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第五章 トリップラー陸軍病院

北川防衛大臣の銃撃のニュースは世界中を駆け巡った。冴子は、直ちにチャーター便を抑え、タクシーを拾うと羽田に向かった。到着までにはフライトの準備ができているはずだ。車内から、かつての投資銀行の後輩に電話をかけた。今では随分出世して、先日社長に就任したはずだった。



「詩織さんが銃撃された件はご存知よね。お見舞いに行きたいの。力を貸してちょうだい。」



「何をすれば良いんですか?」



「入院先のトリプラー陸軍病院に寄付をするわ。なんなら米国陸軍でも国防総省でも構わない。仲介してちょうだい。私が直接電話しても悪戯だと思われるからあなたの銀行の名前が必要なのよ。寄付の条件は、詩織さんのお見舞いだけよ。今から現地に向かうから、到着した頃には話がついていて、病院側が院内を案内してくれるように手配して欲しいの。」



「判りました。いくら寄付しますか?」



「1億ドルでどうかしら?これだけ払えば、いくら厳戒態勢でも院内ツアーぐらいできるわよね?多すぎても値切るつもりはないけど、少ないようなら連絡を頂戴。10億ドルでも構わないわ。」



「ツアーはできるでしょうけど、詩織さんは集中治療室でしょうから、面会はできませんよ。」


「そこは私の方で何とかするわ。手数料はいくら払えば良い?」



「本当なら何百万ドルか欲しいところですけど、冴子さんならタダでいいですよ。その代わり、そのうちまたタカシさんのビジネスに絡ませてください。」



「ありがとう。恩に着るわ。」



相変わらずキザな男だ。この程度の話で手数料を稼ぐのはプライドが許さないのだ。タカシの会社云々は、この依頼をタダで引き受けたことを取締役会で追及された場合に備えた言い訳に過ぎない。冴子はニヤリと笑った。



チャーター便専用のゲートを通って入国すると、陸軍病院のスタッフが待機していた。空港からほど近い、一際目立つピンク色の建物からなるアジア・太平洋地区で最大の陸軍病院に着くと院長が冴子を出迎えた。



「この度の多額の寄付のお申し出、大変感謝いたします。」



「実はこちらに入院している、日本の防衛大臣とはとても懇意にしていて、治療をしていただいていることへの感謝の気持ちを表したくて、寄付させていただきました。そんなことしなくても最善を尽くされていることは充分承知していますが、彼女のために何かしてあげたかったのです。彼女の容体は如何ですか?」



「全身に銃弾を浴びています。幸いそのどれもが急所を外していますが、数がとても多く、治療は困難を極めています。医師としてこんな事を言っては不謹慎かも知れませんが、普通ならとっくの昔に亡くなっていてもおかしくない状況です。では早速、病室にご案内しましょう。ICUですから、中には入れませんが…。」



院内の要所要所やICUの周りは自動小銃を構えた兵士たちで守られていた。テロリストの背景がわかっていない以上、最悪の事態に備えて厳戒態勢がとられているのだ。国防長官の盾になった日本の防衛大臣が再度襲撃されるようなことは、米国の威信にかけて絶対避けなければならないのだ。院長と同行している冴子でさえ、厳重に身元を確認された。



ICUでは廊下に面した窓から中の様子を伺うことができた。ありったけの測定器が詰め込まれた病室にチューブを繋がれた北川詩織が眠っていた。



「ここでしばらく眺めていても良いですか?もちろん中には入りませんから。」



院長がチラリと兵士に視線を送ると兵士は黙って頷き、冴子に寄り添った。



「お済みになりましたら院長室にお寄りください。」



院長は冴子を残して去って行った。冴子は兵士に近づくとキリアンに寄生生物を持たせて送り込んだ。



“ビリー、あなたも行きなさい。”



“僕がいなくなると、冴子の中にいる詩織の本能を抑えられなくなるかも知れない。冴子一人じゃあ危険だよ。”



“詩織さんの命がかかっているのよ。この際、やってみるしかないの。それよりビリー、つまらないことは考えないことよ。”



“判ってるよ。僕を信じて”



