第7話「佐世保のモーテル」
倫子との約束をすっぽかして、潤水女子大学へ行った弘明は派手な土曜の夜を過ごした。
デッサン指導のあと、講堂で行われたダンスパーティーへ出て、そのあと打ち上げにも参加した。
場所は銅座のスタンドバー。
工大からは弘明と片山ら五名、潤水は純子を入れて七名が参加した。
店にはU字型のカウンターがあり、
未成年の者もいたが入ってしまえば誰も何も言わない。
弘明自身、二十歳の誕生日前だが、何かと飲み会が多かった。
入学早々、下宿の歓迎会で一気飲みの洗礼に会い、反吐が出るほど飲まされた。
以後、空手部の先輩主導で酒は日常茶飯事だった。
幸いというか、幼い頃から父に酒を勧められ、酒への抵抗は少なかった。しかし大学の一気飲みは別だった。下宿の宴会で、新入生の一人が急性アルコール中毒で入院した。
弘明自身も、コップ酒を九杯まで干したのは覚えていたが、苦しくて目が醒めたのは翌日の夕方だった。いくら酒が飲めると言っても、その怖さは身に沁みて分かっているつもりだった。
純子はスタンドバーへ移っても、お姫様そのものだった。
さすがにパーティードレスは着替えていたが、派手なピンクのミニ姿で席をバタフライして、手にしたカクテルグラスを干していた。
片山が彼女に一生懸命媚を売るのだが、男のあしらいは手慣れたもので、まるで女王蜂の如く男達を手玉に取っていた。
弘明はバスの時間が気になった。
常に金欠の怖さに怯えていただけに、タクシーで帰る訳にはいかない。
箍が外れる前に、どうやって店から抜け出そうかと考えていた。
そんな弘明の気配を察したのか、
さほど酒が強そうには見えない純子が絡んできた。
「なんで飲まないの――」
そう言って、弘明の隣にいた女子をスツールから退かせて割り込んできた。
「いや……もう帰らないと」
「なんで、まだ十時過ぎたばかりよ」
「いや、バスが……」
「なに――タクシーで帰れば」
「いや、俺はバスで⋯⋯」
「ダメ、まだ帰っちゃダメ」
そう言って純子は、細身には不釣り合いな胸の膨らみを、惜しげもなく弘明に押し付けてくる。
弘明は、その胸に触れぬよう両手で彼女の肩を支えようとした。だが、身体を寄せる純子のブラウスの襟元が開けて、胸元が見えた。そこから立ち上る香り。いやがおうでも弘明は視線を落とした。
そこに小さなリボンのついたピンクのブラ――、
いまにもはち切れそう。
(彼女なら、童貞を捨てられる――)
と、咄嗟に弘明の本性が反応した。
その一瞬の欲望に突き動かされ、思わず純子の肩に当てた手に力が籠る。
だがその時、宴席で飲んだら決まって太鼓持ちになる片山に救われた。
その間隙を縫って弘明は抜け出し、中央橋から最終バスでアパートへ帰ったのだった。
翌日の日曜日を無為に過ごした弘明は、月曜は朝から大学へ出た。
午後、講義が終わって美術部の部室へ行くと、珍しく小山が弘明に声を掛けてきた。
急なバイトの話だった。仕事は電気工事の助手で、時給四百五十円だった。
(いいな)と思った弘明は、話に乗った。
仕事は土曜と日曜。
一度片山が受けたらしいが、一日で根を上げ、他に誰かいないかという話だった。
――あいつに出来ないなら――
と、弘明は対抗心に燃え、その場で受けることにした。
バイトなら教会には行けないと、倫子へ言い訳も出来る。
それだけ教会は重荷になっていた。
土曜の朝、弘明は宿町から始発のバスに乗って、中央橋へ向かった。
前日バイトの雇い主に電話を入れて、待ち合わせ時間を聞いていた。
「佐世保の仕事やけん、朝7時に中央橋へ来んね」
男はコテコテの長崎弁で、そう言った。
ぶっきらぼうなのであろう、他には何も言わずに電話は切れた。
(行けば分るやろう――)
と、弘明もいい加減なものだった。
午前六時半、バスは中央橋へ着いた。
早朝で乗客もおらず、道路も空いていて早く着いた。
約束の時間には早すぎると思ったが、バスを降りると後方にバンが止まっていた。念の為、近づいて車の車体を見ると、助手席のドアに小山が言う工務店の名が書いてある。
ガラス越しに運転席を見ると、倒したシートに男が寝ていた。助手席の窓をノックすると、目を開けた。
髭面で細面――、どこかテレビでよく見た手相で有名な小説家に似ていた。
「工大の学生ね?」
男は、体を捩って助手席の窓ガラスを開けると、
