第102話 酒場と物流と盗賊の件(二十)
相沢が帰ったあと、借家の中には静かな午後が残った。
さっきまで卓の上で揺れていた茶の湯気も、もう細くなっている。窓から入る光は少しずつ角度を変え、木の床の上をゆっくりと移動していた。外の通りでは人の声が行き交っている。土曜の午後らしい賑わいだ。けれど、その音は戸と壁を隔てたこちらまでは強く入ってこない。
疲れた体には、その遠さがちょうどよかった。
「先生」
レイナが杯を置いて言う。
「少し横になります?」
「ええ」
マリナも素直に頷いた。
「今はその方が良さそうです」
言ったところで、ユウトが少しだけ顔を上げる。
「先生」
「何ですか」
「寝るなら、ちゃんと横になってください」
「ちゃんと横になります」
「椅子のまま寝ると首を痛めます」
「分かってます」
そこまで言われるほど信用がないのかと思ってしまうが、疲れている時の自分が少し雑になるのは否定しきれない。マリナは小さく息を吐き、立ち上がった。
レイナも伸びを一つしてから、自分たちの部屋へ向かう。動きに軽さはない。むしろ、立ち上がった瞬間に脚の重さを思い出したような顔だった。
「黒崎くんたちも、ちゃんと休んでくださいね」
部屋へ入る前に振り返って言うと、ユウトは頷いた。
「はい」
短い返事だったが、その声にももう眠気の重さが混じっている。
寝台へ体を預けると、布団の柔らかさが思った以上に深く沈んだ。
肩も、背中も、ふくらはぎも、ここ数日の重さをまだ抱えている。けれど、その重さは嫌なものではない。やるべきことをやって、そのあとでしか来ない種類の重さだ。
マリナは目を閉じた。
すぐには眠れないと思っていたのに、意識は拍子抜けするほどあっさり落ちた。
次に目を開けた時には、部屋の中の光が少し赤みを帯びていた。
夕方だ。
眠った時間は長くないはずなのに、体の奥の張りはだいぶ引いている。外では鳥の声が少し変わり、通りのざわめきにも昼とは違う緩みが混じっていた。
隣の寝台では、レイナがまだ布を肩まで引き上げたまま、半分だけ目を開けている。
「……先生」
「起きてますよ」
「今、ちょっとだけ、自分がどこにいるか分からなかったです」
「私も少しだけそうでした」
そう答えると、レイナが小さく笑う。
数日間ずっと気を張っていたのだ。昼寝一つで感覚がずれるのも無理はない。
部屋を出ると、居間の方には柔らかな夕方の光が落ちていた。窓から射す光が卓の端を照らし、木の節目を赤く浮かび上がらせている。ユウトはすでに起きていて、窓の近くで水差しを持っていた。
「先生」
「何ですか」
「起きましたか」
「ええ」
「少しは楽ですか」
その問いに、マリナは自分の肩を軽く回してみる。朝から比べれば、はっきり分かるくらい軽い。
「だいぶ」
「良かったです」
ユウトがそう言った時、ちょうどダインも隣の部屋から出てきた。
「寝た方が戻るな」
短い一言だったが、全員の実感そのものだった。
そのあとしばらくは、本当に何もしない時間が続いた。
夕食の支度は簡単なもので済ませた。昼の残りと、少しのスープ。それを温め直して、パンを添える。それだけなのに、借家の中へ夕餉の匂いが広がると、不思議と日常が戻った気がする。
食卓についた時、レイナが湯気の向こうで言った。
「明日は日曜ですね」
その一言で、今日が土曜の夕方だということが改めてはっきりする。
「ええ」
マリナは頷いた。
「店ですね」
「はい」
ユウトの返事は、昼までとは違ってもう落ち着いていた。疲れが抜けたぶん、声の芯が戻っている。
「師匠、明日は何を出すんでしょう」
「さあ」
レイナが肩をすくめる。
「でも、今日の流れだと朝から強そうですよね」
「土曜であれなら、日曜も人は来るだろうな」
ダインが言う。
その通りだろう。
金曜と土曜で流れは完全に戻った。王都からの物流の見込みも立ち、店も二日続けてきっちり売り切った。日曜の客足が弱くなる理由は少ない。
夕食を終えたあと、外はすっかり暗くなった。
夜の空気は昼より少しひんやりしていて、窓の隙間から入る風が火照った頬を冷やしてくれる。借家の中では、灯りが一つだけ卓の上を照らし、その周りにだけ柔らかな明るさが落ちていた。
そんな時間に、また戸が叩かれた。