詩織の脳内には三体の寄生生物が潜んでいて、全力で銃創の治癒にあたっていたが、その命は風前の灯だった。冴子は、ビリーをはじめとする手持ちの寄生生物をさらに三体、詩織に送り込むことにしたのだ。さまざまなリスクは承知の上だ。



兵士がふらふらとICUに入って行き、詩織の顔を覗き込むと頭と頭の間に微かな空電現象が起きた。そして彼はふと我に返った、とでもいうようにかぶりを振ると、ICUを出てきて再び冴子に寄り添った。



意識は完全な闇から薄ぼんやりとしたものに変わり、夢でも見ているかのように様々なものが去来するようになっていた。藤村は、その中にこれまでよりも一層強い寄生生物の気配を感じた。キリアンが藤村の意識を覗き込んでいた。“キリアン、こいつはチンピラだが、良い奴だ。一緒に酒でも飲んだら楽しそうだったな。ああ、でも何でキリアンがここに…?そうか、冴子さんがきてくれたんだ。もう何も心配はいらない。ゆっくり休もう。”そんな暖かい想いに包まれながら藤村は再び深い眠りについた。



数日後、冴子の元に連絡があった。北川詩織の意識が回復したのだ。見舞いに行くと詩織はICUのベッドから微笑み返した。今回は冴子も無菌衣に着替えて入室を許された。



「冴子さん、何があったのかキリアンから伺いました。ありがとうございます。」



「無事で何よりだわ。もう治ってるみたいだけど、寄生生物たちはもうしばらく一緒にいた方が良さそうね。とりあえず、ビリーだけは頂いていくわね。長い付き合いだからいないと寂しいのよ。」



そう言って、冴子はビリーを回収した。ビリーが戻ってきて冴子はホッとした。



“あなたが変な気を起こさないかと気が気じゃなかったわ。”



“そこが、冴子が僕を誤解してるとこなんだ。以前から何度も言ってるけど、僕は支配したいわけじゃなくて、楽しみたいだけなんだ。それに考えても見てよ。防衛大臣ってのは、快楽を追求するには、あまり便利な地位じゃないんだよ。”



冴子はビリーを送り込む際に、万一、詩織を乗っ取ったら八つ裂きにしてやると脅していたのだが、その心配はなかったようだ。冴子はビリーの“忠誠心”に報いる為に、オアフ島での滞在を思い切り楽しむことにした。幸い、ここは快楽を追求するにはもってこいの場所なのだ。



冴子は、夕暮れにはビーチを散歩して夕日を眺めた。冴子はハワイは初めてだった。海外出張は頻繁にあったが、プライベートでの海外旅行に行く暇がなかったし、一緒に行く相手もいなかった。そして、それは詩織も同じだった。意識の表層に上がってきた詩織からハワイの夕日と波の音を楽しむ穏やかな気持ちが伝わってきた。“こんなに良い所なら、もっと早く、二人で来てみればよかったわね”、冴子がそう語りかけると、詩織は、“今、冴子さんとこうしていられるだけで充分幸せです”、と答えた。



しばらく経つと、すっかり傷の具合も良くなり、北川詩織はICUからVIP向け個室に移ることができた。爽やかなオアフ島の風に吹かれるうちにうたた寝をしてしまった詩織が目覚めると、傍の応接セットで洗濯物を畳んでいた冴子がそれに気づいてニッコリと微笑みかけた。



「冴子さん、洗濯なら人に頼んでやってもらいますから。」



「良いのよ、藤村さん。あなたは何度も助けてくれた命の恩人よ。このぐらいのことはさせてもらっても罰は当たらないわ。」



「それはそうと藤村さん、身の回りのお世話って、どなたかいらっしゃるの?」



「秘書が一人いますが、あくまでも防衛省の職員ですから事務的なこと以外は頼みにくいですね。男性ですし…。」



「この際だから、あなた、私を雇いなさいよ。こう見えても私って、良い秘書になるわよ。」



何度か冴子の命を救ったのは事実だが、こうしていられるのは、そもそも冴子が助けてくれたからだ。世間的に見ても冴子は詩織がCFOを務めていた会社のオーナーだ。秘書になどできるわけがない。流石に藤村は冴子の申し出を断った。



