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車のスピーカーで夫の「もう一つの家庭」がバレた。騒がなかった私を見て、夫のほうが慌て始めた  作者: 熾星


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1/2

車のスピーカーで夫の「もう一つの家庭」がバレた。騒がなかった私を見て、夫のほうが慌て始めた



神谷蓮司と結婚して三年目。車のスピーカーから、知らない女の声が流れた。今夜は何時に来るのかと蓮司に尋ねる甘い声の向こうで、小さな子どもが泣いていた。


 蓮司はすぐにBluetoothの接続を切った。


 私は前を向いたまま、一つだけ聞いた。


「私は今夜出ていけばいい? それとも明日の朝?」


 ハンドルを握っていた蓮司の手が数秒止まった。


「出ていかなくていい。汐見台の家は真帆に渡す。ほかの条件は弁護士に任せる」


「わかった」


 カナリア塾の最初の授業で、真紀先生から教わったことがある。関係を始める時は、自分が何を欲しがっているのか相手にわからせておけばいい。そのほうが、相手は安心する。


 そして去る時には、欲しかったものへ慌てて手を伸ばさない。


 蓮司の前では、私は「お金さえあれば満足する女」で通してきた。


 あの年の修了試験では、一位だった。



1



 帰宅するまで、車内ではほとんど会話がなかった。音声はとっくに止まっているのに、女の柔らかな声と、途切れ途切れに聞こえた子どもの泣き声が耳に残っていた。地下駐車場に入ると、蓮司はエンジンを切ったまま、しばらくシートベルトにも触れなかった。


 夜になってから、彼はリビングの窓際に立ち、長いあいだこちらを見ていた。


「真帆、どうして何も聞かないんだ?」


 ピアスを外し、ジュエリーボックスにしまった。


「何を?」


 蓮司は一度窓の外へ目を向けた。


「玲奈のこと。子どものこと。それから……今日のこと」


 顔を上げた。


「聞いたら、もう向こうへ行かない?」


 彼の唇がわずかに動いた。数秒待っても答えは出てこなかった。


「なら、聞かなくていい」


 蓮司は視線をそらし、ネクタイを少し緩めた。


「俺が悪い。財産のことは、きちんとする」


「うん」


 その夜、リビングのフロアライトは遅くまでついていた。客室で眠り、夜中に一度目を覚ますと、廊下の向こうから足音が聞こえた。書斎のドアが開いて閉じ、そのあと階下からグラスをテーブルに置く小さな音がした。


 寝返りを打ち、布団を肩まで引き上げた。


 翌朝、神谷家が長年依頼している弁護士がやって来た。最初に出された条件は、小さな投資用マンション一室と二千万円だった。私は一ページ目から最後まで目を通した。


 弁護士が顔を上げた。


「高瀬さん側から、追加したい条件はありますか」


「ありません」


 仕事では結婚後も旧姓の高瀬を使っていた。戸籍上の名前だけは神谷真帆だった。


 隣に座っていた蓮司がこちらを見たが、その視線には触れず、確認欄に署名した。


 弁護士が書類を引こうとしたところで、蓮司が紙を押さえた。


「待ってください」


 弁護士の手が止まった。


 蓮司はソファに背を預け、書類をもう一度見下ろした。


「今住んでいる汐見台の家を真帆に」


 弁護士は少し驚いたように資料を見直した。


「神谷さん、こちらの物件は現在の評価額がかなり――」


「わかっています。現金は五千万円に変更してください。それから、朝凪町にある店舗物件も真帆名義に」


 弁護士が私を見る。


「その内容でお願いします」


 修正された書類が改めて用意された。不動産の名義変更、現金の支払い、店舗物件の権利、税務上の扱いまで一つずつ確認され、必要な箇所だけ署名した。


 最後に、弁護士が離婚後の氏について確認した。


「離婚後は高瀬姓に戻すことでよろしいですね」


「はい」


 書類を閉じたあとも、蓮司は私の顔を見ていた。


「本当に、それ以上はいらないのか?」


「十分もらったから」


 しばらく目が合った。


「真帆……いや、いい」


 蓮司は先に視線を落とした。


 弁護士が帰ると、蓮司の荷物をまとめ始めた。服は服、仕事関係の書類は書類、腕時計やカフリンクスは別の箱へ分けた。離婚届もすでに用意され、弁護士と相談した日程で提出することになっていた。


