タイトル未定2026/09/15 18:04
6
エレベーターの扉が閉まると、鏡に映るのは私一人になった。口元はすでに腫れ始め、左の袖には大きなコーヒーの染みが広がっている。皮膚はまだ焼けるように痛かった。
腹部へそっと手を当てた。
玲奈が脚を上げた瞬間は、本当に怖かった。オフィスへ飛び出したあと、取引先の人たちも蓮司も見えた。そこから先は、言葉を選んだ。
カナリア塾では、傷ついた時に何を言葉にし、何を黙っておくのかまで教えられた。
金額の話なら、蓮司はいつも迷わず処理した。
私が「もういらない」と言った時だけ、何度もこちらを見た。
一階に着き、ロビーを抜けて神谷ホールディングスの建物を出た。秋風が傷ついた頬に当たり、少しひりついた。
スマートフォンはずっと震えていた。
画面には蓮司の名前。
サイレントモードに切り替えた。
汐見台へ戻ると、先に浴室へ入った。服を脱ぐと、左腕は広い範囲が赤くなっていた。蛇口をひねり、流水でしばらく冷やした。
痛みが少しずつ和らいだ。
鏡の中の私は、唇が切れ、目元も赤かった。
三年前、カナリア塾の教室で真紀先生に聞かれたことがある。
条件の違う相手と関係を持つと決めた時、最優先で守るものは何か。
感情と書いた人がいた。
尊厳と書いた人もいた。
私は「お金」と書いた。
真紀先生は私の机の横で、回答を二秒ほど見た。
「少なくとも、自分が欲しいものはわかってるね」
汐見台の家も、五千万円も、朝凪町の店舗物件も手に入れた。
それでも浴室の鏡を見ていると、あの保温ジャーを思い出した。中に入っていたのは、私が教えた粥だった。蓮司はそれを玲奈のところへ持っていった。
インターホンが鳴った。
水を止めた。
モニターには蓮司が映っていた。ネクタイは緩み、スーツの上着を腕にかけている。
「真帆、開けて」
そのまま立っていた。
少しして、もう一度インターホンが鳴った。
「病院へ行こう。火傷も診てもらわないといけないし、さっき倒れかけただろ。子どものこともある」
通話ボタンを押した。
「自分で行くから」
蓮司はカメラを見上げた。
「せめて今は一人で動かないでくれ。開けて」
壁へ背を預けた。
「水城さんのところへ帰って」
彼の顎に力が入った。
「玲奈とのことは、説明させてほしい」
「説明はいらないよ」
モニターの中で、蓮司の口が一度閉じた。
先に続けた。
「離婚条件はもう決まった。離婚届も予定通り出す。誰と暮らすかも、蓮司の自由だから」
画面の中で彼は立ったまま動かなかった。
「でも、真帆は俺の子どもを妊娠してる。何も知らないまま、全部終わったことにはできない」
目を閉じ、短く息を吐いた。
「蓮司、最初から決めてたでしょう。私がお金を欲しがって、蓮司は払う。それで成り立ってた」
喉が少し詰まった。
「別の生活を選んだなら、私は補償を受け取って出ていく。それでいいと思う」
蓮司はしばらく黙ったあと、低い声で私の名前を呼んだ。
「もう増やさなくていい」
画面の中の彼を見る。
「家も、現金も、店舗もある。十分だから」
長い沈黙が続いた。
やがて、蓮司がインターホンから手を離した。
「下にいる。真帆は降りてこなくていい」
モニターから姿が消えた。
7
リビングの大きな窓から、敷地内の遊歩道が見えた。
蓮司は一本の木のそばに立っていた。
空が少しずつ暗くなる間に、火傷の処置をし、不動産会社から届いたメールに返信し、翌日の予定を弁護士と確認した。もう一度窓際へ行くと、蓮司はベンチに座っていた。
九時を過ぎる頃には、風がかなり強くなっていた。落ち葉が歩道を転がり、蓮司は肘を膝についたまま俯いていた。
スマートフォンを手に取った。
一度テーブルへ戻した。
数分後、結局番号を押した。
呼び出し音は一度で切れた。
「真帆?」
声がかなり掠れていた。
「上がってきて。病院に行く」
