第104話 酒場と物流と盗賊の件(二十二)
日曜の熱は、土曜よりもしつこく続いた。
朝の最初の波を越えても列が細くならない。むしろ、一度店の前を通り過ぎた者が甘い匂いに引き返してきて、最後尾へ足すように並んでいく。通りの空気そのものが、この店の前だけ少し遅く流れているみたいだった。
「先生、左の段、もう次を出したいです」
レイナが声を落として言う。
「お願いします」
マリナは目の前の客へ皿を渡しながら答えた。
視界の端で、白い布の見える面積が増えていく。さっきまで十分にあったはずの並びが、もう半分近く薄くなっていた。日曜の客は、金曜や土曜より迷いが短い。二日続けて売り切れたという空気が、店の外まで広がっているのだろう。選ぶ時の目が、最初から急いでいる。
そこへ、厨房の奥から香ばしい匂いが押し出されてきた。
焼きたての生地に、熱で少しだけ開いた果実の匂いが重なる。店の中にいた客の呼吸が、ほんのわずか揺れた。
「追加です」
ユウトが皿を持ってくる。
熱の残る木皿を売り場へ置く時も、動きに無駄がない。皿を落ち着ける位置、客の視線が流れやすい角度、その全部が最初から分かっているみたいだった。
マリナは皿を受け取る時、ユウトの指先へ一瞬だけ視線を落とした。
熱いはずだ。けれど顔色一つ変わらない。料理を作る時の熱も、街道で刃を受ける時の衝撃も、この男の中では同じように「対処するもの」になっているのかもしれないと思う。
「ありがとうございます」
「はい」
短い返事だった。
けれど、そのすぐ後にユウトの目が売り場の残りへ流れる。次に何を出すべきか、今どの段が薄いか、その確認まで入っている視線だ。
「師匠、右から先に減ってます」
厨房へ戻る前に、ユウトが言う。
「分かっとる。そっち寄せるで」
魔王さんの声が返る。
木べらが器へ当たる音、湯気が上がる気配、果実を置く小さな音。その全部が、師匠と弟子の短い言葉の間を埋めていた。
マリナは客へ向き直る。
「こちらでよろしいですか」
「はい。それと……」
年配の女客が売り場をもう一度見回す。
「アップルパイ、まだあります?」
その問いに、会計台の方で山本さんが即座に顔を上げた。
「あります。今ならまだ大丈夫です」
昨日までなら副官さんを見る前にそこまで言い切れなかっただろう。今日はもう、自分の目で残数を追っている。
「では一つ」
「はい」
山本さんが紙を取り、副官さんが横で帳面へ目を落とす。釣りの音、紙の擦れる音、包む手つき。二日間の営業で、山本さんの指先にはもう最低限の確かさが宿っていた。
「山本さん、今日は本当にいいですね」
レイナが合間に言う。
「い、いえ、まだ副官さんがいないと怖いです」
「横にいるうちは、怖がっていいです」
副官さんが静かに言った。
「その代わり、止まらないでください」
「はい」
短い返事だったが、芯があった。
列がまた一歩進む。
その流れの中で、ガルドとダインが扉の脇から人の動きを見ていた。並ぶ位置が少しずれれば一言だけ落とし、出る客と入る客の肩がぶつかりそうになれば体を半歩ずらして流れを整える。大きな声は出さない。けれど、二人がそこにいるだけで店の前の線が崩れなかった。
日曜の光が高くなる。
窓から入る光が売り場の皿の縁へ当たり、砂糖の薄い膜を白く光らせる。その光の上を客の視線が滑り、指先が皿を選び、マリナたちの手がそれを受ける。
「先生」
レイナがまた小さく囁く。
「今日、流れがすごいですね」
「ええ」
マリナは頷いた。
本当にそうだ。
どこか一か所が頑張っているのではない。厨房も、売り場も、会計も、入口も、全部が一つの流れになっている。しかもその流れが、三日目になって一番自然だ。
火曜の夜から始まったあの濃い数日が、まるでこの日曜の熱へ向かって繋がってきたみたいにさえ思える。
その時、前の方にいた若い男客が、少し照れくさそうに言った。
「昨日、間に合わなかったんです」
「そうなんですか」
マリナが受けると、男は小さく頷く。
「昼前に来たら、もう終わってて」
その悔しさが顔に残っている。だから今朝は早く来たのだろう。
「では、今日は選べますね」
そう返すと、男はほんの少しだけ顔を明るくした。
「はい。今日はちゃんと」
そのやり取りが、妙に胸へ残る。
買えなかった昨日の先に、買える今日がある。その小さな違いが、客にとっては思った以上に大きいのだと分かる。
だからこそ、街道の流れを守ることと、ここで店を開くことは、やはり別の話ではない。
厨房の方で、魔王さんの声が上がった。
「ユウト、そっち二つ、どっちや」
似た皿が並んでいた。焼き色も果実の艶もほとんど同じだ。だがユウトの視線は迷わない。
「左です」
「理由」
「右はまだ熱が少し強いです。先に出すと切った時に崩れます」
