第105話 酒場と物流と休みと月曜の件
最後の皿を下げ、白い布を外し、売り場の木肌がすっかり見えるようになった頃には、日曜の光も少しだけ色を変えていた。
昼前まで客で埋まっていた店の中は、もう静かだ。甘い匂いだけが壁や棚の隅に薄く残り、さっきまでそこにあった熱を名残みたいに留めている。扉の向こうでは通りの人声が流れていたが、店内へはやわらかくしか入ってこない。三日間続いた営業の最後にふさわしい、少しぼんやりした静けさだった。
マリナは空になった皿を重ねながら、指先に残った粉砂糖の細かなざらつきを感じていた。布で拭えばすぐ落ちる程度のものなのに、それがやけに心地いい。売り切ったあとの手触りだ。
「先生」
レイナが横で布を畳みながら言う。
「今日の静かさ、なんだかすごいですね」
「ええ」
マリナも頷く。
「やっと終わったって感じがします」
言葉にすると、胸の奥に残っていた最後の張りまで少しだけほどけた。
火曜の夜、酒場の熱に巻き込まれたところから始まって、物流の話が現実になり、翌朝から街道へ出て、橋を押さえる連中を崩し、渡し場まで潰して、金曜と土曜と日曜の店を回した。どこか一日だけでも十分に濃いはずのものが、今週はほとんど切れ目なく続いていたのだ。指先が甘くて、肩が重くて、胸の奥だけが軽い。そんな終わり方になるのも当然だった。
厨房の方では、魔王さんとユウトが最後の器具を片づけていた。
流しへ落ちる水の音、木匙を桶の縁へ立てる音、濡れた布を絞る音。その間へ、短い声だけが交わる。
「ユウト、そっち奥や」
「はい、師匠」
触れた器具がふっと消え、棚の空いた位置へ収まる。
営業中と同じように、無限収納は片づけでも静かに働いていた。重い器具を抱えて何度も往復すれば、それだけで厨房はすぐ散る。床も濡れる。足も止まる。だがユウトが手を添えて収納し、必要な位置へ出していくと、その面倒がごっそり消える。しかも、どこへ何を戻すか迷わない。状態を確かめながら仕分けているからだ。明日に残していい生地、今日のうちに使い切るべき果実、もう洗って下げる器具。その線引きに、もう迷いがなかった。
「そっちの実、明日はもう持たん」
魔王さんが小鍋の中を見て言う。
「はい。こっちは今日で切った方がいいです」
ユウトがすぐに返す。
視線は果実の崩れ方、残った熱、煮汁の重さを一息で拾っていた。
「せやな」
魔王さんは短く頷く。
「ほな、これは店で回して終わりや。明日に残すんはあっちだけでええ」
「はい、師匠」
そのやり取りを聞きながら、マリナは静かに息を吐いた。
戦いの時は、黒崎くんの目は相手の足と肩と重心を追っていた。今の目は、生地の熱と果実の水分と焼き色を見ている。見ているものは違うのに、拾う速さと判断の短さが同じだ。それが、もう珍しいとか面白いとかではなく、店の流れの一部として自然に収まっているのが、マリナにはやけに嬉しかった。
「先生」
レイナが、また横目でこちらを見た。
「今の顔、またちょっと良かったです」
「何の話ですか」
「黒崎くんのこと見てた時の顔です」
「違います」
「違わないです」
即答だった。
マリナは何か返そうとして、それより先に魔王さんの声が割って入った。
「ほら、そっちももうええやろ。今日は片づけたら終わりにせえ」
その声音に、金曜の緊張も土曜の忙しさもない。三日間をきっちり走り切ったあとにしか出ない、軽く乾いた声だった。
「はい」
マリナが答えると、魔王さんは布で手を拭きながら少しだけ肩を回した。
「月曜は休みや。今日は帰って寝ろ」
「分かってます」
レイナが言う。
「でも、明日の休みって思うと急に気が抜けますね」
「それでええ」
魔王さんが鼻で笑うように言った。
「抜ける時に抜いとかんと、次で鈍る」
その言い方は、料理の話にも戦いの話にも聞こえた。
副官さんが帳面を閉じる。
「勘定も終わりました。今週も問題ありません」
「上等や」