向こうが一瞬静かになった。
「わかった。すぐ行く」
数分後、玄関のチャイムが鳴った。
蓮司の髪は風で少し乱れていた。私の顔を見て、次に腕へ目を落とした。
「車はエントランスの前に回した。ほとんど歩かなくていい」
上着を取った。
「行こう」
白凪総合病院の産婦人科救急はまだ診療していた。火傷を処置し、そのあと腹部の状態も診てもらった。
超音波検査の部屋は照明が落とされていた。
画面に小さな影が映った。
医師が指で示した。
「今のところ状態は安定しています。しばらく無理は避けてください。腹痛や出血、強い違和感があればすぐ来てください」
うなずいた。
蓮司は隣に座り、医師が何か説明するたびに手元の注意事項へ目を落としていた。
検査後、待合室で少し休んだ。
スマートフォンの履歴には、人工妊娠中絶の相談ページがまだ残っていた。画面を開き、下にある予約ボタンを見た。
薬を受け取った蓮司が戻ってきたので、画面を閉じた。
帰りの車はゆっくり走った。
赤信号で止まったところで、蓮司がこちらを見た。
「次の健診、俺にも教えてくれないか」
窓の外へ視線を移した。
「必要なことは弁護士から伝えてもらう」
蓮司の眉が寄った。
「全部、弁護士を通さないと駄目か?」
少し考えてから答えた。
「しばらくは」
青信号になり、車が再び動き出した。
汐見台が近づいた頃、蓮司がハンドルを握ったまま口を開いた。
「これからの健診も生活も、俺に手伝わせてほしい」
「大丈夫」
蓮司はすぐには続けず、前方へ視線を戻した。
「子どものことも俺に責任がある。金だけ決めて、あとは弁護士から連絡を待つだけなんて無理だ」
そこで彼を見た。
「養育費や必要なことは話せるよ。でも、それ以外は今は考えたくない」
彼の指がハンドルの縁をゆっくりなぞった。
車は地下駐車場に入った。
シートベルトを外すと、蓮司も車から降り、玄関までついてきた。
「中に入ってもいい?」
「何するの?」
蓮司は時計を見た。
「夕飯、食べてないだろ。粥だけ作る。食べたら帰る」
しばらく彼を見てから、身体を横へずらした。
蓮司は靴を脱ぎ、台所へ入った。鍋は下から二段目、米は右側の棚。私が濃すぎる粥を好まないことまで、まだ覚えていた。
リビングに座っていると、やがて台所から湯の沸く音が聞こえた。
少しして、蓮司が器を持ってきた。
「熱いから気をつけて」
スプーンを受け取った。
彼は向かいの椅子へ座り、両手を組んだまま少し黙っていた。
「玲奈とは俺がきちんと話す。今日のことも、そのままにはしない」
粥へ息を吹きかけた。
「それは蓮司の問題でしょう」
彼の唇が強く結ばれた。
「玲奈は昔、あんなことをする人じゃなかった」
「そう」
一口食べた。
しばらくして、蓮司が視線を落とした。
「俺と玲奈のこと、本当に何も聞かないんだな」
「聞きたくないから」
リビングに沈黙が落ちた。
食べ終えると、蓮司は器を持って台所へ行き、洗い物を終えて調理台まで拭いた。
帰る前、玄関で振り返った。
「明日も腕が痛かったら、連絡して」
壁にもたれたまま答えた。
「気をつけて帰って」
ドアが閉じ、家の中が静かになった。
8
離婚手続きは予定通り進めた。
市役所へ行った日、蓮司も来ていた。窓口で書類を確認し、職員に示された箇所へ名前を書いた。
外へ出ると、蓮司は階段の下で立ち止まった。
「真帆。健診の日、俺にも教えてくれないか」
彼を見る。
「弁護士から連絡してもらえるよ」
蓮司は一度目を伏せ、少ししてまた顔を上げた。
「自分で行きたいんだ」
数秒考えた。
「予定が合えば」
彼の口元が少しだけ動いた。
迎えの車へ向かった。
それから、蓮司は汐見台へ来ることが増えた。最初は物を届けるだけで、医師に勧められたサプリメントや妊娠中でも使えるスキンケア用品、近所のパン屋で週に二日しか出ないクリームパンなどを持ってきた。
