第6話「オランダ坂の上の洋館」
6月初めの土曜日、弘明は宿町からバスで中央橋まで出て、鉄橋を渡ってすぐの西浜町から市電に乗った。傘は持っていたが、差すほどの雨ではない。
どこまで乗っても百円の市電は、多少窮屈でも庶民の足としては重宝されている。全国の市電が車に押され、廃線になった車両が今も長崎市内で走っているのは、観光の街ならではかも知れない。
この日も教会へ行く日だったが、弘明は用があると倫子に断っていた。
市内の潤水女子大学の美術部から、ダンパの日にデッサン指導を頼まれ、ひとり大学へ向かっていた。
大浦海岸通で市電を降りると、旧英国領事館の前を通ってオランダ坂へ向かった。
他の部員も参加するが、先方の意向で弘明は一足早く大学へ入ることになっていた。
梅雨の走りか、シトシト降る雨がオランダ坂に良く似合う。
赤レンガと石積みの壁に挟まれ、そぼ降る雨に濡れた切り石が、冷たく光っていた。坂を登りながら見通すと、敷き詰められた石のひとつひとつに、異なる色合いが浮かんでいた。
それにしても、「石畳」とは、よく言ったものである。無機質な石を敷き詰めただけの坂なのに、そこには職人が編み上げた畳のような気品が漂っていた。
それは職人が丹精して編んだ畳を敷き詰めた大広間に似て、凛とした気品がある。異なる石が集い、一つのアンサンブルを奏でる様に、丘の上へ人を誘う坂に一種の和を醸し出している。
聞こえるのはそぼふる雨の音にならぬ音――
だが、まるで石畳を楽器にして降る雨が音を奏で、
訪れた人の心を癒してくれる。重くもない雨傘に束縛されながらも、弘明は気が晴れる思いだった。
薄曇りの空の下、南山手の緑に縁取られたオランダ坂を見上げながら、
――俺にこんな絵が描ければ――
と、それは叶わぬ夢とは知りつつ、弘明は真剣に絵のことを思うのだった。
例え部屋に籠ってイーゼルに向かっても、春の爽やかな風や、夏の雲の白さ、海の青さは描けなかった。増してや今を生きる人を二次元で表現するなど、弘明の技量では叶わぬことばかり。
身体を使った野球であれば、迷うことなく練習に明け暮れ、また登山へ登るためなら、収斂するまで反復練習に徹した。だが絵の基本を知らぬ弘明は、ただ書き殴っても上手くはなれない。
人より多少デッサンが上手いからと言って、人の心を癒す絵が描ける訳ではなかった。
(いまさら考えても、仕方がないが⋯⋯)
と、弘明は底知れぬ思いに慄きながら、いつしか心を現実に戻した。
異人に乞われて日本の職人が設えた石畳も、いまや車社会でアスファルトに取って代られた。
それは敗戦後、オランダから乞われるまで埋もれていた出島と共に、明治維新が人の心を頑なにした……と、弘明はどこか義憤を覚える。歴史の常とは言え、不条理な社会の変遷なのであろう。
だがその思いは思い通りにならぬ心の逃げであろう。それは倫子について行った教会でのやりとりに起因したものに違いなく、あの日の顛末を思い出す度に憤懣やるかたないのだった。
初めて尋ねた教会のミサは、弘明の心を解放することなく、1時間ほどで終わった。
列席していた二十人ほどの信者は、ミサが終わると挨拶をして三々五々出て行った。
弘明は倫子と最後まで礼拝堂に残り、要領を得ないまま倫子の指示に従うしかなかった。
ご挨拶を――と、倫子に背を押され、弘明はひとり主催者の方へ向かった。
出口に立って一人一人と握手を交わすその人は、もう髪が真っ白な初老の女性だった。
「こちら、山岡さんです」
「ようこそ、いらっしゃいました」
背後からの倫子の紹介に、女性は恭しく腰を折ると、言葉明瞭にそう言った。
少し離れて頭を下げた弘明は、なんとも年老いたその女性の目が気になった。
齢の差はあるが、聖書を読み聞かせる時の倫子の目と、どこか似通っている。だが、倫子の言う聖書の世界と現実は、弘明の中ではまだひとつになっていない。いや、違和感ばかりが浮いてくる。