魔王さんは皿の縁に指を当て、それから一度だけ鼻で息を鳴らした。
「よし、それでええ」
左の皿を前へ回す。
「拾うだけやなくて、順に落とせてる」
「はい、師匠」
その一言が、ユウトの肩を少しだけ真っ直ぐにした。
褒められたのだ。
大げさではない。けれど、師匠がちゃんと見ていると分かる褒め方だった。
マリナはその瞬間を見逃さなかった。
街道で相手の足を崩した時とも、酒場で酔って愛を叫んだ時とも違う。今のユウトは、ただ師匠に認められた弟子の顔をしている。その顔を見た時、胸の奥に温かいものが静かに広がる。
「先生」
レイナが横目でそれを拾ったらしい。
「今の、黒崎くんすごく嬉しそうでしたね」
「ええ」
否定する必要もなかった。
「そうですね」
「先生もです」
「私は普通です」
「普通じゃないです」
すぐ返される。けれど今は、そのやり取りさえ店の熱を邪魔しない。
時間が進むにつれて、日曜の列にも終わりの気配が見え始めた。
最初は太かった列が、いつの間にか少し短くなっている。店の前に並ぶ客の数が減り、その代わりに売り場の白い布が増えた。アップルパイの山も、もう残りが数えられる形になっている。
「アップルパイ、あと三つです」
山本さんが言う。
声がはっきりしていた。
「こっちの段、あと二つです」
レイナも返す。
マリナは客へ皿を渡しながら、その残りを目で測る。日曜の終わり方は、金曜とも土曜とも少し違う。慣れた客が多いぶん、残りが見えた時の空気の切り替わりも早い。
そこで、扉の外から息を切らした声が飛んだ。
「まだありますか!」
遅れて駆け込んできたのは、酒場でも見たことのある女客だった。頬が赤く、肩で息をしている。通りを走ってきたのだろう。
「アップルパイなら、あと三つあります」
山本さんが即答する。
「二つください!」
「承知しました」
その勢いに押されるように、列の後ろの客も視線を動かす。最後の数は、人を急がせる。
「では私も一つ」
次の客が言う。
それで終わりだった。
「アップルパイ、終了しました!」
山本さんの声が店に通る。
金曜は少し震えていた声が、今日はまっすぐだった。
店の空気が、また一段変わる。
残るのは店内で食べる分だけだ。持ち帰りを狙っていた者の目が少しだけ惜しそうに揺れ、それでも今ある皿へ視線を戻していく。
魔王さんが厨房から最後の皿を押し出す。ユウトがそれを売り場へ運ぶ。マリナが客へ渡し、レイナが言葉を添える。副官さんが勘定を締め、山本さんが受け取り、釣りを返す。
そして、その最後の一皿も、ほどなく客の手へ渡った。
「こちらで終わりです」
マリナが言い切る。
声を出した瞬間、店の中の熱がふっと落ちるのが分かった。
買えた者は安堵して、買えなかった者は少しだけ肩を落とす。それでも誰も騒がない。三日連続の売り切れを見ていれば、こういう終わり方ももうこの店の一部なのだろう。
最後の客を見送り、扉を閉める。
金具のはまる音が、日曜の昼前の静けさへ細く響いた。
誰より先に息を吐いたのは、山本さんだった。
「……終わりました」
その言い方に、昨日までよりはっきりした達成感があった。
副官さんが帳面を閉じる。
「終わりましたね」
静かな声だったが、十分に満足が混じっている。
レイナが両肩を落とす。
「なんだか今日はいつも以上にすごかったですね」
「ええ」
マリナも頷く。
本当にすごい。売り場の上から皿が消え、アップルパイも消え、昼前にまた店が静かになる。その光景を三日続けて見たという事実が、今になってずしりと来る。
魔王さんが厨房から出てくる。今日は金曜や土曜よりずっと軽い顔だった。
「ほな、日曜もきっちり終わりや」
その一言で、ようやく本当に週末が閉じた気がした。
「師匠」
ユウトが言う。
「今日は昨日より、もっと良かったです」
「せやな」
魔王さんはあっさり認める。
「目も手も、昨日より揃っとった。あれなら次も崩れへん」
ユウトの目が、そこで少しだけ明るくなる。
「はい」
その返事に、マリナはまた胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
三日目で一番噛み合った。それを師匠が認めた。たったそれだけで、今週末の積み上げ全部が形になったみたいだった。
「先生」
レイナが横から言う。
「今日でやっと、本当に終わった感じですね」
マリナは空になった売り場を見た。
白い布、空の皿、甘い匂いの残る空気。その向こうに、火曜の夜から今日までの流れが全部重なって見える。
「ええ」
そう答える声は、自分でも思ったより静かだった。
「本当に」
日曜の昼前の光が、店の中へやわらかく差していた。
その光の中で、ようやく一週間の重さが下りていくのを、マリナははっきりと感じていた。
⸻
(続く)