使うものは受け取り、高すぎるものは秘書を通して返した。
ある夕方、大きなジュエリーボックスが玄関前へ置かれていた。中も開けず、すぐ蓮司へ電話をかけた。
「持って帰って」
電話の向こうでは会議中らしく、人の声が聞こえた。
「気に入らなかった?」
「そうじゃない。もう十分ある。今はこういうもの、いらない」
向こうが少し静かになった。
「わかった」
その日の夜、運転手が箱を引き取りに来た。
数日後、玄関に置かれていたのは、ヨーグルトと苺二パックだった。
それは家へ入れた。
玲奈からも何度か電話があったが、一度も出なかった。
その後、蓮司が汐見台で彼女からの電話を受けた。私はダイニングで、店舗物件の賃貸書類を確認していた。
蓮司はベランダへ出た。
ガラス戸が完全には閉まっていなかったため、玲奈の声は聞き取れなくても、蓮司の声ははっきり届いた。
「真帆は関係ない。あの日、手を出したのは玲奈だ」
電話の向こうの声が急に大きくなった。
蓮司は眉間を押した。
「真帆のところへ行くな。電話もしないでくれ」
数秒、相手の話を聞いた。
「今まで俺が許してきたことは多い。でも、熱いコーヒーをかけて、平手打ちして、そのあと蹴ろうとした。それをなかったことにはできない」
玲奈が泣いているような声が微かに聞こえた。
蓮司は私に背を向けたまま、短く言った。
「ここまでにしよう」
通話が終わった。
彼はそのままベランダで少し風に当たり、やがて部屋へ戻った。
私はまだ書類を読んでいた。
蓮司がスマートフォンをテーブルへ置いた。
「朝凪町の店舗、売るのか?」
「今は貸す。条件がよければ、あとで考える」
彼は書類へ一度目を落とした。
「何か手伝える?」
「不動産会社に任せてる」
蓮司はうなずき、それ以上は聞かなかった。
生活を少しずつ組み直した。五千万円の運用先を整理し、汐見台の家は当面そのままにした。真紀先生から財務アドバイザーも紹介してもらった。
蓮司が来る頻度も増え、重い荷物を代わりに動かしたり、健診の日には病院の入口で待っていたりした。貧血気味だと言われると、妊娠中の食事について調べ始めた。
ある晩、外はひどい雨だった。
夕食を作った蓮司が帰ろうとして、玄関で靴を履いていた。窓には雨が激しく当たっていた。
リビングからその背中を見た。
「客室、空いてるよ」
蓮司が振り返った。
「雨がひどいから、明日の朝帰れば?」
彼は玄関に立ったまましばらく何も言わず、やがて履いた靴を脱いだ。
「……わかった」
それから時々、客室を使うようになった。クローゼットには数枚のシャツが増え、洗面所にも歯ブラシが一本増えた。
朝、寝室のドアを開けると、台所から粥の匂いがする日があった。
9
蓮司は夜の会食をかなり減らした。
七時か八時頃になると玄関で鍵の音がして、帰宅すると手を洗い、そのまま台所へ向かった。粥はもう教える必要がなく、妊娠中でも食べやすい料理も自分でいくつか覚えていた。
朝起きれば食卓には朝食があり、眠れずに夜中に水を飲みに下りると、リビングには小さな灯りがついていた。
蓮司はソファで会社の資料を読んでいた。
「具合悪い?」
「眠れないだけ」
彼はノートPCを少し閉じ、私の足元を見た。
「脚、またつった?」
首を振ると、蓮司はそれ以上聞かずに立ち上がった。
「牛乳、温める」
そのままソファに座る夜もあれば、水だけ持って寝室へ戻る夜もあった。
家の中の物も少しずつ増えていった。妊娠中でも締めつけないカシミヤの部屋着、新しい空気清浄機、寝室の道路側には防音工事まで入った。昔、雑誌を見ながら「きれい」と言っただけのバッグやジュエリーも届いた。
また箱が増えているのを見て、クローゼットの入口から声をかけた。
「蓮司、もう買わなくていいよ」
リビングでは、彼がベビーベッドを組み立てていた。
ドライバーを持つ手が止まった。