実際、弘明が教会の質素なひな壇に掲げられた十字架に手を合わせても、倫子のいう「カミ」を感じることはなかった。ただ倫子に近づきたいという一心で、従順にならざるを得なかったのだ。
そんな思いで伏し目勝ちに立っている弘明に、
女性の方が無機質な声で語りかけた。
「あなたの心にカミのお恵みがありますように」
と言うと、その女性が弘明の手に触れた。
その時ふっと顔を上げた弘明に、彼女の目が光った。
気のせいかも知れない。だが少なくとも弘明は威圧を感じた。
それは入信しろというのか、それとも倫子への淫らな思いを断てというのか。弘明は己の心を見透かされたような気がして混乱した。
少なくとも彼女の放った言葉が、弘明の心に突き刺さったのは間違いない。そして、その女性が放った威圧は、弘明の心の中に巣食う邪心を、いまも抑え込んでいるのだった。
オランダ坂を登り切ると、東山手の丘に建つ潤水の校舎が見えてきた。
折からの雨、かつてホテルだったという洋館の屋根が濡れて光っている。
その佇まいが背後を包む芽吹いた木々に囲まれ、その朱色を一層輝かしていた。
校舎の正門へ至る階段は手入れされた低木に囲まれ、奥の芝生広場へ続いていた。
階段を登るにつれ、ここがキリスト教に依り多くの女性を育んできた学び舎であることを認識させた。
「山岡さん、ようこそ、いらっしゃいました」
小ぶりな正門を潜ると、
洋館の柱に囲まれた玄関ポーチに、
ミニスカートの女性が立っていた。
潤水美術部で英文科二年の酒井純子だった。
別に弘明は彼女とつきあっている訳ではない。ただ春の展示会で出会い、その後の打ち上げで飲んでから、部を通じて連絡を取ることが増えていた。
「こんにちは――」
濡れた傘を下ろしながら、弘明は弾んだ声で挨拶した。
だが彼女は碌に挨拶もせず、弘明の腕を取ると急いで奥へ入ろうとした。
「山岡さん、早く早く――」
そう言って弘明の手から濡れた傘を奪うと、ポンと傘立てに入れて奥へ誘う。
彼女の強引さに驚きながらも、
弘明は慎重に板張りの廊下へ足を踏み入れた。
そこで彼女は無頓着に弘明の手を握ると、奥の階段から先に登って行く。傾斜のきつい階段で、後に続く弘明は眼のやり場に困る。ダンスパーティー用か、いかにもスカートの丈が短い。それは高校の文化祭で船を飾った塵紙の花のようでもあり、その襞が彼女の白い太腿の奥底を覆っていた。
――これはたまらん――
湧き上がる色情は御しがたく、弘明は上気していく自分が怖かった。
酒井純子は、実家が長崎でも老舗の料亭で明らかにお嬢様だった。その辺の情報は、誰よりも片山が詳しく、幾つものビルを持つオーナー一家の一人娘だという。
確かに展示会で会った時の彼女の服装も目立っていた。
いかにもお嬢様らしく、自分は好かれて当然といった様が目についた。
ただ持って生まれた気品というか、ショートカットの髪にテニスで鍛えたというスレンダーな身体は、弘明の気を引かずにはおかなかった。
その彼女が、細い足も露わに、引き締まった臀部を揺らしながら階段を登っていく。後に弘明がいる以上、スカートの奥を覗かれるかも知れないのに、彼女に頓着する様子はない。
(そんなゲスな男はいない)
とでも思っているのだろうか。
(俺はゲスそのものや)
とでも言ったらどうするのか……
そんな妄想が消しては湧いていた。
彼女は階段を登り切ると、正面の観音扉を押し開いて弘明を手招きした。
一歩中へ入ると、まずはその天井高さに圧倒された。
そこは玄関前の芝生広場に面した部屋で、壁にはアールの掛かった腰高窓が整然と並び、五重奏のコンサートでも開けそうな雰囲気だった。
部屋の中央に、デッサン用の石膏像がアンチークなスツールの上に置かれ、そのまわりで五人の女子大生がイーゼルに向かっていた。
「みなさん、工大の山岡さんが、いらっしゃいました」
そう純子が声を放つと、それぞれの女性が華やいだ表情で弘明に注目した。
弘明は場違いの様な気がしたが、純子に背を押されるまま中へ入って行った。
(第6話おわり)




