キルレア=マーシェン
夜の戸張が下りた頃、カレンは、
「行ってくるね」
と言ってわざわざ脱出してきた王国への転移用の罠を踏んだ。
ユーリは小さく手を振りながら、
「行ってらっしゃい」
と言ったのだが、ちゃんと笑顔で言えただろうか、と思う。
ベッドの上で膝を抱えて座るユーリ。
一人だけの夜は嫌いだ。実は今の生活は夢でしかなくて、目が覚めて病院のベッドに戻ってしまう気がするから……。
部屋の中に漂うカレンの残り香だけが、ただ自分を引き止めていてくれるように思えるのだった。
転移した先の部屋は飾り気のないシンプルなものだった。放置されていた、と思われるのに埃一つなく、誰かが管理しているわけでもないのに燭台の火が揺らめいている。
ダンジョンには“現状記憶“という性質がある。迷わないようにつけた傷がなくなったり、先の冒険者が解除したトラップが復元されたりといった具合だ。
加えて、ダンジョン産でないものが外部から紛れ込んできても“吸収“の性質により貯まったりはしないのだ。
そんなわけだから、ダンジョン内は意外と衛生的なのだが、そう感じられないのは、おどろおどろしい色合いの床や壁による雰囲気のせいであろう。
なんとなく不気味なのだ。
カレンは気を取り直して外に出る。そこはスラムの一画である。なのに誰もこの空間を使おうとしないのはなぜか気になったが、時間がないので走り出した。
建物から出たカレンは陰から陰へ滑るように這うように低く移動した。
なんらかの気配に気付いたとしても、視線を向ける頃には次の死角へと移動してしまっている。
すなわち“陰“とは“人の意識の届かないところ“であった。
カレンは迷いなく目的の場所へとむかった。
「くそっ! この僕に恥をかかせやがっt」
地下室で半裸で気絶していた王は豪華なベッドに花瓶を投げけようとしてそのまま自身も倒れた。
散々手荒に扱われ、ほつれたマットから羽根が舞う。
王はてっきり躓いたものだと思い、一層腹をたてたのだが、すぐに異常に気づく。
身体が動かないのだ。
ベッドによりかかるような体勢の王が見えたのはその足元だけだった。
「……ユーリは優しいから、少し脅すだけで済ませたみたいだけど、結果としてあなたは追っ手を差し向けられたわけよね」
はぁ、とため息を一つつく。
「この国から出ていくのは別に構わないんだけど、けじめは必要よね? “キルレア“の名は聞いたことがあるかしら?」
その一言が与えた影響は大きかった。身動き一つできなかった王が表情を青くするくらいには。
「私は失敗したことがないから、誰にも存在を知られてるはずがないんだけどね」
むろん、マーシェン商会が自らほのめかせているのである。
長い年月が経ち、かつての名声は薄れ出した。マーシェン商会に対し武力をもって優位な取引を行った国が出てきたのである。
嘗められたままでは他の国々も同様な扱いを始めるだろう。
そこでマーシェン商会が取った手段は暗殺者である。単独で潜入し、商会の証拠を残さずターゲットを危める存在。
商会としての活動で集めた情報で送り込まれる暗殺者。
但し、自分の取引を優位にするために使うことは禁じ手とされている。
そんな中、最も優秀な暗殺者に与えられる名が“キルレア“。かつて魔王を倒した勇者の世界の言葉で“暗殺者“を意味するとされている。
腹黒いものほど噂で聞いたことがある存在だ。
「声も出せず、身動きも出来ず、だが苦痛からは逃れられない。お前は興奮しすぎると発作を起こす持病持ちらしいじゃないか。誰も殺されたなどとは思わない」
カレンは無理矢理王の口を開かせて、毒を飲ませる。
それ以上かける言葉もなく、カレンはその場を後にした。
次の日の朝、起こしに来た侍女により、王が倒れていることが発見される。
主治医によると、持病によるものだと診断された。荒れた部屋の惨状から、ひどく興奮していたのだろうことは明らかだったからだ。