「気に入らなかった?」
「十分あるから。こういうものは、自分でも買える」
蓮司はしばらくこちらを見た。
「わかった」
そのあと、高価な贈り物は減った。
代わりに、私の好きなヨーグルトが冷蔵庫へ入り、食べきったビスケットが補充されるようになった。夜に脚がつった時に使う温熱パッドや健診の書類をまとめるファイル、浴室で残り少なくなった綿棒まで、なくなりそうになると新しいものが棚に置かれていた。
いつ見ていたのかは知らない。
再婚の話も何度か出た。
ある晩、蓮司が切った林檎をテーブルへ置いた。
「真帆、子どもが産まれたあと……もう一度、婚姻届を出すことは考えられない?」
林檎を一切れ取った。
「考えてない」
蓮司の指が掌の中で少し曲がった。すぐには次の言葉が出ず、視線だけがテーブルへ落ちた。
「少し先でも?」
「少なくとも、今は無理」
蓮司は数秒黙り、残った果物の皮をまとめて立ち上がった。
「わかった」
青凪市の経済界は狭かった。
神谷ホールディングスの社長が、離婚した元妻の家へ頻繁に出入りしている話はすぐ広まった。
真紀先生と小さなチャリティーパーティーへ出た時、知り合いらしい女性がグラスを持って近づいてきた。
「神谷夫人、もうすぐご出産なんですって?」
私が答えるより先に、後ろから来た蓮司が止まった。
「神谷夫人ではありません。離婚しています」
女性が目を瞬かせた。
「失礼しました。でも、お二人は今もご一緒だと聞いて……」
蓮司は私へノンアルコールの飲み物を渡した。
「俺がまだ諦めてないだけです」
飲みかけた水が喉につまりそうになった。
横を向いて蓮司を見る。
本人は平然としていた。
相手は曖昧に笑いながら、別の話題へ移っていった。
帰りの車で、後部座席に背を預けた。
「外でああいうこと言わないで」
蓮司がこちらを見た。
「諦めてないって話?」
「そう。恥ずかしい」
彼の口元が少し緩んだ。
「恥ずかしいのは俺だろ」
窓の外へ顔を向けた。
妊娠後期に入り、白凪総合病院へ入院する少し前から、蓮司は仕事の一部を汐見台の書斎で処理するようになった。
ある夜中、水を飲みに下りた。
書斎のドアが少し開いている。
蓮司はデスクに伏せて眠っていた。
PCの画面はまだ明るく、横に置かれていたのは会社の書類ではなく、翌日の健診に持っていく資料だった。
入口で少し立ち止まった。
声はかけず、リビングに置いてあった薄いブランケットを持ってきて椅子の背へかけた。
そのまま寝室へ戻った。
10
予定日が近づき、私は白凪総合病院の特別個室へ入った。蓮司はその期間に入っていた不急の予定をほとんど外し、昼間は病室のソファ脇に置かれたテーブルでPCを開いて仕事をしていた。夜中に看護師が来れば、一緒に目を覚ました。
出産は大きな問題もなく終わった。
赤ん坊の泣き声が聞こえた頃には、腕を持ち上げる力さえほとんど残っていなかった。看護師が赤ちゃんを近くへ連れてくると、まだ赤みの残る小さな顔の目元に、蓮司に似たところがあった。
蓮司が分娩室へ入ってきた。
足取りは速かったが、ベビーベッドの横で一瞬立ち止まり、そのあと先に私のベッドまで来た。
「真帆」
目を開けると、彼の目は赤かった。
手を伸ばしかけ、私の指に触れる直前で止めた。
「お疲れさま」
目を閉じた。
「赤ちゃんは?」
蓮司はベビーベッドのほうを見た。
「元気だよ」
看護師が赤ちゃんを抱いてきた。
蓮司はすぐ横へよけた。
小さな顔を見下ろしている間、彼はベッドの横でしばらく黙っていた。
数日後、名前を決めることになった。
蓮司がいくつか候補を書いた紙を持ってきた。
その中の一つを指で押さえた。
「『誠』はどうかな」
顔を上げた。
「どうして?」
蓮司は紙の端を指でなぞった。
「これからは、ちゃんと誠実でいたいと思ってるから。そういう意味も……少し込めた」
紙と蓮司の顔を交互に見た。
