第4話「浜の町のアーケード街」
弘明が倫子と電話で約束したのは、その週の土曜日だった。
場所は中央橋。この日二人は午前中講義があり、待ち合わせの時間は午後二時とした。工大下の網場から中央橋まではバス一本で行ける。バスは県女のある蛍茶屋を通るのだが、そこからは市電も使えるので、中央橋は待ち合わせの場所としては最適だった。
中央橋とは、長崎県庁から思案橋へ至る大通りに架かる橋である。ただし「中央橋のバス停」は中島川の少し上流にあり、待ち合わせ場所として知られるのは、実際には銕橋(鉄橋)の上だった。
通常、――中央橋で待ち合わせ――といえば、たいていこの銕橋の上と相場は決まっていた。
この橋は明治元年に架けられた日本最初の鉄橋であり、上流には眼鏡橋など有名な石橋が幾つも掛かっている。この辺りは市内随一の繁華街であり、週末には待ち合わせのメッカと化すのだった。
弘明は約束よりも三十分ほど早く着いた。
バスを降りて橋へ向かうと、人出は思ったほどでもない。
それでも信号が変わる度、大勢の人が橋を渡ってアーケードへ入っていく。
――やっぱ、街はいいな――と、弘明は気が晴れる思いだった。
宿町で燻っている者に取って、街で人の群れを見るだけで刺激を味わえる。ただ、橋の上で立っているだけでは間が持たず、時間潰しに中島川の畔を川上へ向かって歩いた。
眼鏡橋の袂まで行って腕時計を見ると、まだ五分しか経っていない。
もうあと五分と思って川上へ向かい、そこで元来た方へ引き返した。
橋の上まで戻って時計を見ると、約束の時間まであと十分。仕方なく、橋の上から歩いた川上の方を見ていた。
そこから、川面に映る幾つかの石橋の陰や、その両岸にひしめく建物の数々、そして右手の寺町から新緑に彩られた風頭公園まで、見ているだけで時を忘れる風景がある。
それは美しいと言うよりも、どこか懐かしい景観だった。
(もうそろそろ着くかな)
と、弘明が腕時計から眼を上げると、
ちょうど停留所に入ってきたバスから倫子が降りて来るところだった。
降車口から小走りにステップでも踏んだのか、降り立った倫子の身体が小気味よく揺れた。薄いブルーのジャンパースカートに、大き目のバックを肩から吊るし、そのまま倫子は軽やかに歩いてきた。
「ごめんなさい、待ったと?」
弘明は、彼女の砕けた物言いが、この上もなく嬉しかった。
その打ちとけた表情に弘明も緊張が解け、ほっとして言葉を返すのだった。
「いえ、ちょっと早く着きすぎて……」
そう言いながらも、どこかうろたえる様子の弘明に、倫子は素直に笑った。その倫子の髪が川面から吹き上げる風で頬に掛り、そっと指をあてがう仕草が色っぽかった。
「さあ、どうしましょう――」
落ちついた物言いは、年上のそれだった。
弘明は用意した文句で彼女に問い掛けた。
「あの……鍛冶屋町の銀邦という店で、珈琲でも飲みませんか?」
「えっ……ごめんなさい、私、珈琲は飲まんとよ――」
弘明は、最初の関門で躓いた。
まさか珈琲が駄目とは……弘明は後が続かない。
「えっ、すみません、じゃあ……」
「うんん、よかよ……私はミルクで、ご相伴するわ」
彼女は、言葉につまった弘明に気を使ってか、すばやく反応した。簡単にそう言い切ると、もう体を翻して浜の町の方へ行こうとする。弘明は慌てて後を追った。
(なんで珈琲が駄目なんや)
と、疑問を持った。
弘明自身、別に珈琲に詳しい訳ではない。
高校時代は校則で喫茶店への出入りは禁止で、家でもインスタントコーヒーしか飲んだことがない。
それに銀邦は先輩に聞いた店で、まだ行ったことがなかった。
