第5話「モカとカミ」
「モカとホットミルクをおひとつずつ、ありがとうございます」
そう言ってウエイターは立ち去った。弘明はほっとした。
いっぺんに手足の緊張が解け、脇に汗が噴き出していた。
モカが珈琲であることは、もう分かっている。だが珈琲にこれほど種類があり、その値段が弘明のバイト代を遥かに超えているなど、驚くことばかりだった。ただメニューの中でモカが一番安い。それを見るにつけ、いくら鈍感な弘明でも倫子の気遣いが伺い知れた。
注文した飲み物を待つ間、二人の席に沈黙が続いた。
真面に目を合わそうとしない弘明に、倫子も戸惑っている様子。
テーブルに出されたグラスを見つめながら、別に困った風ではないのだが、どこか姉の様に黙っている。弘明も何か話さねばと思うのだが、一度動転した気持ちが治まらない。ただ彼女の醸し出す雰囲気の中で、静かに息を継いでいた。
「山岡君……カミの存在って、どう思う?」
突然倫子が問い掛けた。
(カミ)と言われても、弘明には訳が分からない。
(何をゆうてんるんや?)
と、思わず倫子の顔を見つめ直した。
だが彼女は静かに笑みを浮かべて弘明を見つめている。
(いったい何のことや)
と思いながらも、やはり聞くしかない。
「カミ……ですか」
意味の分からないまま、彼女に問い掛けた。
倫子は弘明の要領を得ぬ反応を見て、後に置いたバッグを取り出すと、中から分厚い本を出してきた。受験で使いこんだ辞書の様な、しかし重厚な表装の本だった。
「私の話、聞いてくれる?」
倫子は本をテーブルの上に置くと、身を乗り出してきた。
弘明に選択の余地はない。
これで自分の失態から逃れられればと、少しほっとしながら、倫子の話を聞こうとした。
(カミって、宗教の話なのか)
と、頭のどこかでシグナルが鳴っていた。
だが、頼んだ飲み物を干してもなお倫子は話を止めない。
――真理は一つしかありません――
確かそんなこと言う倫子、彼女の説教は二時間続いた。
後半はもう何を言っているのか、弘明の頭には入らなかった。
ただ目の前で彼女の端正な唇がしなやかに動き、大きな瞳で弘明を見つめる。
それだけで十分だった。こうして初めてのデートは、銀邦だけで終わった。
弘明は終始倫子の話を聞き、素直に彼女の従僕となっていた。相手は、自分が声を掛けた人である。自分の選んだ相手が、「カミ」の話を聞けと言うなら、それを拒む理由はなかった。
弘明は倫子への言葉にならぬ思いを抱いて、日の傾き始めた中央橋からバスに乗った。
バスに揺られながら、倫子の言葉の感触を反芻した。田舎育ちの弘明に取って「神」は、あくまで神棚の中の存在でしかなく、あとは母から聞いた伝承の中の存在でしかない。
弘明が幼い頃、まだ五十過ぎの祖父が急死した。葬儀は祖父の家で行われた。弘明は正座する母の膝に座り、座敷に置かれた白木の桶に、叔父二人が祖父を担いで入れる様子を見ていた。祖父は白の死に装束を着せられ、額に三角の白い布をつけ、見たこともない表情をしていた。死後硬直など知らない弘明に取って、座棺に納まりにくい祖父の姿は、桶に入るのを嫌がっているように見えた。
「おじいちゃん、どこへ行くの?」
弘明は膝の上から母を見上げて、そう聞いた。
「これから天国へ行って、神様になるの」
と、ハンカチで口を覆った母が言う。
――おじいちゃんは神になるのか――
と思う弘明の頬に、母の涙がぽたぽたと落ちて来たのを覚えている。
だが、倫子の言う「カミ」は、明らかに弘明の知る存在ではなかった。
5月最後の日曜日、雨の降る朝、弘明はまた鉄橋の上で倫子を待っていた。
二十歳の誕生日まで、あと半月。大学の講義に倦み、出席をサボり、故に単位は確実に失っている。先の見えないまま、時間だけが確実に流れていた。
雨だというのに、橋の上は待合せの人の傘で溢れていた。