今度の音は昼よりも軽い。急ぎではないし、構えた感じもない。生活の途中で立ち寄る者の叩き方だった。
ユウトが戸を開ける。
立っていたのはガルドだった。
「少しだけ顔を見に来た」
低い声は、いつものままだ。
「みんな生き返ったか」
「だいぶ」
マリナが答えると、ガルドはひとつ頷いた。
自宅で夕餉を済ませてきたのだろう。服には夜の外気の匂いが薄くついているが、酒の気配はない。家族と過ごしたあとの落ち着きが、そのまま声に乗っていた。
「物流の件、聞いた」
ガルドが言う。
「相沢から伝言が来た。まあ、これでひとまずだな」
「ええ」
「しばらくは街道も落ち着くでしょう」
「だといいがな」
そう言いながらも、声は硬くない。
ガルドは室内を見回し、全員の顔色を順に確認した。疲れてはいるが、潰れてはいない。それを見て取ったのか、少しだけ肩の力を抜く。
「明日もある。今日はもう休め」
「ガルドさんもです」
レイナが言うと、ガルドは小さく息を吐いた。
「俺は家に帰れば休みみたいなもんだ」
その一言に、借家の中の空気が少しだけやわらぐ。
そうだ。この人には帰る家がある。隣に自分の家があって、妻と娘が待っている。その当たり前が、ここ数日の濃さのあとでは妙にありがたく見える。
「先生」
ガルドがふとマリナを見る。
「ユウトの顔、だいぶ戻ったな」
言われてマリナもユウトの方を見る。
たしかに、昼のあの重い静けさはもうない。朝、鎖に繋がれた連中を見た時の色も、借家へ戻った直後の張りつめた感じも、今は薄れている。代わりにあるのは、仕事を終えたあとの静かな落ち着きだ。
「ええ」
マリナは頷いた。
「もう大丈夫そうです」
「先生のおかげです」
ユウトがすぐに言う。
レイナが吹き出す。
「やっぱりそこなんですね」
「そこだろう」
ガルドが低く笑った。
「黒崎くん」
マリナは少しだけ眉を寄せる。
「何ですか」
「そういうのを、すぐに言わなくていいです」
「本当なので」
「本当でもです」
やり取りは短い。けれど、その短さにもう火曜の夜みたいな危うさはない。ただ、少しだけ体温のある空気として卓の上を通り過ぎる。
ガルドはその様子を見て、それ以上は何も足さなかった。
代わりに、少しだけ視線を柔らかくしてから言う。
「じゃあ、俺は戻る」
「はい」
マリナが頷く。
「お疲れ様でした」
「おう」
戸が閉まり、また借家の静けさが戻る。
そのあとは、本当に穏やかな夜だった。
誰も無理に話を広げない。灯りの下で少しだけ湯を飲み、明日の支度を確かめ、戸締まりを見て、寝る。それだけの流れが、今は何よりありがたかった。
寝る前、ユウトが水袋を揃えていた。
無限収納の使い手らしく、荷そのものは多くなくても、必要な位置と順番だけはきちんと整える。マリナはその横顔を見ながら、小さく言った。
「黒崎くん」
「はい」
「明日も、お願いします」
ユウトは一度だけ手を止めた。
「はい」
短い。だが、まっすぐな返事だった。
「先生も」
「何ですか」
「無理しないでください」
「黒崎くんに言われるとは思いませんでした」
「します」
「するんですね」
「します」
そこまで真顔で言われると、もう笑うしかない。
レイナが横で肩を震わせている。
「先生、今日もだいぶ甘いですね」
「違います」
「違わないです」
「もう寝てください」
その言葉通り、その夜はすぐに終わった。
日曜の朝は、静かに来た。
まだ日が完全に昇り切る前の白い光が、窓の向こうでじわじわと広がっていく。目を開けた瞬間に、昨日までよりも体が軽いのが分かった。疲れが消えたわけではない。だが、四日間の街道と二日間の営業の底を、ようやく一晩で越えられた感じがある。
マリナは起き上がり、静かに息を吸った。
冷たい朝の空気が肺へ入る。その冷たさが心地よいと思えた時点で、今日はもう昨日よりいい。
隣の寝台で、レイナも小さく身じろぎした。
「……先生」
「起きてます」
「今、ちょうど言おうとしてました」
「分かりました」
そんなやり取りをしているうちに、外の朝が少しずつ色を濃くしていく。
日曜だ。
そして、今日もまた魔王さんのケーキ屋へ行く。
そのことを思った時、マリナの胸の中には、火曜の夜からずっと続いていた濃さとは違う、静かで澄んだ熱が残っていた。
⸻
(続く)




