車のスピーカーで夫の「もう一つの家庭」がバレた。騒がなかった私を見て、夫のほうが慌て始めた
神谷蓮司と結婚して三年目。車のスピーカーから、知らない女の声が流れた。今夜は何時に来るのかと蓮司に尋ねる甘い声の向こうで、小さな子どもが泣いていた。
蓮司はすぐにBluetoothの接続を切った。
私は前を向いたまま、一つだけ聞いた。
「私は今夜出ていけばいい? それとも明日の朝?」
ハンドルを握っていた蓮司の手が数秒止まった。
「出ていかなくていい。汐見台の家は真帆に渡す。ほかの条件は弁護士に任せる」
「わかった」
カナリア塾の最初の授業で、真紀先生から教わったことがある。関係を始める時は、自分が何を欲しがっているのか相手にわからせておけばいい。そのほうが、相手は安心する。
そして去る時には、欲しかったものへ慌てて手を伸ばさない。
蓮司の前では、私は「お金さえあれば満足する女」で通してきた。
あの年の修了試験では、一位だった。
1
帰宅するまで、車内ではほとんど会話がなかった。音声はとっくに止まっているのに、女の柔らかな声と、途切れ途切れに聞こえた子どもの泣き声が耳に残っていた。地下駐車場に入ると、蓮司はエンジンを切ったまま、しばらくシートベルトにも触れなかった。
夜になってから、彼はリビングの窓際に立ち、長いあいだこちらを見ていた。
「真帆、どうして何も聞かないんだ?」
ピアスを外し、ジュエリーボックスにしまった。
「何を?」
蓮司は一度窓の外へ目を向けた。
「玲奈のこと。子どものこと。それから……今日のこと」
顔を上げた。
「聞いたら、もう向こうへ行かない?」
彼の唇がわずかに動いた。数秒待っても答えは出てこなかった。
「なら、聞かなくていい」
蓮司は視線をそらし、ネクタイを少し緩めた。
「俺が悪い。財産のことは、きちんとする」
「うん」
その夜、リビングのフロアライトは遅くまでついていた。客室で眠り、夜中に一度目を覚ますと、廊下の向こうから足音が聞こえた。書斎のドアが開いて閉じ、そのあと階下からグラスをテーブルに置く小さな音がした。
寝返りを打ち、布団を肩まで引き上げた。
翌朝、神谷家が長年依頼している弁護士がやって来た。最初に出された条件は、小さな投資用マンション一室と二千万円だった。私は一ページ目から最後まで目を通した。
弁護士が顔を上げた。
「高瀬さん側から、追加したい条件はありますか」
「ありません」
仕事では結婚後も旧姓の高瀬を使っていた。戸籍上の名前だけは神谷真帆だった。
隣に座っていた蓮司がこちらを見たが、その視線には触れず、確認欄に署名した。
弁護士が書類を引こうとしたところで、蓮司が紙を押さえた。
「待ってください」
弁護士の手が止まった。
蓮司はソファに背を預け、書類をもう一度見下ろした。
「今住んでいる汐見台の家を真帆に」
弁護士は少し驚いたように資料を見直した。
「神谷さん、こちらの物件は現在の評価額がかなり――」
「わかっています。現金は五千万円に変更してください。それから、朝凪町にある店舗物件も真帆名義に」
弁護士が私を見る。
「その内容でお願いします」
修正された書類が改めて用意された。不動産の名義変更、現金の支払い、店舗物件の権利、税務上の扱いまで一つずつ確認され、必要な箇所だけ署名した。
最後に、弁護士が離婚後の氏について確認した。
「離婚後は高瀬姓に戻すことでよろしいですね」
「はい」
書類を閉じたあとも、蓮司は私の顔を見ていた。
「本当に、それ以上はいらないのか?」
「十分もらったから」
しばらく目が合った。
「真帆……いや、いい」
蓮司は先に視線を落とした。
弁護士が帰ると、蓮司の荷物をまとめ始めた。服は服、仕事関係の書類は書類、腕時計やカフリンクスは別の箱へ分けた。離婚届もすでに用意され、弁護士と相談した日程で提出することになっていた。
シャツを抱えてクローゼットから出ると、階段のそばに蓮司が立っていた。