 シャツを抱えてクローゼットから出ると、階段のそばに蓮司が立っていた。


「昼、一緒に食べないか」


 足が少しだけ止まった。以前なら、彼から食事に誘われただけで、何を食べたいのか聞いていた。


 シャツを段ボール箱へ入れた。


「一人で食べて」


 蓮司の眉が寄った。


「食事も駄目なのか?」


「こういうことを少しずつ減らしたほうが、お互い楽でしょう」


 彼は一歩近づいた。


「三年一緒に暮らしたんだぞ。離婚するからって、急に他人みたいになる必要はないだろ」


 顔を上げた。


「神谷さん。友達は同じベッドで寝ないし、家族から結婚を急かされたからって婚姻届も出さないよ」


 蓮司の顎が固くなった。


「もう名前でも呼ばないのか?」


 返事はせず、しゃがみ込んで箱の整理を続けた。


 三年前、私はわざと彼の前に現れた。神谷ホールディングスが開いたレセプションで、トレーを持って蓮司の横を通り、赤ワインを彼のスーツにこぼした。あの頃の私は、「家業が傾き、ホテルでアルバイトをしている若い女」という設定だった。


 見た目は悪くないが、仕事は少し不器用。誰かが手を差し伸べたくなる程度には困っている女を演じていた。


 蓮司の友人の一人は、私をかなり注意深く見ていた。


「気をつけろよ。出会い方が出来すぎてる」


 私が蓮司の袖を拭いている前で、平然とそう言った。


 蓮司はバーにもたれ、私の手元を見下ろした。


「目的があるほうが楽だろ。欲しいものがわかっていれば、終わらせる時も困らない」


 声を潜める様子さえなかった。


 その言葉を聞いた上で、彼がくれたものは全部受け取った。ジュエリーもバッグもカードも旅行も、あとから用意されたマンションも断らなかった。


 神谷家から結婚を急かされるようになった頃、蓮司から婚姻届を出さないかと持ちかけられた。


「家族に見せる妻が必要なんだ。金の使い方に口を出すつもりはない。ただ、この結婚に余計なものは期待しないでくれ」


 彼が買ってくれたドレスを試着しているところだった。


 鏡の前で振り返った。


「いいよ」


 それだけ答えると、蓮司は条件についてそれ以上確認しなかった。


 一年あまり前、水城玲奈が青凪市へ戻ってきた。学生時代から蓮司がずっと忘れられなかった女性で、彼の帰宅時間は少しずつ遅くなった。やがて、外にもう一つ家を用意していることも知った。


 玲奈と、あの子どもが住んでいた。


 知っていても、蓮司には一度も聞かなかった。



2



 最後の箱にテープを貼って立ち上がると、こめかみがずきりと痛んだ。


「昨日あまり寝てないから、昼はいらない」


 蓮司は私の顔をじっと見た。


「顔色が悪い。少しでも食べたほうがいい」


「寝れば治るよ」


 階段へ向かおうとすると、背後で衣擦れの音がした。振り返れば、蓮司はスーツの上着を脱ぎ、シャツの袖をまくっている。


「粥を作る。二十分くらいだから」


 手すりに手を置いたまま少し迷い、結局ダイニングへ戻った。


 関係の中で引くなら、引き方にも加減がいる。昼食を断った直後に、台所へ入った相手まで追いかけて止めれば、かえって不自然だ。それに、蓮司の粥は本当においしかった。


 教えたのは私だった。


 結婚したばかりの頃、蓮司は私が何を食べているのかほとんど気にしなかった。ある夜、帰宅した彼のシャツの襟に薄い口紅の跡がついていた。シャワーを浴びたあと、タオルで髪を拭きながら台所の入口にもたれた。


「胃が弱い人間って、朝は何を食べればいい?」


 米を洗う手を止めた。


「誰の話?」


 蓮司の視線が一瞬だけ外れた。


「友達」


 まだクリーニングにも出していないシャツの襟を見た。


「お粥かな」


 その日から一週間ほど、火加減や水分量、胃が弱っている時に入れないほうがいい食材まで教えた。何度か失敗した末、ある日ようやくまともな粥ができた。


 蓮司は自分で一口味見し、眉間の皺をほどいた。


「できた」


 そのまま私の腰に腕を回して持ち上げた。


「ちょっと、火がついてるから!」


 驚いて彼の肩につかまると、蓮司は笑いながら私を下ろした。


 数時間後、彼は保温ジャーを持って出かけた。


 窓から、車が住宅街を出ていくところまで見送った。そのあと寝室へ戻り、口紅のついていたシャツをハサミで切った。全部は捨てず、小さな一片だけランドリーバスケットの横へ落としておいた。


