第9話「思わぬ訪問者」
「いや――、こんな可愛い子ば、どこで拾ってきたと――」
そう言って、ヨッさんと弘明の間に割り込んだホステスが嬌声を上げた。
――この人、酔ってる――
そう思いながらも弘明は、その人から香り立つ匂いと肉感的な感触に、身が縮む思いがした。
だが、その後の記憶が薄い。どうもその女に囃され、調子に乗って空きっ腹に水割りが過ぎた。
(確か、トイレで吐いて⋯⋯)
そんな記憶があるのだが、頭が割れそうでどうにもならない。
と、そこで目が醒めた。
だが、どうも視界がおかしい。
はっと思って起き上がると、そこは床の上。周りを見回すと、足元のソファーに、恐らくヨッさんであろう男が寝ている。
早朝からの力仕事で汗をかき、夕食も食べずに酒を煽った。
そのつけは大きかった。
酷い頭痛と尿意で目が覚めた。
飲み過ぎた――と後悔しながら、
もはやヨッさんに聞くしかない。
「すみません⋯⋯、トイレ⋯⋯」
と、ヨッさんに声をかけるが返事がない。
さらに尋ねると、ウーと言いながら伸びをして言う。
「そこでやらんね――」
ヨッさんは、寝たまま弘明の頭の先を指差す。
その指先は⋯⋯と見れば、
そこにはトタン張りの炊事台しかない。
机のような四本足で窓際にあって、
最寄りの壁から蛇口が飛び出している。
――ええっ、まさか――
と、弘明は思った。
部屋の中を見回しても、便所らしき戸もない。
しばらく思案していた。
だがその内、何を思ったか、ヨッさんがムクッと起き上がり、弘明の横を通って炊事台に向かう。
えっ――と思う弘明の目の前で、
そこへ登ると蛇口に手をかけて股を開き、
なんと放尿を始めたのだった。
弘明は見るに見かねて、身体を反転させると、また煎餅布団に横たわった。だがヨッさんがソファーに戻り、ふたたび寝息を立て始めても、弘明の尿意は消えるどころか、ピークを迎えた。
仕方ない。やおら起き上がり、ヨッさんに習って炊事台を跨ぐと、放尿するしかなかった。
(悪夢や――)
と思いつつ、
その開放感は堪らず、ほっとする弘明だった。
夜が明けて、ふたたび炊事台の前に立つと、そこで顔を洗った。
ヨッさんの住処は、恐らく新大工町の奥のであろう、二階建ての文化住宅。部屋は二階で、階段の下に駐車場。
だが、なぜかそこに銅座の駐車場へ入れたはずの車があった。その車に乗って、ヨッさんは弘明を中央橋まで送ると、何も言わず走り去った。
そのまま弘明は彼の本名も知らず、翌週には電話も繋がらず、バイト代を手にすることもなかったのだが、それは後の話。
バスで自分のアパートへ戻った弘明は、寝不足と悪心で二度寝した。
夕方起き出すと、さっそく倫子に電話を入れた。
言い訳を考えていたが、
まさか二日酔いで寝ていたとは言えない。
電話を入れるとお母さんが出た。
もしもし――と答える声が、倫子に似ているので緊張する。
彼女がおかあさんに、弘明のことをどう言っているのか、気になるところである。だが、倫子がどんな家に住み、どんな家族なのか知らない。
彼女は家族について話をしないし、弘明も敢えて聞くことはしなかった。別に聞くことを恐れている訳ではないが、聞き辛かった。
倫子は教会から帰っていた。
弘明は、言い訳がましくバイトのことを話した。
「モーテルのエアコン工事でさっ、部屋なんかテレビの大奥みたいでな、なんかエログロナンセンスって感じ。昼間からしけ込んでいる奴もいて……」
と、弘明はまだアルコールが残っていたのかも知れない。後先考えずに話をしたことを後悔した。
だが倫子は、少し間を置くと、自ら思いがけないことを口走った。
「へえ、私も一度行ってみたい……」
そう言った。その思ってもみない倫子の言葉に、弘明は一瞬心臓がドキンと脈打った。
「どうしたの……私、何か変なこと言った?」
黙り込んでしまった弘明に、倫子が問い掛けてきた。
「あんな所へ行くって、何しにいくのか、分かってんのか――」
「山岡君、怒ると関西弁になる……知っとると?」
「なんでんよかっ――」
