第四章 防衛大臣 北川詩織
防衛大臣に就任すると北川詩織は幹部を集めた式典で所信表明演説を行った。
「私は国の礎は安寧にあると思っています。安寧とは日本国民が苦しまずに穏やかに暮らしていけることです。」
「この為に、自衛隊は二つの大きな使命を有しています。一つは外敵からの防御であり、もう一つが災害派遣です。自衛隊が国民の皆様から必要とされるにはこの二つの責務を果たしていくことが必要です。この二つの責務を果たしていくにあたって、皆さんにお話したいことが3つあります。」
「一つ目は科学的であれ、と言うことです。旧日本軍の失敗の原因は様々ですが、私は非科学的な精神論だと思っています。皆さんの中には、真冬の北海道で首まで水に浸かりながら河を渡らねばならない隊員も出てくるかもしれません。私は、そう言う際に必要とされる精神的な強さを否定するものではありません。しかし、施設や作戦の不備を精神論で補うことは厳に慎んでください。でなければ、自衛隊に進歩はありません。」
「二つ目は、現実的であれ、と言うことです。自衛隊の特質で称賛されることの一つに規律の正しさがあります。どんな任務でも決して手を抜かず、完璧に遂行するその姿は国際的にも高く評価されています。例えば四隅まできっちりと角を合わせた土嚢などが良い例です。これは先程の科学的であれ、と言うことにも関係してきますが、土嚢積みが国土防衛にどの程度貢献するかを考えてみてください。コストとベネフィットを考えて最適なところで折り合いをつけることが肝心です。はっきり言います。いくら土嚢積みが上手くても戦争には勝てません。これは日々現場で最善を尽くしている隊員には理解し難いことですから、もう一度言います。かつて物作り大国を標榜していた我が国には、細部にこだわった美しい製品を作る中小企業が沢山ありました。そして今日、そのような企業の多くが倒産してしまいました。市場で必要とされる実力がなかったからです。しかし、自衛隊が実力を失うわけにはいかないんです。」
「最後に、私は、私の任務は究極的には諸君に死地へ向かうことを指示することだと思っています。もちろん、諸君の安全を担保する為に、科学的な思考や現実的な判断に基づいて、あらゆる手段を講じることになりますが、諸君のリスクをゼロにすることは不可能なのです。自衛隊とはそのような組織であることを肝に銘じて、私は日々の業務を行う所存であります。」
北川詩織はこの演説の草稿を考えた時に、これは非常に困難な事態になると覚悟していた。野党はもちろん、与党内にも反発する者が出るはずだ。だが、北川詩織は創設以来、半世紀以上にもわたって戦場で命を落とした者はもちろん、銃弾の飛び交う戦場に赴いた者さえ一人もいない自衛隊という組織に大きな疑問を抱くようになっていた。
詩織は防衛大学に入学して以来、自衛官として何の疑問も抱かずに訓練に邁進してきた。そして特殊作戦群の中堅幹部になり、自らのスキルに誇りと自信を持つようになっていた。
だが、あの日、冴子と共にハイジャック犯に対峙した時にその自信は全て崩れ去った。詩織はそれまで、人に向けて銃を発射したことがなかった。訓練は充分に積んでいたから、敵を射殺することは容易なはずだった。
初めて対峙したテロリストは、普通の男たちだった。狂気に顔を歪めている訳でもなく、むしろ、自らの信念に基づいて死を覚悟した清々しい表情をしていた。だが、詩織は彼らを射殺した。自分自身と乗客を救うにはそうする以外なかったからだ。だが、それは詩織がそれまで生きてきた世界からはかけ離れた価値観に基づく行動だった。
自衛官が対峙する敵は狂人でも憎い相手でも何でもない。家に帰れば良い父親だが、上官の命令に従って銃を発射しているだけなのだ。そして、必要があれば、その善良な相手を殺すのが自衛官の仕事なのだ。ここにいる者たちはそのことを知らない。果たして銃を手にして敵と対峙した時に役に立つのか?詩織の脳裏にはそんな疑問が渦巻いていた。
日本には25万人ほどの自衛官がいるが、人を射殺した経験があるのは、北川詩織しかいないのだ。
詩織の予想通り、マスコミも野党もこの発言を取り上げて大騒ぎを始めた。だが、詩織はこの議論を避けて通ったのでは、自分が大臣になった意義がないと信じていた。