「昼、一緒に食べないか」
足が少しだけ止まった。以前なら、彼から食事に誘われただけで、何を食べたいのか聞いていた。
シャツを段ボール箱へ入れた。
「一人で食べて」
蓮司の眉が寄った。
「食事も駄目なのか?」
「こういうことを少しずつ減らしたほうが、お互い楽でしょう」
彼は一歩近づいた。
「三年一緒に暮らしたんだぞ。離婚するからって、急に他人みたいになる必要はないだろ」
顔を上げた。
「神谷さん。友達は同じベッドで寝ないし、家族から結婚を急かされたからって婚姻届も出さないよ」
蓮司の顎が固くなった。
「もう名前でも呼ばないのか?」
返事はせず、しゃがみ込んで箱の整理を続けた。
三年前、私はわざと彼の前に現れた。神谷ホールディングスが開いたレセプションで、トレーを持って蓮司の横を通り、赤ワインを彼のスーツにこぼした。あの頃の私は、「家業が傾き、ホテルでアルバイトをしている若い女」という設定だった。
見た目は悪くないが、仕事は少し不器用。誰かが手を差し伸べたくなる程度には困っている女を演じていた。
蓮司の友人の一人は、私をかなり注意深く見ていた。
「気をつけろよ。出会い方が出来すぎてる」
私が蓮司の袖を拭いている前で、平然とそう言った。
蓮司はバーにもたれ、私の手元を見下ろした。
「目的があるほうが楽だろ。欲しいものがわかっていれば、終わらせる時も困らない」
声を潜める様子さえなかった。
その言葉を聞いた上で、彼がくれたものは全部受け取った。ジュエリーもバッグもカードも旅行も、あとから用意されたマンションも断らなかった。
神谷家から結婚を急かされるようになった頃、蓮司から婚姻届を出さないかと持ちかけられた。
「家族に見せる妻が必要なんだ。金の使い方に口を出すつもりはない。ただ、この結婚に余計なものは期待しないでくれ」
彼が買ってくれたドレスを試着しているところだった。
鏡の前で振り返った。
「いいよ」
それだけ答えると、蓮司は条件についてそれ以上確認しなかった。
一年あまり前、水城玲奈が青凪市へ戻ってきた。学生時代から蓮司がずっと忘れられなかった女性で、彼の帰宅時間は少しずつ遅くなった。やがて、外にもう一つ家を用意していることも知った。
玲奈と、あの子どもが住んでいた。
知っていても、蓮司には一度も聞かなかった。
2
最後の箱にテープを貼って立ち上がると、こめかみがずきりと痛んだ。
「昨日あまり寝てないから、昼はいらない」
蓮司は私の顔をじっと見た。
「顔色が悪い。少しでも食べたほうがいい」
「寝れば治るよ」
階段へ向かおうとすると、背後で衣擦れの音がした。振り返れば、蓮司はスーツの上着を脱ぎ、シャツの袖をまくっている。
「粥を作る。二十分くらいだから」
手すりに手を置いたまま少し迷い、結局ダイニングへ戻った。
関係の中で引くなら、引き方にも加減がいる。昼食を断った直後に、台所へ入った相手まで追いかけて止めれば、かえって不自然だ。それに、蓮司の粥は本当においしかった。
教えたのは私だった。
結婚したばかりの頃、蓮司は私が何を食べているのかほとんど気にしなかった。ある夜、帰宅した彼のシャツの襟に薄い口紅の跡がついていた。シャワーを浴びたあと、タオルで髪を拭きながら台所の入口にもたれた。
「胃が弱い人間って、朝は何を食べればいい?」
米を洗う手を止めた。
「誰の話?」
蓮司の視線が一瞬だけ外れた。
「友達」
まだクリーニングにも出していないシャツの襟を見た。
「お粥かな」
その日から一週間ほど、火加減や水分量、胃が弱っている時に入れないほうがいい食材まで教えた。何度か失敗した末、ある日ようやくまともな粥ができた。
蓮司は自分で一口味見し、眉間の皺をほどいた。
「できた」
そのまま私の腰に腕を回して持ち上げた。
「ちょっと、火がついてるから!」
驚いて彼の肩につかまると、蓮司は笑いながら私を下ろした。