やはり酒のせいであろう、
いつになく伝法な口をきく弘明に、
倫子は諭すように言う。
「あのね……、今度の土曜日⋯⋯、アパートへ行くけん」
弘明は、(あっ――)と、思わず叫びそうになった。
心臓が脈打つどころではない。
しどろもどろになりながら、
打って変わって弱気な声を上げた。
「なんで……、どうしたん?」
(ひょっとして)と、思うところはあったが、彼女が覚えているのか自信はなかった。だが、意外にも倫子は、しっかりと覚えてくれていたのだった。
「だって、二十歳の誕生日でしょ……。なんか美味しいもの、作ってあげるけん」
そう言った。その倫子の言葉の語尾に、彼女らしい思いやりが籠っていた。
弘明は、思わず「うん」と言って悔いたが、そのあと何を話したのか、すっかり忘れてしまった。
いずれにしても、二十歳の誕生日に倫子と一日過ごせると思うと、もう有頂天だった。
思えば初デート以来、二人は喫茶店へ入るか教会へ行くか、いつもどちらかだった。
「今日は、アパートに来ない?」
そう弘明が切り出しても倫子は、はぐらかすばかり。
その頑なな彼女に、
――いっそ押し倒してしまおうか――
と、本気で考えたこともある。
だが自分なりに考え直して、例えば映画を見ようかとか、興福寺のあじさいを見に行こうとか、何度か切り出してみた。
だが悉く拒絶されたしまった。
「なんで駄目なの」
と聞いても、
「なんでも……」
と、倫子は答えるばかり。
そんな倫子が、モーテルの話から、
「アパートで食事を作って上げる」
と言い出した。
その申し出に異存はない。だが、なんでやと考えると、嬉しさと共に何かしら不安に駆られるのだった。
倫子が来る前日の夜、弘明は寝つけなかった。
欲望のまま押し倒したらどうなるか、考えた。でも「カミ」と共に生きるという倫子を抱いて許されるのか、弘明の思いは定まらなかった。
しかし弘明は、「カミ」を信じろと言われても無理だった。
平穏な日々を送りながら、心の底にはいつも不安が渦巻いている。学業に身が入らず、そうかと言って我を忘れて力を注ぐものがない。
一心不乱に球を追ったり、
重い荷を背負って山を登ったり、
竹で大きな山車を作ることもない。
いま弘明の血が滾るといえば、本能の赴くまま女を追い掛けることしかなかった。だが、それで良い訳がない。
では、いったいどうすれば……
と考えている内に夜が明けていた。
土曜日の朝7時半、卵を茹で、トーストを焼いて、あとはインスタントコーヒーで朝食を取った。
倫子が来るのは十一時、弘明は騒ぐ心を抑えて、描きかけの油絵を載せたイーゼルに向かった。
――倫子が来たら、この絵を見せよう――
そんな思いで、差し障りのない箇所を仕上げていた。
さすがに倫子に裸婦の絵を見せる訳にもいかず、イーゼルにはギターを引く友人の絵を置いていた。
同居の友人は、連休で実家に帰っている。
つけっ放しの白黒テレビが、どこかの観光地を映している。
時々、画面隅の時刻表示に目をやっては時間を確認している。
そこに、ちょうど午前十時の表示が出た時だった。
トントンと、ドアをノックする音がした。
(あれっ、早いな……)
と思いながら、筆を置いて玄関へ急ぐ。
下宿の誰かかな――とも思いつつ、
「はい」と言って、外開きのドアを押し開けた。
するとそこに立つ女性を見て、
「えっ――」と、弘明は呟いていた。
日差しのせいでシルエットしか見えない。
だが倫子じゃない。
「きちゃった……入っていい?」
それは純子だった。
潤水女子大学の酒井純子が、そこに立っていた。
(第9話おわり)
ここまでお読み下さって、ありがとうございます。
第2部を始めて約10日。
毎日少しずつですが、新しい読者の方が訪ねて下さるようになりました。
数字以上に嬉しいのは、この物語に時間を割いて読んで下さる方がいることです。
物語はいよいよ後半へ入っていきます。
これからも、一歩ずつ丁寧に書き続けてまいります。
今後とも、よろしくお願いいたします。
船木