魔王さんはそれだけ言って、奥の棚を一度だけ見渡した。それで終わりだ。売り場は空、会計も締まり、厨房も次へ残すものだけを残して片づいた。三日間の営業が、本当にそこで閉じたのだと分かる。
山本さんは会計台の前で、ようやく大きく息を吐いた。
「終わったあ……」
その声が、三日間で一番素の声だった。
レイナが笑う。
「お疲れさまでした」
「ほんとに、もう……終わってよかったです……」
「でも、ちゃんと立ってましたよ」
マリナが言うと、山本さんは少しだけ目を丸くした。
「そうですか」
「ええ。金曜より土曜、土曜より今日の方が良かったです」
それはお世辞ではない。
金曜は必死に流れへしがみついていた。土曜は流れに乗っていた。そして日曜は、自分でもう半歩前へ出ていた。副官さんが横にいるからこそだとしても、立っていたのは山本さん本人だ。
副官さんも短く続けた。
「次もこの感じで大丈夫です」
それだけで十分だったらしい。山本さんの肩から、またひとつ力が落ちる。
外へ出ると、日曜の昼過ぎの光が思っていたより明るかった。
売り切れ閉店した直後の店先は静かで、その静けさの向こうに通りの賑わいだけが残っている。甘い匂いをまとったまま外気に触れると、頬に当たる風が少しだけひんやりして気持ちよかった。
店を離れ、いつもの道を歩く。
日曜の午後の街は、平日の昼とは違う緩み方をしていた。荷車の音も少なく、人の足取りにもどこか余裕がある。石畳に落ちる影が細く伸び、空は高い。今週の濃さのあとでは、その普通さがむしろ眩しく見えた。
「明日、ほんとに休みなんですね」
レイナが空を見上げた。
「月曜ですからね」
マリナもつられて空を見る。雲は少なく、青が高かった。明日の休みを疑う理由は何もないのに、今週の流れのせいで少しだけ信じにくい。
「何もしなくていいんでしょうか」
レイナが半分本気で言う。
「さすがに何か起きないですよね」
「起きないでほしいです」
マリナは素直に答えた。
横でユウトが歩きながら、静かに言う。
「月曜は休みです」
「そうですよ」
レイナが笑う。
「自分に言い聞かせてるみたいですね」
「少しだけ」
ユウトは否定しなかった。
その一言に、マリナはほんの少しだけ口元を緩める。たぶん、自分も同じだ。明日は休み。そう言葉にしないと、朝になったらまた勝手に体が動き出しそうな気さえする。
借家へ戻ると、日曜の午後は驚くほど穏やかに流れた。
ガルドも同じように隣の自宅へ戻っている。別れるまでもない。借家の戸を開ければ、そのすぐ向こうにいつもの生活がある。妻と娘の待つ家が隣にあるという当たり前が、今日はとりわけ落ち着いて見えた。
昼寝をするほどではない。だが、何か大きなことをする気力もない。湯を沸かして茶を飲み、窓から入る光が少しずつ動いていくのを眺め、卓を挟んでぽつぽつと他愛のない会話をする。それだけで時間が過ぎていく。
そういう時間が、今週はほとんど無かった。
「先生」
レイナが夕方近くに、ふと口を開いた。
「明日、どうします?」
「どう、とは」
「休みの過ごし方です」
言われて、マリナは少しだけ考えた。
月曜が休みであることは分かっている。けれど、何をするかまでまだ考えていなかった。
レイナは指を折りながら数え始める。
「ゆっくり寝る。洗濯。掃除。あと、ガルドさんの奥さんのところへ顔を出すのもありですよね」
その候補が妙に現実的で、マリナは小さく頷いた。
「そうですね」
ガルドの奥さんのところへ顔を出すのは、特別なことではない。これまでも何度も会っているし、娘とも普通に言葉を交わす。借家が隣にあるのだから、ごく自然な流れだ。
「料理、少し教わるのもいいかもしれません」
マリナが言うと、レイナの顔が明るくなる。
「それ、いいですね」
「休みだからこそ、そういうのもいいでしょう」
「先生、明日のことになると急に教師っぽくなりますね」
「元からです」
その返しに、レイナが笑う。
ユウトは湯を飲みながらそのやり取りを聞いていたが、少し遅れて口を開いた。
「先生たちが行くなら、俺はどうしますか」