「そう?残念ね。私は気にしないんだけどな〜。」



そう言って冴子は、悪戯っぽく笑いながら詩織の瞳を覗き込んだ。



「ところで、何か不自由しているものはない?言ってくれれば買ってくるわよ。」



冴子は、以前、詩織が精神的に落ち込んでいた際に同居して、何くれとなく面倒を見ていた頃を思い出し、ウキウキとはしゃぎながら世話を焼いた。もっとも目の前の人物の中身は現在では本来の詩織ではなく藤村なのだが、冴子にとっては娘でも息子でもどちらでも良かった。



冴子は毎日楽しそうに通ってきた。



「そうそう、退院するときのお洋服がいるわね。いつ頃退院するつもり?」



北川詩織は今、五体の寄生生物を抱えている。体の傷は今すぐにでも治癒できる。いつ退院するかは彼女の意思一つなのだ。



「担当医の話だと、あと二週間入院して、車椅子か杖をついて退院というのが普通のパターンだそうです。私は杖をつく気はありませんが…。」



北川詩織の退院の日、病院の玄関には世界中から大勢の報道陣が詰めかけた。彼女は、冴子が用意した晴れやかなライトグレーのツイードのシャネルスーツに身を包んで会見に臨んだ。本来なら贅沢なこのスーツに身に付けて人前に出ることは、日本の政治家としてはリスキーなのだが、北川詩織の場合、血まみれになって横たわり、虚空を見つめるその姿が人々の目に焼き付いていた。銃撃から完全に回復し、健康には何も問題がないことを印象付けるために、冴子がカトリーヌやオリヴィエと相談して決めた物だった。皆んなの見立て通り、この日の詩織はまるで後光でも差しているかのように輝いていた。



「テロリストから銃撃を受けている最中、どんなことを考えていましたか?」



「犯人を逮捕することしか、頭にありませんでした。」



「あなたのキャリアからは、あのような逮捕劇が可能とはとても信じられません。何か我々が知らない経験がおありなんでしょうか?」



「何事にも初体験はありますが、私がその初体験で死ななかったのは、とても幸運でした。」



「なぜ躊躇なく起爆装置を切断できたんですか?」



「偶然ですが、あの事件の少し前に爆発物処理の演習を視察する機会がありました。その時のことを思い出して、多分これかしらと思った線を引きちぎったんです。確証はありませんでしたが、何もしなければ死ぬんですから、仕方ありませんでしたね。」



「犯人の目の前の地面に何発も銃弾を撃ち込んだのは、何の為ですか?」



「以前見た映画で印象に残っていたシーンだったので、つい真似してしまいました。あの時は私も興奮していましたから。」



「就任時のスピーチで、自衛官を死地に送るのが、ご自分の使命だと話して物議を醸しました。今回、実際に銃撃を受けて何かお考えに変化はありましたか?」



「今回、私は日本の自衛隊関係者としては、初めて銃撃を受けました。治癒までには大きな苦しみがありましたが、今自信を持って言えるのは、どんな犠牲を払っても、悪とは戦うしかないと言うことです。これからも必要があれば同じことをします。命令することも躊躇しません。それが私の使命であることに変わりはありません。」



「今回の事件は、日米関係を象徴するものです。今後、日米が第三国と対峙するようなことがあれば、日本の自衛隊は危険を顧みずに米軍と共に戦うことになるでしょう。」



もはや日本国内でも詩織に辞任を迫るものは誰もいなかった。



記者会見が終了すると、一人の米国人記者が詩織に寄り添う女性に気がついた。誰何された詩織が紹介した。



「この度、私設秘書官に就任した冴子氏です。」



記者はその女性の顔に見覚えがあった。だが、誰だろう?しばらく自問した末、その女性の素性を思い出し、息を呑んだ。他の記者達に気付かれぬようあえて声を出さなかったのだ。これは今日一番のスクープだ。数十億ドルの資産を保有し、つい先ごろも詩織との面会のためだけに1億ドルを寄付した大富豪、冴子が詩織の私設秘書官に就任したのだ。

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