不安を拭えないまま、前を行く倫子の体に手が届きそうな所まで追い付くと、ふと鼻先をかすめる香りを感じた。左右を見たが、別に香水の様な物を扱う店は見当たらない。ましてや、それは体臭の匂いでもない。だが、あきらかに倫子の体から香るのは間違いなかった。
なんだろうと考えあぐねたが、弘明には香りに固執している暇はなかった。
銀邦という店は、浜の町のアーケードを突き抜けて交差する通りにある。
長崎でも老舗らしい。弘明は、店は角を曲がると、すぐのところにあった。
ステンドグラスの嵌った重厚な扉を開けて中へ入ると、薄いアイボリー内壁は光線を散らすためか、デコボコとした塗りで、要所々にアンチークな装飾が施されている。
店内には、確かショパンの「雨だれ」であろう、静かなピアノの曲が流れていた。
弘明は何度か同じ曲のレコードを回した記憶がある。
――梅雨も近いし――
と、流れる曲に気持ちが移った分、ふっと気持ちが落ち着いたりした。
クロークのボーイが案内に立ち、客の姿が見えない店中へ誘った。椅子やテーブルも壁の色とコーディネイトされ、その中の綺麗なエッジ仕上げのテーブルに案内された。
「こちらへ、どうぞ」
そう言って恭しくボーイが案内したのは、壁際の二人掛けだった。
倫子は手前の席の背にバックを置くと、両手でスカートをまとめながら席に着いた。
対面に座った弘明は、初めて倫子を間近にしてまた緊張した。何か言わねばと思うのだが視線が定まらず、壁のルノワール風の絵に目が移るが、絵画を語るほどの余裕はない。
一方の倫子は、少し肩をすぼめて、ゆっくりと店の中を見まわしていた。
「山岡君……よか店、知とるとね」
その言葉に、弘明は心の中でガッツポーズを上げた。
前もってどこの喫茶店がいいのか、下宿の空手部の先輩は敬遠して、建築科の四回生を選んで聞いたのが正解だった。思わず笑みが浮かぶ弘明だったが、好事魔多し。事件はここから始まった。
「何にいたしましょう?」
と、蝶ネクタイの中年のウエイターが、厳かに挨拶して分厚いメニューを渡した。
「銀邦」と、豪勢な書体の表紙のメニューを捲り、内容の英語併記までは良かった。
だが品書きの文字に目が行くにつれ、弘明は不安に苛まれた。
なにしろキリマンジャロ、モカ、ブルーマウンテンと、知らないものばかり。
しかもその値段がべらぼうなのだ。
弘明にしてみれば、例えば交通量の調査だと、炎天下丸一日座って時給二百五十円、極寒の倉庫で防寒着を着てトロ箱を扱っても時給三百円がいいところ。
だがメニューの珈琲の値段は、バイトの時間単価を遥かに超えていた。
安いものでもモカが七百五十円、珈琲一杯でバイトの三時間分が消える勘定になる。
(あの先輩、何も言わなかった)
と、話を聞いた気障な先輩の顔が浮かんでいた。
苦悩する弘明の横で、ウエイターは黙って立っていた。
その時だった。
メニューを見ていた倫子が、弘明に言った。
「山岡君、モカが好きでしょ。私は、ホットミルクにするから」
倫子が弘明に笑みを浮かべて、そう言った。
弘明は、はっとして顔を上げた。
彼女は、落ち着いた表情で弘明を見つめながら、手元のメニューを閉じた。
「ああ、それじゃ、モカとホットミルクで……」
弘明は慌ててウエイターにそう告げた。
もし彼女の助け舟がなかったらと思うと、ぞっとした。
子供の頃から恥を掻くのが大嫌いで、気が小さいくせに見栄を張る。
おっちょこちょいの性格は失敗することが多く、その度にジレンマに陥る。そんな始末に悪い性格は、今も治ってはいないのだ。弘明は、顔から火が出るような思いを、また味わっていた。
初めてのデートは、こうして始まったのだった。
(第4話おわり)