そぼ降る雨の中、人待ち人の表情は、色とりどりの傘の下で、どれもこれも明るく光って見えた。
弘明は湿った風に長髪を靡かせながら、倫子が来るのを待っていた。
見上げる空は、手の届くような雲に覆われている。
そんな中で弘明は、川面に落ちる雨粒の波紋を見ながら、
ボーっと初デートの日のことを思い返していた。
日が経つにつれ、弘明は彼女のカミの話に戸惑っている。
なぜ彼女が弘明の誘いに応じたのか……それは「カミ」の話をするためだったのか。
だが、そうは思いたくない。
だから弘明は、最初に電話してから銀邦で話をするまでを、つらつらと思い返していた。
まさか「カミ」の話が出るなど想像もしていなかった。それでも話を聞くにつれ、なぜか安堵感に包まれ、一度頭の中に鳴り響いたシグナルも消えていた。
話題に悩むこともなく、姉に甘えるように彼女の話に耳を傾けていれば良かった。本を開いた倫子は、それまでとは打って変わって能弁になった。立て板に水というか、言葉のひとつひとつに自信が漲り、溌溂として物語を紡いでいく、そんな風に聞こえた。
ただ「カミ」の話に、彼女の若さは似合わないような気がした。
どこか説く話の内容に、不条理なものを感じることもあった。
だが弘明は、それを口にすることはなかった。
「神は唯一無二の存在である」
そう言われて、正直心のどこかがモヤモヤした。
なにしろ子供の頃から、自分自身に手に余ることが起きれば、「神様仏様」と念じてお寺か神社で手を合わせた。クリスマスともなれば、ケーキを買って蝋燭を立てて祝った。夏の日の夕暮れなど、空に雷が光ると見れば、くわばらくわばらと臍を抑えて一目散に逃げた。
何か事が起これば、
(きっとバチがあたった)
と己を咎めて、あとは嘆くしかなかった。
そんな弘明に、倫子の説教はあまりにかけ離れて、不条理にも聞こえたのだった。
午前九時、倫子がバスから降りてきた。
目が合い、素直に弘明は手を上げた。倫子は傘を差して早足に近づくと、静かな表情で言った。
「行きましょうか」
そう言って、前とは真逆の方へ歩き始めた。
中央橋から県庁坂通りを登り、市役所通りへ折れて狭い路地へ入っていった。
弘明は黙ってついていった。
初デートの別れ際、「また会えますか」と問う弘明に、倫子は電話番号を教えてくれた。
そして週明け、弘明が電話を入れると、お母さんらしき人が出て、すぐ彼女を呼んでくれた。彼女に電話したような気がして、弘明は有頂天だった。そんな弘明に、倫子は言った。
「今度の土曜日、一緒に教会へ行きませんか」
弘明は一瞬迷った。だが彼女の意に沿って出て来た。
そして(教会で何をするのか)と疑念を持ったまま、弘明は倫子の後を歩いている。
教会は、ありふれた一軒屋だった。
門からすぐの扉を空けると、中は教会そのものだった。
だが一歩中へ入った途端、倫子と同じ香りがした。
それが何なのか、奥へ入っても分からない。
ただ、自分にはどうも場違いの所のような気がしてならなかった。
長崎に住んでみて、すでに弘明は故郷と距離以上の違いを認識している。
四百年を超える街の歴史は、異教を受け入れることで始まり、それを継承することで成り立っている。それだけに宗教への偏見は薄い。だが倫子が誘った教会は何か違った。それを言葉で言い表すことは難しい。だが皮膚感というか、どこか自分が拒絶されるような気がした。
最も弘明の場合、
いつも心の中で不確かな肉欲が沸き上がる。
それを隠したまま、ただ倫子の意に添うように行動していることは、
つまり弘明は偽善者だといえた。
倫子の説く「カミ」の存在を、明らかに弘明は疑っていた。
彼女が「カミ」の存在を信じて疑わないということが、受け入れられないでいる。あくまで弘明の心の中には、(抱けば女は変わる)という、信念にも似た気持ちが確実に居座っているのだった。
(第5話おわり)




