第8話「不夜城、思案橋のキャバレー」
「遅かねえ、夕べの内に来てくれんねって――、言うとったに」
「すみまっしぇん、工事がつまっとって」
「はよやらんね、土曜日は忙しかけんね――部屋は元禄たい、あんた知っとろ」
「はい――すみまっしぇん、急ぎますけん」
と、ヨッさんは狭い隙間から顔を出す男に頭を下げる。
だが男は、ヨッさんが返事を終える前に顔を引っ込める。その代わりに、その隙間から骨太の手を出して、イケイケと急かすばかり。
それでもヨッさんは、その手に向かって頭を下げると、ようやく車を走らせた。
それから裏の駐車場へまわりハッチバックから荷を卸す。すばやく弘明に指示をしながら、ヨッさんが言うには、メーカーが入れたエアコンに不備があり、天井裏の電線を交換すると言う。
「おいが付けた訳じゃなかばってん、どうせ値切られて手を抜いとっとさ」
と、早口で愚痴るヨッさんの動きは早い。
命じられるまま弘明は荷台の電線を担ぎ部屋へ運ぶ。
だが、直径一メートル大のケーブル、それを運ぶだけでもうクタクタ。
――これでは片山も逃げるはずや――
と悟っても、もう後の祭りだった。
だが「元禄」という部屋には驚いた。
真っ赤な欄干の橋があり、その奥に金箔の浴槽が構える。
いかにも艶めかしい、その形と色――。
ここで男と女が⋯⋯と思うと、弘明の胸はドギマギする。
そんな部屋へ何度か出入りする内に、ヨッさんがくれた作業着は濡れ鼠になっていた。
それは何度目だっただろうか、弘明が荷を担いで「元禄」に入った時だった。
「誰じゃ、天井裏におっとは――」
突然、男の怒鳴り声がした。
尋常な物言いではない。
ヨッさんは天井裏、だがどうもその声は、隣の部屋から聞こえた⋯⋯
と思うまもなく、ドタバタと音がしてヨッさんが点検口から降りてきた。
だがその格好、なぜか手に持つニッパが逆さで顔面蒼白――
そのまま押し入れの上段で固まった。
さらに男の喚き声が高まり、入口の戸を開けたのか、廊下の方で喚き始めた。
すると今度は、その廊下でペタペタと慌てたような足音がして、女性らしき声がした。
「お客さん、相済みまっせん、隣の部屋が工事中で……」
と、それはえらく皺ぶき交じりの声だった。
年配なのか、言葉尻が良く聞こえない。
「……っと、うたれっと――」
と、もう一度男が叫び、あとは静かになった。
その間、部屋の中で身構えて耳を澄ましていた弘明は、ふと背後に気配を感じた。振り向けば部屋の入口に女が立っている。そのままヅカヅカと入ってきて、押入れで固まるヨッさんの前に立った。
その女性、老けた割には化粧が厚く、ヨッさんに顔を寄せると小声でまくし立てる。
「あーたはまた、なんばしよっとね……」
そう罵る女に、ヨッさんは拝むように手を合わせる。
(いったいなんなんや……)
と、訳の分からぬ弘明は、居づらかった。
だが詰る女と謝るヨッさん――、どこかイチャついているようにも見える。叱られながらも、細い目をさらに薄くして満更でもない様子だった。
モーテルの仕事は、夜更けになってようやく終わった。
車へ道具を積み終えると、ヨッさんは長崎へ戻ると言う。
もう九時を過ぎていたが、そのまま長崎へ深夜の国道を突っ走った。
「今夜は、思案橋で奢ってやっけん――」
と、なぜかヨッさんは上機嫌。
その様子を見て、弘明はヨッさんに思ったことを口走った。
「あの⋯⋯、ホテルのおばさんとは、古い付き合いなんですか?」
そう聞きながら、弘明が運転中のヨッさんの顔を見ると、少し照れ顔になって言う。
「ああ見えて、昔は思案橋の幌馬車で、売れっ子やったばってんね――」
その横顔、ヨッさんの年齢は読めないが、えらく遠い昔の話のように感じられた。
「こん世の中、学校ではイッチョン教えんこつが、えっとあっとよ――」
そう言ってヨッさんはニヒルに笑う。
分るようで分からない話だが、それ以上聞くのは憚られた。