 夜、帰宅した蓮司は、その布を見つけて長いこと立っていた。


 翌日の午後、私の口座に二百万円が振り込まれた。


 彼はソファでメールを確認しながら、何でもないことのように言った。


「会社の飲み会で、酔った女性社員がぶつかっただけだ」


 台所で餃子の餡を刻んでいた。包丁がまな板に当たる音が、少し強くなった。


「説明しなくていいよ。十分もらってるから」


 鍋が小さく煮立つ音で、意識が今の食卓へ戻った。


 蓮司が粥を置き、向かいに座った。何度かこちらを見たものの、なかなか口を開かなかった。


 先にスプーンを取った。


「あの子、まだ小さいんでしょう。これからは、ちゃんと二人のそばにいてあげて」


 蓮司の手が止まり、眉間に皺が寄った。


 私は一口分をすくい、息を吹きかけた。


「水城さんのところへ押しかけたり、会社で騒いだりもしない。離婚手続きが終われば、それでおしまい」


 箸がテーブルに置かれ、少し強い音がした。


「真帆、お前はそんなに平気なのか?」


 彼の肩には力が入っていた。


 目を上げた。


「どうしてほしいの?」


 蓮司はすぐには答えず、唇を結んだ。


「玲奈さんの家へ行って泣けばいい? お義父さんに訴える? それとも、神谷蓮司には外に別の家庭がありますって、会社中に知らせる?」


 彼の喉が動いた。


 粥を一口食べた。


「家も、現金も、店舗もくれた。こんなに払うのは、きれいに終わらせたいからでしょう?」


 蓮司は手をゆっくり握り込んだ。


「何でも俺に合わせなくていい。つらいなら、つらいって言えばいいし、腹が立つなら怒ればいい」


 少し身を乗り出した。


「目の前で『二人のそばにいてあげて』なんて言われて、俺は――」


 スマートフォンが鳴った。


 言葉が途中で切れた。


 蓮司は画面を見て電話に出た。微かに子どもの泣き声が聞こえる。


「どうした?」


 数秒話を聞いたところで、彼はもう立ち上がっていた。椅子の背から上着を取り、車の鍵を探す。


「今から行く」


 通話を切ると、玄関へ向かう途中で一度だけ振り返った。


「粥、冷める前に食べろよ」


 私はうなずいた。


 ドアが閉まると、テーブルの向こうには、ほとんど手のついていない彼の食事だけが残った。少し前まで私を見ながら話していた人が、電話越しに子どもが泣いた途端、迷わず立ち上がった。


 空いた椅子をしばらく眺め、スマートフォンを手に取った。


 長いあいだ保存していた番号を呼び出した。



3



「真紀先生」


 電話の向こうが二秒ほど静かになった。


「別れた?」


 鼻の奥が少し痛んだ。


「うん」


 真紀先生はそれ以上電話では聞かなかった。


「いつもの店。来なさい」


 青凪市の西側に、小さな静かなカフェがある。真紀先生が個室へ入ってきた時、私はすでに十分ほど待っていた。彼女はコートを脱ぎ、私の目元を見てからテーブルの書類へ視線を落とした。


