつ見えたせいだろう。
ユウトは作業台の前で動き続けた。師匠との息も、朝よりさらに噛み合っていく。必要な道具が必要な時に出る。材料の受け渡しも詰まらない。何度か師匠が「そこや」「それや」と短く言うだけで、手は止まらなかった。
その横で山本さんも、さっきより明らかに動きがよくなっていた。褒められたことで変に浮つくのではなく、むしろ肩の力が抜けたのだろう。返事は相変わらず少し大きいが、手元の迷いは減っている。新人らしい必死さはそのままに、流れへ入る感覚を掴み始めていた。
日が傾き始める頃には、仕込みはだいぶ形になっていた。窓から入る光が薄い橙に変わり、店の中へ落ちる影も少し長くなる。疲れはあった。だが、火曜水曜の討伐とは違う種類の疲れだった。戦いの後に残るのが骨の近くの重さなら、今日は腕や肩の表面に残る作業の張りに近い。
最後の箱を整え終えたところで、師匠がユウトへ目を向けた。
「森行ってた割に、今日の動きは悪くなかったな」
ユウトは少し姿勢を正した。
「ありがとうございます」
「いや、悪くないどころか、ちょっと良くなっとる」
師匠は笑う。
「戦いも無駄やないな」
その一言で、火曜と水曜の討伐が今日へ確かに繋がった気がした。
そして師匠は、そのまま少しだけ視線をずらす。
「山本さんも、今日はよう踏ん張ったな」
山本さんが顔を上げる。
「えっ」
「まだ固いとこはあるけどな。せやけど、手を止めんかったんはええ」
山本さんは一瞬だけ言葉を失い、それから大きく頷いた。
「はい!」
声が弾みすぎて、レイナがまた笑う。
副官さんも帳面を閉じながら言う。
「明日から忙しくなります。今日の精度を落とさないように」
「はい」
返事は自然と揃った。山本さんの声も、今度はちゃんとその中へ混じっていた。
借家へ戻る道は、夕方の色に染まっていた。石畳の上を長く伸びる影、店じまい前の街のざわめき、遠くから流れてくる焼き肉の匂い。昼とは違う一日の終わりの空気が、疲れた身体へやさしく乗ってくる。
レイナが大きく息を吐いた。
「戦った日と違う疲れですね」
「でも大事な仕事よ」
マリナが答える。
「こっちがあるから、また次も動けるんだから」
「結局、気を抜ける日はないな」
ガルドが言うと、ダインも「うむ」とだけ返した。
その少し後ろで、山本さんが小さく、けれどはっきりした声で言う。
「でも、今日すごく勉強になりました」
全員が少しだけ振り向く。
山本さんは、少し照れたように笑った。
「討伐の後で動きが変わるのも、火の見方で焼きが変わるのも、見ててすごかったです。わたしも、ちゃんとついていけるようになりたいなって」
その言葉に、マリナがやわらかく目を細める。
「大丈夫よ。今日、ちゃんとついてきてたもの」
「そうですかね」
「そうよ」
レイナも頷く。
「山本さん、途中からかなり良かったですよ」
ガルドが短く言う。
「無理に前へ出すぎなかったのがいい」
ダインも続ける。
「焦らず続けろ」
山本さんはそれを聞いて、少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
ユウトは歩きながら、今日の試作の味をまだ舌の奥に感じていた。保存が利く甘味。持ち運べて、少しずつ食べられて、ちゃんと満足感がある。師匠の店に新しい流れをひとつ足せるかもしれない。そう思うと、討伐の後に残った感覚も、今日の木曜の仕事も、全部が一本に繋がっているように思えた。
そしてその流れの中へ、山本さんもちゃんと入ってきている。まだ新人だ。固さもあるし、遠慮もある。だが、今日みたいに踏ん張れるなら、きっとここからもっと馴染んでいく。
明日は金曜だ。営業が始まる。今週末はまた忙しくなるだろう。けれど、その忙しさの中に少しだけ新しい面白さが混じりそうだと、ユウトは確かに感じていた。
借家の灯りが見えてくる。その隣にはガルドの家の明かりもある。今日もまた、一日がちゃんと次へ繋がった。その感触を胸の中で静かに確かめながら、ユウトは夕暮れの石畳を歩いていった。
一部不備があった為、差し替えます。
ご迷惑をおかけしました