数時間後、彼は保温ジャーを持って出かけた。
窓から、車が住宅街を出ていくところまで見送った。そのあと寝室へ戻り、口紅のついていたシャツをハサミで切った。全部は捨てず、小さな一片だけランドリーバスケットの横へ落としておいた。
夜、帰宅した蓮司は、その布を見つけて長いこと立っていた。
翌日の午後、私の口座に二百万円が振り込まれた。
彼はソファでメールを確認しながら、何でもないことのように言った。
「会社の飲み会で、酔った女性社員がぶつかっただけだ」
台所で餃子の餡を刻んでいた。包丁がまな板に当たる音が、少し強くなった。
「説明しなくていいよ。十分もらってるから」
鍋が小さく煮立つ音で、意識が今の食卓へ戻った。
蓮司が粥を置き、向かいに座った。何度かこちらを見たものの、なかなか口を開かなかった。
先にスプーンを取った。
「あの子、まだ小さいんでしょう。これからは、ちゃんと二人のそばにいてあげて」
蓮司の手が止まり、眉間に皺が寄った。
私は一口分をすくい、息を吹きかけた。
「水城さんのところへ押しかけたり、会社で騒いだりもしない。離婚手続きが終われば、それでおしまい」
箸がテーブルに置かれ、少し強い音がした。
「真帆、お前はそんなに平気なのか?」
彼の肩には力が入っていた。
目を上げた。
「どうしてほしいの?」
蓮司はすぐには答えず、唇を結んだ。
「玲奈さんの家へ行って泣けばいい? お義父さんに訴える? それとも、神谷蓮司には外に別の家庭がありますって、会社中に知らせる?」
彼の喉が動いた。
粥を一口食べた。
「家も、現金も、店舗もくれた。こんなに払うのは、きれいに終わらせたいからでしょう?」
蓮司は手をゆっくり握り込んだ。
「何でも俺に合わせなくていい。つらいなら、つらいって言えばいいし、腹が立つなら怒ればいい」
少し身を乗り出した。
「目の前で『二人のそばにいてあげて』なんて言われて、俺は――」
スマートフォンが鳴った。
言葉が途中で切れた。
蓮司は画面を見て電話に出た。微かに子どもの泣き声が聞こえる。
「どうした?」
数秒話を聞いたところで、彼はもう立ち上がっていた。椅子の背から上着を取り、車の鍵を探す。
「今から行く」
通話を切ると、玄関へ向かう途中で一度だけ振り返った。
「粥、冷める前に食べろよ」
私はうなずいた。
ドアが閉まると、テーブルの向こうには、ほとんど手のついていない彼の食事だけが残った。少し前まで私を見ながら話していた人が、電話越しに子どもが泣いた途端、迷わず立ち上がった。
空いた椅子をしばらく眺め、スマートフォンを手に取った。
長いあいだ保存していた番号を呼び出した。
3
「真紀先生」
電話の向こうが二秒ほど静かになった。
「別れた?」
鼻の奥が少し痛んだ。
「うん」
真紀先生はそれ以上電話では聞かなかった。
「いつもの店。来なさい」
青凪市の西側に、小さな静かなカフェがある。真紀先生が個室へ入ってきた時、私はすでに十分ほど待っていた。彼女はコートを脱ぎ、私の目元を見てからテーブルの書類へ視線を落とした。
「見せて」
離婚条件の合意書を差し出した。
真紀先生は腰を下ろし、ページをめくっていった。
「汐見台の家、朝凪町の店舗物件、現金五千万円。かなり取れたね」
私はカップを両手で包んだ。
「最初は小さなマンションと二千万だけだった」
真紀先生の手が止まった。
「追加したのは蓮司?」
「うん。私は何も言ってない」
彼女は目を細めた。
「そこまでの流れ、話して」
車で音声を聞いたところから、弁護士が来るまでの流れを説明した。蓮司が台所で粥を作った話になると、喉が少し詰まった。
真紀先生は途中で口を挟まず、最後まで聞いてから水を一口飲んだ。
「書類に問題がないなら、まず全部きちんと真帆のものにして。登記、店舗の権利、現金の支払い経路、税金も含めて、弁護士に確認させること」
「もう始めてもらってる」