その問いが妙に素直で、マリナは一瞬だけ言葉に詰まった。
「どう、とは」
「一緒に行っていいのか、邪魔しない方がいいのかです」
真面目に訊いている顔だった。
レイナがもう笑っている。
「ユウトくん、それ、先生に聞くんだ」
「先生が決めることなので」
そう言われると余計に困る。
マリナは茶の杯を置いて、小さく息を整えた。
「顔を出すだけなら、一緒でいいと思います」
「はい」
返事がやけに早い。
「でも、ずっと一緒にいる前提で考えないでください」
「分かりました」
「本当に?」
「顔を出すだけなら、です」
「そこをすぐに繰り返さなくていいです」
レイナがとうとう吹き出した。
「先生、今日も大変ですね」
「そう思うなら笑わないでください」
「無理です」
借家の中へ、軽い笑いが広がる。
金曜までの張り詰めた空気のあとでは、その軽さがむしろ心地よかった。
夕食は簡単なものになった。三日連続の営業を終えた日曜の夜に、凝ったものを作る気力はない。残りのパンを少し焼き直し、薄いスープを温める。それでも温かい匂いが卓の上へ広がると、借家はちゃんと住まいの顔へ戻る。
食べ終えたあと、窓の外はもう暗くなっていた。
日曜の夜の通りは、土曜より静かだ。遠くで酒場の方角から声が流れてきても、それは薄く揺れて消えるだけで、こちらまで強くは届かない。
「明日は起こさなくていいですよね」
レイナが言う。
「朝はそうですね」
マリナは頷いた。
「でも、夜は酒場です」
その一言で、借家の空気が少しだけ変わる。
月曜は休みだ。けれど、何もしない一日ではない。今や定期開催になった、あの酒場の夜がある。
「そうでした」
レイナが笑いを噛み殺すみたいに言う。
「愛の劇場の日でしたね」
「そんな言い方しなくていいです」
「でも常連さんたち、もう完全にそう思ってますよ」
それは否定しづらい。火曜の夜の始まりが強すぎた。そこから今週が始まったのだから、なおさらだ。
ユウトが静かに言う。
「月曜は酒場です」
「そうですね」
マリナは答える。
「そこは確認しなくていいです」
「大事なので」
「その言い方、最近ずるいです」
「ずるくないです」
真顔で返されると、ますます困る。
レイナが肩を震わせている。
「先生、もう明日の夜が見えてきました」
「見なくていいです」
「無理です」
そんなふうに言い合いながらも、胸の奥は不思議と重くなかった。恥ずかしいのはたしかだ。たしかなのに、それだけではない。今週の終わりにあの酒場が待っていることを、心のどこかで自然な流れとして受け入れてしまっている。
寝支度を整える前、ユウトが窓の戸締まりを見ていた。
「黒崎くん」
「はい」
「明日は休みですよ」
「はい」
「でも、夜は酒場です」
「はい」
「分かってますか」
「分かってます」
「その返事、今日は何回目ですか」
「何度でも言います」
「何でですか」
「大事なので」
相変わらず真顔だ。
けれど今日は、その真っ直ぐさが少しだけ可笑しかった。
レイナが肩を震わせている。
マリナも呆れながら、ほんの少しだけ笑ってしまう。
「……もう寝ましょう」
「はい」
その夜、眠りは深かった。
日曜までの重さを全部体の外へ流してしまうみたいに、意識はあっさり沈んでいく。目を閉じる前に思い出したのは、鎖の音でも、橋の冷たさでもない。売り切れたあとの白い売り場と、師匠に頷かれた時のユウトの顔だった。
そして、その少し先に、月曜の夜の酒場のざわめきが、まだ来てもいないのに小さく浮かんだ。
その気配を最後に、意識は静かに暗い方へ落ちていった。
翌朝、月曜の光はやわらかかった。
いつものように急ぐ必要がないだけで、家の中の音まで穏やかになる。窓から入る朝の明るさも、どこか丸い。火曜から日曜まで続いた濃さを越えたあとの朝は、静かで、軽くて、それでいて夜のことをほんの少しだけ含んでいる。
休みの日の朝だ。
そして、夜は酒場だ。
その二つを胸の中へ並べたまま、マリナは静かに息を吸った。
⸻
(続く)