「あなたの反省を、子どもの名前に背負わせないで」
蓮司は二秒ほど黙った。
やがて、自分でも少し困ったように笑った。
「そうだな」
もう一度候補を見直し、最終的に選んだのは「湊」だった。
神谷湊。
私は離婚後、高瀬姓に戻った。
出生届や養育費、面会のことなど、必要な手続きは双方の弁護士と相談しながら一つずつ決めた。
退院後、私と湊は汐見台へ戻った。
蓮司は客室を使っていた。
最初の数日は、オムツを替える手つきも危なっかしかった。ミルクの温度も何度も確認し、夜中に湊が泣けば私より早く起きるのに、抱き上げたあと何をすればいいのかわからなかった。
ベッドから、その様子を見た。
「先にオムツ見て」
蓮司が慌てて下を向いた。
「ああ。これか」
湊を抱く腕まで一緒に揺れていた。
「そんなに縦に揺らさないで。もう少しゆっくり」
蓮司はすぐに動きを弱めた。
十分以上かかって、湊はまた眠った。
彼は赤ちゃんを抱いたままベッドの端に座り、呼吸まで小さくしていた。
「もう寝かせたら?」
蓮司は湊の顔を見たままだった。
「もう少しだけ」
枕へ背を戻し、それ以上は言わなかった。
一か月健診を終えた頃、神谷家の希望でお宮参りをした。そのあと、隆一さんが青凪市内のホテルで会食の席を用意していた。普通の家族の食事会よりは少し規模が大きく、親族のほかにも神谷家と長く付き合いのある友人や取引先が数人来ていた。
隆一さんは長いこと湊を抱いていた。
食事の途中、グラスを手にして立ち上がった。
「今日は、この子を皆さんに紹介したくてお集まりいただきました。私の孫、神谷湊です」
腕の中の湊へ目を落とし、それから私を見た。
「真帆さんは湊の母親です。真帆さんと蓮司が今後どうするかは、二人が決めることです」
いくつかの視線がこちらへ向いた。
隆一さんは湊の背中へ大きな手を添えた。
「籍を戻すかどうかで、神谷家が真帆さんや湊への態度を変えることはありません。湊が大人になって神谷家の仕事に興味を持つなら、その時に必要な選択肢や環境は用意してやりたいと思っています」
何人かがグラスを上げ、祝いの言葉をくれた。
湊を受け取り、小さな襟元を整えた。
会食が終わると、ホテルの前に車がついた。
蓮司は先に湊をチャイルドシートへ乗せ、ベルトを確認していた。
スマートフォンが震えた。
真紀先生からだった。
『終わった?』
『うん』
少しして、もう一通届いた。
『どう?』
画面を見た。
隣では、蓮司がベルトで湊の服を挟んでいないか確認していた。二度確かめてから、ようやくドアを閉める。
『悪くないよ』
真紀先生から笑顔のスタンプが届いた。
車が走り出すと、湊はすぐ眠った。
蓮司は私の隣に座り、少し距離を空けたまま赤ちゃんを見ていた。
何個か信号を越えた頃、こちらを向いた。
「真帆。再婚のこと……」
彼を見る。
蓮司はそこで口を閉じ、窓の外へ一度目を向けた。
「……やめておく」
「そうして」
蓮司が小さく笑った。
窓の外では、青凪市の街灯が次々と後ろへ流れていた。
汐見台へ帰ると、湊を抱いて子ども部屋へ向かった。蓮司が後ろからついてきて、小さな毛布を整えた。
湊が眠ったのを確認し、書斎へ入った。
一番下の引き出しには、昔の書類がまだいくつか残っていた。開けると、カナリア塾の修了証の下から、当時の成績表が少しだけ覗いていた。
総合順位の欄には「1位」と印字されている。
数秒眺め、成績表を修了証の下へ戻した。
リビングから足音が聞こえた。
蓮司が少し声を落として呼んだ。
「真帆、湊起きた?」
引き出しを閉めた。
「まだ寝てる」
少しして、廊下の向こうから声が返ってきた。
「じゃあ、哺乳瓶消毒しておく」
足音が遠ざかっていった。
PCを開き、朝凪町の店舗物件に関する契約書の続きを読み始めた。
書斎のドアは、少しだけ開いていた。
(完)