「見せて」


 離婚条件の合意書を差し出した。


 真紀先生は腰を下ろし、ページをめくっていった。


「汐見台の家、朝凪町の店舗物件、現金五千万円。かなり取れたね」


 私はカップを両手で包んだ。


「最初は小さなマンションと二千万だけだった」


 真紀先生の手が止まった。


「追加したのは蓮司?」


「うん。私は何も言ってない」


 彼女は目を細めた。


「そこまでの流れ、話して」


 車で音声を聞いたところから、弁護士が来るまでの流れを説明した。蓮司が台所で粥を作った話になると、喉が少し詰まった。


 真紀先生は途中で口を挟まず、最後まで聞いてから水を一口飲んだ。


「書類に問題がないなら、まず全部きちんと真帆のものにして。登記、店舗の権利、現金の支払い経路、税金も含めて、弁護士に確認させること」


「もう始めてもらってる」


 彼女は書類を私の前へ戻した。


「カナリア塾に来た頃の真帆は、もう少し頭が冷えてたけどね」


 少し笑った。


「それ、叱ってる?」


「いつ認めるのかなと思ってるだけ」


 真紀先生は椅子の背に寄りかかった。


「蓮司のこと、好きになった?」


 親指でカップの縁をなぞった。


 三年前に始めた時、本当に欲しかったのはお金だけだった。蓮司もそれを知っていた。彼が出し、私は受け取る。それでよかった。


 玲奈が戻ってきてから、少しずつ崩れた。帰宅時間を気にし、会議の予定を覚え、彼の好きな料理を作った。外に別の家があると知っていても、戻ってくるかもしれない夜は玄関の灯りをつけたままにした。


 毎月振り込まれる金額は、百万円から二百万円、やがて三百万円へ増えていった。


 入ってくるお金は増えた。


 私が待つものは、通帳には記載されなかった。


 真紀先生はしばらく黙って私を見ていた。


 カップを置いた。


「先生、もう一つある」


「なに?」


 手を下腹部へ置いた。


「妊娠してる」


 真紀先生の表情から笑みが消えた。


「何週?」


「八週くらい。病院には行った」


 彼女は身体を起こした。


「どうするつもり?」


 すぐには答えられなかった。


 真紀先生は声を落とした。


「産まないと決めているなら、早めに産婦人科で相談して。時間が経つほど身体の負担も大きくなる」


 私は彼女を見た。


「子どもを使って、蓮司ともう一度条件を話せって言われると思ってた」


 真紀先生の眉が寄った。


「何を増やすの? 養育費? もう一軒?」


 黙っていると、彼女はテーブルの書類を指先で叩いた。


「ここまであれば、生活は組み直せる。子どもを産むかどうかは、真帆の身体の話でしょう。次の交渉材料にしないで」


 少し声が柔らかくなった。


「財産は全部、個人名義になるよう弁護士に確認して。離婚届を出す日も、記録を残してもらいなさい」


「わかった」


 店を出ると、外の風は冷たかった。歩道の脇に立ち、スマートフォンで産婦人科の予約ページを開いた。人工妊娠中絶の相談項目に指が止まった。


 近くを、小さな女の子を連れた母親が通った。女の子は買ったばかりのパンを、歩きながら何度もかじっている。


 しばらく画面を見つめた。


 迎えの車が来たので、画面を消して乗り込んだ。



4



 その後の数日は、資産関係の手続きに追われた。弁護士とは不動産関係の書類を確認し、不動産会社とは売却に向けた打ち合わせを進めた。朝凪町の店舗物件には既存の賃貸契約もあり、確認することは多かった。


 産婦人科の予約画面は何度も開いたが、時間を選ぼうとすると別の電話が入った。


 蓮司の私物はすべて箱に入れ、取りに来いとは連絡せず、そのまま収納部屋へ移しておいた。


 書斎の一番下の引き出しを整理している時、封のされた茶色い書類袋を見つけた。神谷ホールディングスのロゴが印刷され、封印もそのまま残っている。引っ越し業者に渡すわけにもいかず、売却予定の家へ置きっぱなしにもできなかった。


 蓮司へ電話をかけた。


 二回鳴って、相手が出た。


「もしもし?」


 女の声だった。


 書類袋に置いていた手が止まった。


「蓮司は?」


「シャワー中」


 少し間が空いた。


「高瀬真帆さんよね?」


 机にもたれた。


「水城さん?」


 小さく笑う声がした。


「そう。用事なら私が聞く」


 書類袋を見た。


「神谷ホールディングスの社内資料が家に残ってたの。封は開けてないから、時間がある時に取りに来るよう伝えて」


 電話の向こうが一瞬静かになった。


「そういう口実、もうやめたら?」


 玲奈の声が冷えていく。


「離婚の話まで終わってるのに、まだ理由を作って蓮司に連絡するの?」


 袋の角をつまんだ。


「会社の書類だよ。本人に渡せば、それで終わるから」


「置いておけばいいでしょう。蓮司は、その程度のことでわざわざそっちへ戻らないから」


 口を開く前に、電話が切れた。


 何度か電子音が続いた。


 画面を閉じ、今度は蓮司の運転手へかけた。私の声を聞いた途端、相手は言葉を選ぶように間を置いた。


「高瀬さん」


「会社の書類が残ってるの。蓮司に伝えてもらえる?」


 運転手はすぐに返事をしなかった。


「それが……水城さんから、高瀬さんのお電話は取り次がないようにと言われていて」


 机の端に手を置いた。


「それ、いつ頃?」


「数日前です」


 電話の向こうで、相手が小さく息を吸った。


 少し声を落とした。


「蓮司も知ってる?」


 返事はなかった。


「わかった。ありがとう」


 それ以上は聞かなかった。


 午後、書類袋を持って神谷ホールディングスへ向かった。私と蓮司の結婚は会社では公表していなかったため、社長が既婚だと知っている社員はいても、妻の顔まで知っている人はほとんどいなかった。


