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クラスごと異世界転移したモブの俺、ハズレスキル【無限収納】が覚醒したので異世界で無双します  作者: よるねこ
第一章

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第101話 酒場と物流と盗賊の件(十九)


 借家へ戻るまでの道は短いのに、土曜の午後の光の中では妙に長く感じられた。


 昼を過ぎた陽は、真上からではなく少し斜めに落ちてくる。石畳の白さも朝ほど刺さらず、代わりに歩くたび足元の影が細く伸びて揺れた。売り切れたあとの店の甘い匂いが、服や髪の端にまだ残っている。その甘さに、朝から動き続けた体の汗と、河原の冷たい記憶が薄く重なって、何とも言えない疲れの匂いになっていた。


 借家の戸を開けると、屋内のひんやりした空気が頬に触れる。


 その瞬間、肩に残っていた見えない重さが少しだけ下りた。


「はあ……」


 今度はレイナの方が先に息を吐いた。


「今日は本当に、もう動きたくないです」


「私もです」


 マリナも素直に認める。見栄を張る意味がない疲れ方だった。火曜の夜からこっち、ずっと何かが続いていた。酒場の熱、街道の緊張、ギルドの報告、橋や渡し場での戦い、金曜と土曜の営業。その全部がようやくここで切れて、体が今になって自分の重さを思い出している。


 ユウトは部屋へ入ると、まず戸の締まりを確かめ、それから壁際へ寄せていた荷を静かに置いた。営業が終わったあとの借家では、無駄な音を立てない。そこはいつも通りだ。だがいつも通りだからこそ、今日の動きの遅さが少しだけ分かる。


「黒崎くん」


「はい」


「今日は本当に、もう何もしなくていいですからね」


「何もしないのは無理です」


「そこは即答しなくていいです」


 マリナが額に手を当てると、レイナが小さく笑う。


「ユウトくん、そこはせめて考えてから言ってくださいよ」


「考えました」


「考えたんだ」


 そこは考えたうえで無理なのかと、レイナが肩を震わせる。笑っているのに疲れが混じっているから、いつもより声が少し低い。


 ダインは靴を整えたあと、短く言った。


「少し休む」


「そうですね」


 マリナも頷く。


「日が落ちる前に少しでも横になった方がいいです」


 ダインはそれ以上何も言わず、自分たちの部屋へ引いた。扉が閉まる音も小さい。その静けさに押されるみたいに、借家の中の空気も次第に落ち着いていく。


 レイナは台所の方を見てから、マリナへ顔を向けた。


「先生、どうします。軽くお茶でも入れます?」


「そうですね」


 マリナは壁に手をついて、少しだけ足首を回した。河原で水を踏んだ時の冷たさが、まだ筋の奥に残っている気がする。


「熱いのを少しだけ欲しいです」


「私もです」


 ユウトがすぐに言った。


「あなたはさっき何もしないのは無理って言ったばかりでしょう」


「お茶を飲むのは何かするに入らないです」


「屁理屈ですね」


 そう言いながらも、マリナは完全には呆れきれなかった。さっきまで師匠の厨房で働いていた顔のままこういうことを言うから、気が抜ける。


 レイナが湯を沸かし始める。小鍋の底へ水が触れる音がして、すぐに細かな泡の気配が立つ。借家の午後は静かだ。表の通りから人の声は聞こえるが、壁一枚隔てるだけで遠くなる。戸板の向こうに街があり、その中で物流も、客の流れも、鎖に繋がれた連中も、それぞれ別の方向へ動いている。けれど今ここにあるのは、湯の音と、疲れた呼吸だけだった。


 温かい茶を口へ含むと、喉の内側から胸の奥へゆっくり熱が下りる。


 その熱が思っていたより深く沁みて、マリナは目を閉じた。舌に残る少し苦い味が、さっきまで鼻に残っていた甘さを押し流していく。体が求めていたのは、こういう単純な温かさだったのだと思う。


「生き返りますね」


 レイナが小さく言う。


「本当に」


 マリナも答える。


 ユウトは木の杯を両手で持ったまま黙っていた。何かを考えている顔ではない。ただ、ようやく止まった体の中で、気持ちの方が少し遅れて落ち着いていくのを待っているように見える。


 そこへ、戸を叩く音がした。


 三度。急ぎではないが、ためらいもない叩き方だ。


 マリナは思わずレイナと目を合わせる。


「誰でしょう」


「俺が出ます」


 ユウトが立ち上がる。


 まだ疲れているのに動こうとする。だが、その動きがもう借家の中のものに戻っているのを見て、マリナは止めなかった。


 戸が開く。


「こんにちは」


 聞こえた声に、マリナは少しだけ眉を上げた。


 相沢だ。


 ユウトの肩越しに見えた顔は、いつも通りに整っていた。だが、今日はさすがに少しだけ忙しさが顔へ乗っている。目の下に薄い影があり、服の裾にも歩き回ったあとの埃がついていた。