彼女は書類を私の前へ戻した。
「カナリア塾に来た頃の真帆は、もう少し頭が冷えてたけどね」
少し笑った。
「それ、叱ってる?」
「いつ認めるのかなと思ってるだけ」
真紀先生は椅子の背に寄りかかった。
「蓮司のこと、好きになった?」
親指でカップの縁をなぞった。
三年前に始めた時、本当に欲しかったのはお金だけだった。蓮司もそれを知っていた。彼が出し、私は受け取る。それでよかった。
玲奈が戻ってきてから、少しずつ崩れた。帰宅時間を気にし、会議の予定を覚え、彼の好きな料理を作った。外に別の家があると知っていても、戻ってくるかもしれない夜は玄関の灯りをつけたままにした。
毎月振り込まれる金額は、百万円から二百万円、やがて三百万円へ増えていった。
入ってくるお金は増えた。
私が待つものは、通帳には記載されなかった。
真紀先生はしばらく黙って私を見ていた。
カップを置いた。
「先生、もう一つある」
「なに?」
手を下腹部へ置いた。
「妊娠してる」
真紀先生の表情から笑みが消えた。
「何週?」
「八週くらい。病院には行った」
彼女は身体を起こした。
「どうするつもり?」
すぐには答えられなかった。
真紀先生は声を落とした。
「産まないと決めているなら、早めに産婦人科で相談して。時間が経つほど身体の負担も大きくなる」
私は彼女を見た。
「子どもを使って、蓮司ともう一度条件を話せって言われると思ってた」
真紀先生の眉が寄った。
「何を増やすの? 養育費? もう一軒?」
黙っていると、彼女はテーブルの書類を指先で叩いた。
「ここまであれば、生活は組み直せる。子どもを産むかどうかは、真帆の身体の話でしょう。次の交渉材料にしないで」
少し声が柔らかくなった。
「財産は全部、個人名義になるよう弁護士に確認して。離婚届を出す日も、記録を残してもらいなさい」
「わかった」
店を出ると、外の風は冷たかった。歩道の脇に立ち、スマートフォンで産婦人科の予約ページを開いた。人工妊娠中絶の相談項目に指が止まった。
近くを、小さな女の子を連れた母親が通った。女の子は買ったばかりのパンを、歩きながら何度もかじっている。
しばらく画面を見つめた。
迎えの車が来たので、画面を消して乗り込んだ。
4
その後の数日は、資産関係の手続きに追われた。弁護士とは不動産関係の書類を確認し、不動産会社とは売却に向けた打ち合わせを進めた。朝凪町の店舗物件には既存の賃貸契約もあり、確認することは多かった。
産婦人科の予約画面は何度も開いたが、時間を選ぼうとすると別の電話が入った。
蓮司の私物はすべて箱に入れ、取りに来いとは連絡せず、そのまま収納部屋へ移しておいた。
書斎の一番下の引き出しを整理している時、封のされた茶色い書類袋を見つけた。神谷ホールディングスのロゴが印刷され、封印もそのまま残っている。引っ越し業者に渡すわけにもいかず、売却予定の家へ置きっぱなしにもできなかった。
蓮司へ電話をかけた。
二回鳴って、相手が出た。
「もしもし?」
女の声だった。
書類袋に置いていた手が止まった。
「蓮司は?」
「シャワー中」
少し間が空いた。
「高瀬真帆さんよね?」
机にもたれた。
「水城さん?」
小さく笑う声がした。
「そう。用事なら私が聞く」
書類袋を見た。
「神谷ホールディングスの社内資料が家に残ってたの。封は開けてないから、時間がある時に取りに来るよう伝えて」
電話の向こうが一瞬静かになった。
「そういう口実、もうやめたら?」
玲奈の声が冷えていく。
「離婚の話まで終わってるのに、まだ理由を作って蓮司に連絡するの?」
袋の角をつまんだ。
「会社の書類だよ。本人に渡せば、それで終わるから」
「置いておけばいいでしょう。蓮司は、その程度のことでわざわざそっちへ戻らないから」
口を開く前に、電話が切れた。
何度か電子音が続いた。
画面を閉じ、今度は蓮司の運転手へかけた。私の声を聞いた途端、相手は言葉を選ぶように間を置いた。