 本来なら受付へ預けて帰るつもりだった。


 名前を確認した受付担当が内線をかけ、電話を切ると席を立った。


「高瀬さん、社長室へ上がってくださいとのことです」


 時計を見た。


「蓮司、いるの?」


「会議が終わったところなので、まもなく戻ると思います」


 うなずき、エレベーターへ乗った。


 最上階の社長室。


 ドアを開けた瞬間、茶色い液体が目の前へ飛んできた。


 身体を反射的にひねった。


 ほとんどはドア枠とカーペットへ散ったが、左の前腕にはまともにかかった。皮膚を焼くような熱が走り、息をのみながら書類袋を抱え直した。


 玲奈がデスクの前に立っていた。


 手には空になったカップがある。


「本当に会社まで追いかけてきたの?」


 赤くなった腕を見た。


「書類を届けに来ただけ」


 玲奈はカップを強く机へ置き、こちらへ歩いてきた。


「電話で言ったでしょう? 蓮司とは離婚するのに、どうしてまだ会う理由を作るの?」


「封を見ればわかるよ。本人に渡したら帰る」


 書類袋を持ち上げた。


 玲奈は目の前まで来た。


「私にわからないと思ってるの?」


 平手が飛んできた。


 腕は上げなかった。


 乾いた音がして顔が横を向き、口の中に血の味が広がった。玲奈は荒い息を吐きながら、さらに肩を押してきた。


「そんな顔して、誰に見せるつもり?」


 一歩下がった。


 玲奈が脚を上げたのが見えた瞬間、手が腹部へ動いた。考えるより先に身体が横へ逃げ、蹴りは空を切った。


 私は背を向け、社長室から出た。


 最上階のオープンオフィスには、まだ多くの社員が残っていた。髪は乱れ、左腕は焼けるように痛み、口元には血がついていた。


 玲奈も入口まで追ってくる。


 腹部をかばいながら声を張った。


「水城さん、書類を渡したら帰ります。ここへ来ることも、もうありません」


 フロアが不自然なほど静かだった。


 近くの社員たちの視線は、私ではなく肩越しへ向いていた。


 そちらを見る。


 廊下の先に蓮司が立っていた。


 横には、会議を終えたばかりらしい数人の取引先役員。


 蓮司の視線が私の顔に止まり、ゆっくり左腕へ落ちた。



5



 玲奈も足を止め、半歩だけ後ろへ下がった。


 書類袋を胸元へ抱え、ふらつかないよう足に力を入れた。左腕はまだじりじりと痛み、呼吸も少し浅かった。


「水城さん、私は神谷ホールディングスの書類を届けに来ただけ。これを渡したら帰ります」


 玲奈の顔を見たまま続けた。


「この子のことは私が自分で決める。あなたたちに何か求めるつもりもないから、ここを蹴るのはやめて」


 周囲の空気が止まったように感じた。


 玲奈が私の腹部を見る。


 蓮司も数秒動かなかった。


 やがて、足早にこちらへ向かってきた。


 私の前まで来る途中で、彼の目が口元へ落ち、次にコーヒーで濡れた袖へ移った。


「真帆」


 返事はしなかった。


 蓮司が目の前で止まり、腹部をかばっている手へ視線を落とした。


「今、子どもって言ったか?」


 血の味が残る唇を舐めた。


「八週くらい」


 蓮司の呼吸が一瞬途切れた。手が上がったものの、触れる前で止まった。


「……いつわかった?」


「少し前」


 彼の指先はまだ宙に浮いていた。眉間の皺が深くなり、何かを言いかけて口を閉じた。


「どうして言わなかった?」


 その顔を見た。


「離婚条件はもう決まってたから。自分で決めるつもりだったし、子どもを理由に条件を増やす気もない」


 言葉を切り、玲奈へ一度視線を向けた。


「水城さんとの生活にも口を出さないよ」


 玲奈が早足で近づいてきた。


「蓮司、そんな言い方を信じないで」


 彼の袖をつかんだ。


「もっと早く来られたのに、わざわざ今日、取引先がいる時間に会社へ来て妊娠の話まで出したのよ。狙ってるに決まってる」