その話は尻切れトンボに終わった。だがヨッさんは、言葉数は少ないものの、行きとは違って打ち解けていた。弘明は疲れていたが、やり切った感と共に思案橋へ行くと聞いて興奮していた。
あれこれ話をしたせいか、意外に早く長崎へ着くと、ヨッさんは銅座の駐車場へ車を入れた。
そこで作業着を着替えると、そのまま銅座の路地を縫って思案橋通りへ出た。
夜も十時を過ぎたというのに、そこは不夜城――ネオン輝く思案橋通り。もう長崎に住んで一年以上経つ弘明だが、何度か見た光景にも係わらず、そのワクワク感は尋常ではなかった。
肩で風を切るように歩くヨッさんの横で、なぜか弘明は舎弟になったような気分だった。
「今夜は、おいの行きつけのキャバレーへ行くけんね――」
現場とは打って変わって、片手をポケットに突っ込みながら歩くヨッさん。暗い駐車場で着替えた時は気づかなかったが、薄手の綿パンにジャンパーは様になっていた。
「あのう⋯⋯キャバレーって、こんな格好でよかとですか?」
「よかよか、男前やけん、なんでん良かっさ――」
もう意味が分からない。
だが弘明はほっとして、もう自分の身なりのことは忘れた。
――キャバレー東京――
その店は、思案橋通りの中ほどにアプローチがあり、その十数メートル奥にシャドーの入ったガラスドアがある。そこを弘明はヨッさんについて、どこかオドオドしながらついていった。
と、たちまちガラス戸が奥へ開き、そのまま中へ。
するとそこに蝶ネクタイの紳士が待っていた。
「いらっしゃいませ、お二人様ですか――、ご指名はごさいますか」
まさに立板に水――、ヨッさんが返事をする間もなく、二人を螺旋階段へ誘う。そこは吹き抜けのエントランスホール、百八十度の螺旋階段があり、その中心に圧巻のシャンデリアが下がる。
階段を降りるにつれ、クリスタルに増幅された灯りに包まれ、否が応でも高揚感が増す。
さらに階段を下ると、下で待つボーイが、入口を飾るサテンに手をあて奥へ誘う。
だが、その動きに翻った裏地は、いかいにもあざとい赤――。
その鮮烈な色を目にした途端、
奥から湧き上がる喧騒までもが心地よく胸に響く。
もはやホール自体が劇場そのものだった。
だが驚きはそれでは終わらない。
真っ暗な店の中へ入った途端、目は奥のステージに奪われる。
いま正にショーの真っ最中、肌も顕な数名のダンサーが惜しげもなく脚を上げる。ビックバンドが叩きつけるようなスイング・ジャズを奏で、派手なショーツが見える度に上がる歓声。
圧倒されるばかりの弘明は、ヨッさんのあとをついていくのに必死。恐らく通い慣れているのであろう、まるで水を得たように行き交う人の群れを縫って、ヨッさんは奥へ行く。
しかし、その広さ――、高校の講堂を彷彿とさせるような広さがある。
奥のスタージは、派手さこそ比べようもないが、講堂そのもの。
だが左右は一段高くなっているのであろう、立ち並ぶギリシャ風の柱の奥はさらに暗く、秘密めいていて、どこか怪しい空気が漂っている。
二人が案内されたのはステージの真正面、
そこはかぶりつきにも相応しいような席だった。
床に跪いたボーイが、伝票盆であろう台紙をテーブルの端にかけると、「ごゆっくり」と言って立ち去った。だが間髪を置かず、他のボーイが「セットです」と言って突き出しを置き、ポンポンと小気味よくビールの栓を抜く。同じボーイでも服装が違う。だがその軽装のボーイがヨッさんに言う。
「ありがとうございます。アカリさん、早めに席につくよう、言います」
その言葉に、弘明がボーイを見ると、手に握ったものを胸ポケットに入れた。
「アカリに言って、こいつに若い子ば、つけてやって」
そう言うと、ヨッさんはボーイが注いだビールをぐっと干した。
遅れて弘明もビールを煽る。
それからの時間は、あっと言う間だった。
強烈な印象が残像となって弘明の頭を満たしていた。
(第8話おわり)