「お邪魔していいですか」


「どうぞ」


 マリナが答えると、相沢は一礼して中へ入る。借家の中の空気を一度で見渡し、全員の顔色を確認するみたいに視線を動かしてから、小さく笑った。


「さすがに疲れてますね」


「見れば分かります」


 レイナが言う。


「そっちもでしょ」


「ええ、まあ」


 相沢は否定しなかった。否定できる顔でもない。


 卓の前へ座ると、彼はまず息を一つ整えた。それから本題を切り出すまでの間が短い。そういうところがいかにも相沢だった。


「物流の件ですが、かなり戻ります」


 マリナの指先が、持っていた杯の縁で止まる。


「ギルドからも話は来てると思いますが、こっちでも商人側の情報が繋がりました。王都からの便は来週にはだいぶ正常化します」


 その「だいぶ」の中に含まれるものが、マリナにはよく分かった。完全ではないが、止まっていたものが動き始める。その差は大きい。


「そうですか」


「はい」


 相沢は頷く。


「細い遅れはしばらく残るかもしれません。でも、大きい流れは戻るので、こちらの見込みも立てやすくなります」


 そこまで言ってから、少しだけ口元を上げた。


「つまり、前に話していた件も前進します」


 レイナがすぐに笑う。


「言い方が商人ですね」


「商人ですから」


 相沢は平然としていた。


 けれど、その視線は一度だけマリナへ向く。短い。だが十分すぎるほど意味が分かる。


「……具体的には、いつ頃ですか」


 自分の声が少しだけ硬かったのを、マリナは言ってから気づいた。


 相沢はその硬さを気にする様子もなく、指先で机を軽く叩いた。


「早ければ来週前半です。王都からの流れが大きく崩れなければ、その便に乗ります」


 早い。


 思っていたよりずっと早かった。


 胸の奥が一瞬だけ持ち上がる。その持ち上がり方があまりにも素直で、マリナはすぐに表情を引き締めた。


「先生」


 レイナが、明らかに面白がっている声で囁く。


「今、分かりやすかったです」


「分かりやすくありません」


「分かりやすいです」


 即答だった。


 相沢はそこでさすがに少しだけ笑った。


「困っていたようなので、良かったですね」


「相沢くんまで」


「事実ですから」


 今日の相沢は、妙に全員が同じ方向から刺してくる。


 その横で、ユウトが静かに口を開いた。


「先生が困らないのはいいことです」


 真顔だった。


 相沢が一瞬だけ目を細める。こういう時だけ、商人の顔ではなく観察する顔になる。


「黒崎、その反応はいいですね」


「何がですか」


「そこです」


「分かりません」


 分かっていないふうで、たぶん半分は分かっていない。本当にそういう男だから困る。


 マリナは杯を置いて小さく息を吐いた。


「もう、その話はここまでにしてください」


「先生、機嫌良くなってますよ」


 レイナが追い打ちをかける。


「なってません」


「なってます」


「なってません」


 そこで相沢が、くすりと笑って話を戻した。


「まあ、それはそれとして」


 助かったような、余計だったような切り替えだった。


「街道の件ですが、商人側でもかなり話題になってます。王都から共和国への嫌がらせだとまではまだ公には出てませんが、流れを狙われたって感覚は広がってます」


 部屋の空気が少し引き締まる。


 さっきまでの、温かい茶と疲れた午後の空気の上へ、現実が薄く重なる。


「だが」


 相沢はそこで言葉を継いだ。


「今回、ちゃんと止められたのは大きいです。流れは戻るし、こちらも次の手を打てる。商人はそういう意味で、皆かなり助かってます」


「そうですか」


 マリナが答える。


 褒められたいわけではない。だが、街道でやったことがちゃんと街へ返っているのだと分かると、胸の奥に残っていた硬さが少しだけ報われる。


「黒崎」


 相沢が今度はユウトへ向いた。


「お前も助かったぞ。店に間に合ったのもでかい」


「はい」


 ユウトは素直に頷いた。


「師匠のところに戻れて良かったです」


 相沢がそこで少しだけ目を細める。


「そこまで言い切るのは、いいですね」


 またそういう言い方をする。


 レイナが笑い、マリナはもう何も言わずに額へ手を当てた。


 相沢は茶を一口もらって、短く礼を言い、それから本当に伝えるべきことだけを整理して話した。流通の読み、来週の見込み、下着の件、高田さん側の調整、そして「しばらくは大きな混乱はないはずです」という最後の一言。


 それを聞き終えた頃には、借家の中へ午後の静けさがまた戻ってきていた。


 相沢が帰るために立ち上がる。


「では、今日はこれで」


「ありがとう」


 マリナが言うと、相沢は少しだけ肩をすくめた。


「こちらも助かってますから」


 戸口のところで一度だけ振り返る。


「それと先生」


「何ですか」


「今日はかなり分かりやすかったので、来週はもっと分かりやすくなるかもしれませんね」


「相沢くん」


「では」


 逃げるように出ていった。


 戸が閉まる。


 ほんの一瞬の静けさのあとで、レイナが堪えきれずに吹き出した。


「先生、今日は本当に人気ですね」


「嬉しくありません」


「でも、来週がちょっと楽しみにはなりましたよね」


 そこは否定しづらい。


 否定しづらいのが悔しくて、マリナは視線を逸らした。


 その横で、ユウトが静かに言う。


「先生」


「何ですか」


「来週、良かったですね」


 あまりにも真っ直ぐで、もう反論する元気もなかった。


「……そうですね」


 小さくそう言うと、ユウトの顔が少しだけ明るくなる。


 それを見た瞬間、レイナがまた笑う。けれど、その笑いも今は優しいものだった。


 借家の外では、土曜の午後がゆっくり傾いていく。


 物流は戻る。街道も、ひとまずは落ち着く。来週には王都からの便もまともになる。止まりかけていたものが、少しずつ元へ戻っていく。


 その中で、自分たちもやっと一息つけるのだと思うと、マリナは胸の奥にゆるやかな安堵が広がるのを感じた。


 火曜の夜から続いた数日が、ようやく本当に土曜の午後へ辿り着いた。



(続く)

さすがに厳しくなってきましたので、今後は

6時、18時の毎日二回更新とさせていただきます。


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