「高瀬さん」
「会社の書類が残ってるの。蓮司に伝えてもらえる?」
運転手はすぐに返事をしなかった。
「それが……水城さんから、高瀬さんのお電話は取り次がないようにと言われていて」
机の端に手を置いた。
「それ、いつ頃?」
「数日前です」
電話の向こうで、相手が小さく息を吸った。
少し声を落とした。
「蓮司も知ってる?」
返事はなかった。
「わかった。ありがとう」
それ以上は聞かなかった。
午後、書類袋を持って神谷ホールディングスへ向かった。私と蓮司の結婚は会社では公表していなかったため、社長が既婚だと知っている社員はいても、妻の顔まで知っている人はほとんどいなかった。
本来なら受付へ預けて帰るつもりだった。
名前を確認した受付担当が内線をかけ、電話を切ると席を立った。
「高瀬さん、社長室へ上がってくださいとのことです」
時計を見た。
「蓮司、いるの?」
「会議が終わったところなので、まもなく戻ると思います」
うなずき、エレベーターへ乗った。
最上階の社長室。
ドアを開けた瞬間、茶色い液体が目の前へ飛んできた。
身体を反射的にひねった。
ほとんどはドア枠とカーペットへ散ったが、左の前腕にはまともにかかった。皮膚を焼くような熱が走り、息をのみながら書類袋を抱え直した。
玲奈がデスクの前に立っていた。
手には空になったカップがある。
「本当に会社まで追いかけてきたの?」
赤くなった腕を見た。
「書類を届けに来ただけ」
玲奈はカップを強く机へ置き、こちらへ歩いてきた。
「電話で言ったでしょう? 蓮司とは離婚するのに、どうしてまだ会う理由を作るの?」
「封を見ればわかるよ。本人に渡したら帰る」
書類袋を持ち上げた。
玲奈は目の前まで来た。
「私にわからないと思ってるの?」
平手が飛んできた。
腕は上げなかった。
乾いた音がして顔が横を向き、口の中に血の味が広がった。玲奈は荒い息を吐きながら、さらに肩を押してきた。
「そんな顔して、誰に見せるつもり?」
一歩下がった。
玲奈が脚を上げたのが見えた瞬間、手が腹部へ動いた。考えるより先に身体が横へ逃げ、蹴りは空を切った。
私は背を向け、社長室から出た。
最上階のオープンオフィスには、まだ多くの社員が残っていた。髪は乱れ、左腕は焼けるように痛み、口元には血がついていた。
玲奈も入口まで追ってくる。
腹部をかばいながら声を張った。
「水城さん、書類を渡したら帰ります。ここへ来ることも、もうありません」
フロアが不自然なほど静かだった。
近くの社員たちの視線は、私ではなく肩越しへ向いていた。
そちらを見る。
廊下の先に蓮司が立っていた。
横には、会議を終えたばかりらしい数人の取引先役員。
蓮司の視線が私の顔に止まり、ゆっくり左腕へ落ちた。
5
玲奈も足を止め、半歩だけ後ろへ下がった。
書類袋を胸元へ抱え、ふらつかないよう足に力を入れた。左腕はまだじりじりと痛み、呼吸も少し浅かった。
「水城さん、私は神谷ホールディングスの書類を届けに来ただけ。これを渡したら帰ります」
玲奈の顔を見たまま続けた。
「この子のことは私が自分で決める。あなたたちに何か求めるつもりもないから、ここを蹴るのはやめて」
周囲の空気が止まったように感じた。
玲奈が私の腹部を見る。
蓮司も数秒動かなかった。
やがて、足早にこちらへ向かってきた。
私の前まで来る途中で、彼の目が口元へ落ち、次にコーヒーで濡れた袖へ移った。
「真帆」
返事はしなかった。
蓮司が目の前で止まり、腹部をかばっている手へ視線を落とした。
「今、子どもって言ったか?」
血の味が残る唇を舐めた。
「八週くらい」
蓮司の呼吸が一瞬途切れた。手が上がったものの、触れる前で止まった。
「……いつわかった?」
「少し前」
彼の指先はまだ宙に浮いていた。眉間の皺が深くなり、何かを言いかけて口を閉じた。
「どうして言わなかった?」
その顔を見た。
