第103話 酒場と物流と盗賊の件(二十一)
日曜の朝は、土曜よりも空が高く見えた。
窓を開けたわけでもないのに、光の色だけでそれが分かる。白くやわらかい朝の明るさが、借家の床を静かに這っている。冷たい空気はまだ残っているが、昨日より角が取れていた。肺へ入れた時の痛さがない。代わりに、澄んだものが胸の奥まで通る。
マリナは寝台の上で一度だけ背を伸ばした。
肩の奥が少し鳴る。だが、その重さももう鈍いだけだ。火曜の夜からずっと体の中に居座っていた硬いものが、ようやく最後の薄皮を残すくらいまでほどけている。
「先生」
隣の寝台からレイナの声がした。
「今日は大丈夫そうです」
「ええ」
マリナも頷く。
「私もそう思います」
その返事に、レイナが少しだけ笑う気配がする。日曜の朝らしい、余分な熱のないやり取りだった。
支度を整えて部屋を出ると、居間にはもうユウトとダインがいた。卓の上には水差しと簡単な朝食が並んでいる。パンと薄いスープ。営業日の朝にはちょうどいい量だ。
ユウトは杯を置く音まで静かだ。けれど、その静けさの中に日曜の気配がある。土曜の朝のような重さは薄く、金曜のような間に合うかどうかの張りもない。ただ、今日も店に立つのだという落ち着いた準備だけがあった。
「おはようございます」
マリナが言う。
「おはようございます」
ユウトの返事はすぐだった。
「よく眠れましたか」
「ええ。黒崎くんは」
「眠れました」
その短いやり取りだけで十分だった。顔色を見れば分かる。昨日より軽い。目の下の影も薄く、肩の線も少しだけ下がっている。無理を押して立っている顔ではない。
ダインはスープを飲み終えてから、いつものように短く言う。
「今日は昨日より客が早いかもしれん」
「どうしてですか」
レイナが訊く。
「二日続けて売り切れた」
それだけで理由として足りていた。
金曜も土曜も昼前後で閉まった。なら、日曜はなおさら朝から来る客が増える。いつもの流れに、この数日の話題も乗っているのだろう。
「ありえますね」
マリナも頷いた。
物流の件が落ち着き始めたとはいえ、客の側から見ればまだ「買える時に買っておきたい」空気が残っているはずだ。特にアップルパイは持ち帰れる唯一の品だし、その意味は大きい。
借家の戸を開けると、朝の街はすでに起き始めていた。
日曜のせいか、仕事へ急ぐ足音よりも、どこか余裕のある歩き方が多い。朝の空気の中に、焼きたてのパンと掃除したばかりの石畳の匂いが薄く混じっている。家々の窓も、土曜より早く開いている気がした。
借家の前には、今日もガルドがいた。
隣の自宅から出てきたばかりなのだろう。服には外の朝の匂いがそのままついている。日曜の光の中に立つ姿は、金曜や土曜よりも少しだけ柔らかく見えた。
「おはようございます」
マリナが声をかける。
「ああ」
ガルドが頷く。
「今日は顔が少しマシだな」
「そう見えますか」
「見える」
短いやり取りだが、それで十分だった。数日続けて同じ朝を見ていれば、違いは小さくても分かる。
五人で店へ向かう道は、日曜らしく少しだけ明るかった。
店のある通りへ近づくと、もう甘い匂いが風の中へ混じり始める。昨日と同じ匂いのはずなのに、今日はどこか軽い。客の方もそう感じているのか、店の前にはすでに何人かが立っていた。
「早いですね」
レイナが小さく言う。
「昨日のうちに覚悟した方がいいって分かったんでしょうね」
マリナが答えると、隣でユウトが少しだけ口元を緩めた。
扉を開けて中へ入ると、日曜の店の熱が迎えた。
厨房ではすでに火が入っている。温められた乳の匂い、焼ける生地の匂い、林檎の甘い香り。昨日までと同じようでいて、今日は最初から全部が揃っている感じがした。金曜と土曜を越えたあとの日曜だ。店全体が三日目の呼吸を持っている。
「来たか」
魔王さんの声が飛ぶ。
今日の魔王さんは、昨日よりずっと軽い。徹夜明けの重さはもう顔から消えていた。師匠の厨房へ戻った人間の顔だ。
「おはようございます」
マリナが言うと、副官さんが会計台の向こうで帳面から目を上げた。
「おはようございます。今日は外、もう並んでいます」
「見えました」
「日曜ですからね」
副官さんの声にも、昨日までの硬さはなかった。忙しいことに変わりはない。だが、あの金曜の切羽詰まった熱とは違う。今日の忙しさは、店が本来持っている忙しさだ。
山本さんはすでに包み紙を整えていた。昨日までの二日で、紙の重ね方も、木皿の位置も、指先が自然に覚え始めている。
「お、おはようございます」
少しだけ緊張はある。けれど、その声にもう営業の怯えは混じっていない。
「おはようございます」
マリナが返すと、山本さんも小さく頷いた。
ユウトはすぐに厨房へ入る。
「師匠、今日は何からですか」