 手にしていた書類袋を持ち上げた。


「封は開いてない。先に電話もしたよ」


 蓮司の目が袋へ落ちた。


「水城さんが出て切った。そのあと運転手にも電話したら、高瀬からの電話は取り次がないよう言われてるって」


 蓮司の顔がゆっくり玲奈へ向いた。


 玲奈は袖から手を離した。


「私は……真帆さんに、これ以上私たちの生活へ入ってほしくなかっただけ」


 蓮司は返事をせず、私の左腕を見た。


 濡れた袖から見える皮膚は、広い範囲が赤くなっていた。


 数秒見つめたあと、玲奈へ顔を向けた。


「コーヒーをかけたのか?」


 玲奈が半歩下がった。


「来たのを見たら頭にきて……。電話ではっきり言ったのに、それでも来るから」


 蓮司の目が細くなった。


「熱いコーヒーを?」


 玲奈は唇を噛んだ。


「だって、もう離婚するのに会社まで来て、何をしたいのかわからないでしょう」


 蓮司の視線が私の腕から、切れた口元へ移った。


「顔も玲奈が?」


 玲奈の目に涙がにじんだ。


「蓮司、ちゃんと聞いて。私も頭に血が上がってたの。こんなことになるつもりじゃなかった」


 彼は返事をせず、私が腹部をかばっている手を見た。


 少し間を置いてから、声を落とした。


「さっき、真帆を蹴ろうとしたよな」


 玲奈の顔色が変わった。


「妊娠してるなんて知らなかった!」


 蓮司は彼女の目を見たままだった。


「妊娠してなかったら蹴っていいのか?」


 玲奈の口が開いたまま止まった。


 彼女は蓮司の腕へ手を伸ばす。


「私は……真帆さんにもう関わってほしくなかっただけなの」


 蓮司が身体を少し横へずらした。


 玲奈の指は何にも触れなかった。


 彼は短く息を吐いた。


「真帆は書類を届けに来ただけだろ」


 玲奈から目をそらさない。


「電話を切ったのも、運転手に取り次ぐなと言ったのも玲奈だ。それで本人が来たら、コーヒーをかけて殴ったのか?」


 玲奈の頬を涙が伝った。


「失うのが怖かったの」


 蓮司は数秒黙った。


「真帆に謝って」


 玲奈の表情が固まった。


「私が、この人に?」


 蓮司の目が細くなった。


「玲奈」


 その呼び方だけで、彼女の口が閉じた。


 周囲は静かなままだった。


 玲奈は長いこと動かなかったが、やがて私を見た。


「……ごめんなさい」


 書類袋を近くの棚へ置いた。


「もういいです」


 顔にかかった髪を耳へかけた。


「書類は届けたから、帰るね」


 一歩踏み出したところで、視界が急に暗くなった。


 身体が傾き、蓮司の腕がすぐに伸びてきた。


「真帆!」


 手のひらがちょうど火傷した場所へ触れた。


 強い痛みが走り、息をのみながら腕を引いた。蓮司もすぐ力を緩め、赤く腫れた皮膚を見下ろした。


「悪い。火傷したところだったな」


「大丈夫。少し眩暈がしただけ」


 半歩下がったが、まだ視界が少し揺れていた。


 蓮司は反対側の肩へ手を添え、口元と濡れた袖を交互に見た。


「口も切れてるし、腕もこんな状態だ。それに妊娠してる」


 言葉の途中で一度息を整えた。


「せめて病院で診てもらってくれ」


 彼を見る。


 眉間の皺は消えていなかった。


 少し離れたところでは玲奈が泣き、取引先の人たちもまだ残っている。


「蓮司」


 彼がこちらを見る。


「私は本当に、書類を届けに来ただけ」


 肩に添えられた手へ視線を落とした。


「渡すものは渡した。後のことは、自分でやる」


 ゆっくり身体を引くと、蓮司の指が宙に残った。


 エレベーターへ向かった。


 ヒールの音が床に規則正しく響く。


 後ろから名前を呼ばれたが、振り向かずにボタンを押した。



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