「離婚条件はもう決まってたから。自分で決めるつもりだったし、子どもを理由に条件を増やす気もない」
言葉を切り、玲奈へ一度視線を向けた。
「水城さんとの生活にも口を出さないよ」
玲奈が早足で近づいてきた。
「蓮司、そんな言い方を信じないで」
彼の袖をつかんだ。
「もっと早く来られたのに、わざわざ今日、取引先がいる時間に会社へ来て妊娠の話まで出したのよ。狙ってるに決まってる」
手にしていた書類袋を持ち上げた。
「封は開いてない。先に電話もしたよ」
蓮司の目が袋へ落ちた。
「水城さんが出て切った。そのあと運転手にも電話したら、高瀬からの電話は取り次がないよう言われてるって」
蓮司の顔がゆっくり玲奈へ向いた。
玲奈は袖から手を離した。
「私は……真帆さんに、これ以上私たちの生活へ入ってほしくなかっただけ」
蓮司は返事をせず、私の左腕を見た。
濡れた袖から見える皮膚は、広い範囲が赤くなっていた。
数秒見つめたあと、玲奈へ顔を向けた。
「コーヒーをかけたのか?」
玲奈が半歩下がった。
「来たのを見たら頭にきて……。電話ではっきり言ったのに、それでも来るから」
蓮司の目が細くなった。
「熱いコーヒーを?」
玲奈は唇を噛んだ。
「だって、もう離婚するのに会社まで来て、何をしたいのかわからないでしょう」
蓮司の視線が私の腕から、切れた口元へ移った。
「顔も玲奈が?」
玲奈の目に涙がにじんだ。
「蓮司、ちゃんと聞いて。私も頭に血が上がってたの。こんなことになるつもりじゃなかった」
彼は返事をせず、私が腹部をかばっている手を見た。
少し間を置いてから、声を落とした。
「さっき、真帆を蹴ろうとしたよな」
玲奈の顔色が変わった。
「妊娠してるなんて知らなかった!」
蓮司は彼女の目を見たままだった。
「妊娠してなかったら蹴っていいのか?」
玲奈の口が開いたまま止まった。
彼女は蓮司の腕へ手を伸ばす。
「私は……真帆さんにもう関わってほしくなかっただけなの」
蓮司が身体を少し横へずらした。
玲奈の指は何にも触れなかった。
彼は短く息を吐いた。
「真帆は書類を届けに来ただけだろ」
玲奈から目をそらさない。
「電話を切ったのも、運転手に取り次ぐなと言ったのも玲奈だ。それで本人が来たら、コーヒーをかけて殴ったのか?」
玲奈の頬を涙が伝った。
「失うのが怖かったの」
蓮司は数秒黙った。
「真帆に謝って」
玲奈の表情が固まった。
「私が、この人に?」
蓮司の目が細くなった。
「玲奈」
その呼び方だけで、彼女の口が閉じた。
周囲は静かなままだった。
玲奈は長いこと動かなかったが、やがて私を見た。
「……ごめんなさい」
書類袋を近くの棚へ置いた。
「もういいです」
顔にかかった髪を耳へかけた。
「書類は届けたから、帰るね」
一歩踏み出したところで、視界が急に暗くなった。
身体が傾き、蓮司の腕がすぐに伸びてきた。
「真帆!」
手のひらがちょうど火傷した場所へ触れた。
強い痛みが走り、息をのみながら腕を引いた。蓮司もすぐ力を緩め、赤く腫れた皮膚を見下ろした。
「悪い。火傷したところだったな」
「大丈夫。少し眩暈がしただけ」
半歩下がったが、まだ視界が少し揺れていた。
蓮司は反対側の肩へ手を添え、口元と濡れた袖を交互に見た。
「口も切れてるし、腕もこんな状態だ。それに妊娠してる」
言葉の途中で一度息を整えた。
「せめて病院で診てもらってくれ」
彼を見る。
眉間の皺は消えていなかった。
少し離れたところでは玲奈が泣き、取引先の人たちもまだ残っている。
「蓮司」
彼がこちらを見る。
「私は本当に、書類を届けに来ただけ」
肩に添えられた手へ視線を落とした。
「渡すものは渡した。後のことは、自分でやる」
ゆっくり身体を引くと、蓮司の指が宙に残った。
エレベーターへ向かった。
ヒールの音が床に規則正しく響く。
後ろから名前を呼ばれたが、振り向かずにボタンを押した。