片目を瞑ったままそう聞いた。
「はい、山岡です」
「よかよか、はよ乗らんねっ」
言われて弘明が助手席に入ると、中はうっとする匂いが充満していた。
いったいどれだけ飲んだのかと思うほど、異様な匂いが混ざりあっていた。
「飛ばすけん、よかね。今なら一時間掛からんばい」
そう言うと男は、勢いよくレバーを回して窓を下ろし、車を急発進させた。そのせいで朝の空気が車内の淀んだ空気を一掃した。ただ男の着る作業服は薄汚れ、ハンドルを握る手は黒ずんでいた。
それが気になる弘明をよそに、
男は大きくハンドルを切りながら車をUターンさせた。
車は国道206号線を北上した。早朝の国道は空いていた。
やがて鏡の様な大村湾を左手に見ながら、コンクリートの道路を順調に走った。
道自体は入りくんだ海岸線を走るのだが、それでも男は何かに憑かれたように速度を上げたままだった。
車が佐世保の駅前を通過したのは、男の言った通り七時半過ぎだった。
蒸れるほど湿っぽい朝、初めての佐世保は、同じ港町でも長崎とは随分違った。
三方を山に囲まれ、造船所やフェリーの行き交う港街長崎とは異なり、駅前の人通りは少ない。どんよりとした空の下、間近にある港の景色は一種異様だった。
潮の香りに重油の匂いが混ざり、軍港特有の湿った空気が漂っていた。
軍艦なのであろう、針鼠のように身を纏った艦艇がずらり。
確かに空は曇っているのだが、
それ以上にどこか空気が淀んで、薄暗い光景だった。
「腹減ったけん、こん先で朝飯ば喰うけん、よかね」
その言葉に、弘明は着いたという安堵感と共に空腹を覚えて、思わず「はい」と返事していた。
男は多少リラックスした様子で車を転がし、やがて県道沿いの飯屋の駐車場へ入っていった。
入った店は、運転手や港湾関係者か、捩り鉢巻きの男で溢れていた。
けっこう広い店内には、白味噌の香りと男たちの熱気が立ち上っていた。
ガツガツと、そんなに早く喰えるのかという速さで、男は朝飯を掻き込んだ。
仕方なく弘明も、頑張って飯を頬張り、最後はお茶を掛けて流し込んだ。
飯代が出るのかどうかは知らないが、レジで男は何も言わずに二人分を払った。
「ごちそうさまです」
と言う弘明に、
「よかよか」
と、男は答えるだけ。
食堂のおばさんが男を「ヨッさん」と呼んだ。
呼ばれた男は、「よっ」と、格好をつけて手を上げた。
それは飯を食ってほっとしたのも束の間、
食堂の駐車場を出てすぐのことだった。
突然、ヨッさんはハンドルを切ると、国道沿いのけばけばしい看板のモーテルへ入っていった。
それはあきらかに「連込みホテル」だった。
――なんやねん――
と、声を発する間もなく、
弘明の目の前に「左へ回れ」と書いた看板が現れた。
これまで、道路沿いにモーテルの看板があれば、人目を忍んで見た弘明。だが当然、何をする所かは知っている。それを思った弘明は、思わず自分の身の危険を感じた。
――まさか――
と、思わずヨッさんの顔を見た。
だがなんと言うか、その顔に淫らな陰はない。どちらかと言えば、ヨッさんの顔には鼠男のような胡散臭さが伺えるばかり。
左へ曲がり込んだ車は、建物を右へ迂回。
すると奥にビニールの簾が下がる入口があった。
――やっぱこの男――
と思った途端、車は止まった。
見ると運転席の横に小窓がある。
ちょうど目の位置に板が張ってあり、上半分には部屋の裸電球、
そしてなぜか下には男の手が見てとれた。
それは血管の浮き上がった骨太な手だった。
だがその手はすぐに引っ込み、代わりに前歯がヤニで黒くなった男が顔を出した。
「すみません――電気屋です。遅くなりました」
と、まるで声の音色を変えたヨッさんが、急に愛想よく叫んだ。
――なんや、ここで仕事か――
と、なぜかほっとする弘明だった。
(第7話おわり)
――
この週末は少し趣向を変え、各話ごとに掲載してみました。
読みに来てくださった皆さま、本当にありがとうございました。
物語も少しずつ中盤へ入り、これから登場人物それぞれの想いが交錯していきます。
いずれは紙本としてまとめる予定ですが、いまはここで書き下ろしながら、
一話一話を大切に紡いでいきたいと思っています。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
船木千滉