「まず林檎や。あと、そっちの台を先に出せ」
「はい」
触れた林檎の箱がふっと消える。
次の瞬間には、剥いて切るための台の上へ必要な分だけ現れていた。無限収納だ。だがもう、それは厨房の中では異質なものではなかった。師匠の指示と弟子の動きの間にある、ごく自然な手段として収まっている。
魔王さんが生地を伸ばしながら言う。
「昨日の台、残し方よかったで」
「ありがとうございます」
「今日も同じや。見えても焦るな。流れの中で拾え」
「はい、師匠」
そのやり取りの横で、ユウトの視線が果実と生地を順に追う。完全鑑定で拾った差を、どの皿へどう落とすか。日曜になると、その判断の速さがまた一段滑らかだった。
魔王さんもそれを前提に指示を出している。
「そっち二つ、どっちが先や」
「右です。左はまだ少しだけ熱が芯に残ってます」
「よし、右を先。左は次の果実に回す」
短い。だが、それで全部が通る。見えている者同士の会話だった。
マリナは売り場の布を整えながら、その響きを聞いていた。
収納で運ぶ。鑑定で見分ける。言葉にするとそれだけだ。けれど、実際には厨房の呼吸そのものを支えている。置く場所が先に空き、出す皿が先に決まり、熱の残り方まで無駄なく噛み合う。戦闘で距離と重心を読むのと同じように、今のユウトは焼きと水分と順番を読んでいた。
「先生」
レイナが囁く。
「今日、さらにいいですね」
「ええ」
マリナもすぐに頷く。
「三日目だからでしょうね」
「店の方も、黒崎くんの方も」
その通りだった。
土曜よりもさらに噛み合っている。金曜は間に合った喜びがあって、土曜は流れが戻ってきた。日曜は、その二日をちゃんと越えた朝だ。
「開けるで」
魔王さんの声が飛ぶ。
扉が開いた瞬間、日曜の客足が店へ流れ込んだ。
最初の波は金曜や土曜より早かった。待っていた客がそのまま入ってくる。視線が売り場を走り、目当ての位置を見つけ、そこへレイナの声が添う。
「今日はアップルパイ、最初から速いと思います」
その一言で、数人の客の視線が会計台の方へ先に動いた。持ち帰りたい客はやはり多い。
「こちら二つお願いします」
「はい、承知しました」
山本さんの声が返る。副官さんが横で金額を通し、紙を揃え、釣りを返す。昨日までの二日間で組んだ流れが、そのまま日曜の朝へ乗っていた。
売り場ではマリナとレイナが迷いを受け、厨房では魔王さんとユウトが皿を仕上げる。ガルドとダインは入口と列を見て、人の流れがぶつからないように位置を調整する。
その全部が一つになった時、店の中には不思議な軽さが生まれる。
忙しいのに軽い。
熱があるのに苦しくない。
そういう流れだ。
「先生、こっち先に出します」
ユウトが熱の残る皿を持ってくる。
「ありがとうございます」
マリナが受け取り、売り場へ置く。
焼きたての香りが立ち、列の後ろの客まで少しだけざわめく。甘い匂いに、誰かが小さく息を飲むのが分かった。
「今日、すごいですね」
前にいた若い女客が、思わずみたいに言う。
「朝一番ですから」
マリナが微笑んで答える。
「一番香りがいい時間です」
客はそれで十分だったらしい。頬を少し赤くして頷き、その皿を選ぶ。
そんなやり取りが何度も続いた。
朝の空気は徐々に店の熱へ押され、窓の外の光も高くなっていく。売り場の皿は減り、追加が出て、また減る。アップルパイの山も少しずつ低くなっていく。
「アップルパイ、もう半分切ってます」
山本さんが言う。
その声に、昨日までの緊張とは違う仕事の芯があった。
「やっぱり早いですね」
レイナが返す。
「日曜ですからね」
副官さんが静かに言う。
「今日は持ち帰りの客も多いです」
その通りだ。物流が戻る見込みが立ったとはいえ、客の感覚はすぐには戻らない。買える時に買っておく。その気持ちはまだ強い。
だが、その強さも今は店の流れを押している。
止まるよりいい。ずっといい。
営業が進むにつれて、マリナの中でも何かが静かにほどけていった。
火曜の夜から続いた濃さの最後の糸が、日曜のこの忙しさの中でようやく切れていく感じがする。鎖の音も、橋板の冷たさも、渡し場の流れも、全部消えたわけではない。けれど、もうそれだけが胸の中を占めてはいない。
目の前の客が皿を選ぶ。
会計が通る。
アップルパイが包まれて、腕の中へ収まる。
師匠と弟子の厨房から、また次の香りが上がる。
その一つ一つが、止まらない流れになっていた。
「先生」
レイナが小さく囁く。
「今、すごくいい顔してます」
「そういうことを接客中に言わないでください」
「接客中だからですよ」
意味が分からない。
そう思いながらも、マリナは客へ笑みを向ける。
その笑みが、たぶんいつもより少しだけ柔らかいのだと、自分でも何となく分かった。
⸻
(続く)




