第10話「二十歳の誕生日」
「えっ、どうしたん……」
弘明は、思ってもみない純子の訪問に驚き、素直に問い掛けていた。
「この前、ダンパの時に、名簿で住所見たから……」
「いや、そうじゃなくて……」
「お邪魔だった?」
純子の顔が曇った。
(自分が訪ねたら飛び上がって喜ぶとでも……)
と思ったが、純子のあまりの落ち込みように、弘明もそれ以上きつく言えなかった。
「いやっ、ちょっと驚いて……いや、誰でも驚くやろ――」
弘明は、どうすれば良いのか判断がつかない。
だが無下に帰すことも出来ない。
「あんまり綺麗じゃないけど……どうぞ」
(お前――どうすんのや)
と、自分に詰問しながら、それでも中へ純子を誘った。
「へえー結構、綺麗にしよっとね――」
純子は台所の板間に立ち、見回しながら言った。
部屋は玄関の土間と風呂が並び、入った所が四畳半の台所と板間、そして奥に六畳の居間とトイレがある。テレビ台と机に椅子、そして炬燵のテーブルとイーゼルを居間に置けば、もう身動き出来ないほど。
男一人なら坐ったまま何もかも手が届くこともあり、別に不自由ではない。
部屋は、倫子が来る日でもあり、普段に比べれば格段に片付いていた。弘明は、辛うじて空いた炬燵のテーブルの一角に座布団を置き、自分は机の椅子に座った。
「この前の、土曜日、どこ行っとったと?」
純子は、優雅に狭い部屋の中に坐るなり、そう言った。
「えっ……この前の土曜日?」
(前も来たのか?)と思って純子を見ると、
申し訳程度の座布団に膝を突き、思わせぶりな横顔を見せていた。
「ああ、バイトで佐世保の方へ行ってた」
「バイト、なんの?」
「エアコンの電気工事」
「へえー、いくら貰えるの?」
「結構よくて、時給450円」
(本当はまだもらってないけど)
と、内心思いながら、それでも得意気に言った。
「なんだ、そんなに安いの?」
と、純子は無下に言い放った。
「えっ、450円やで」
「うちのお父さんに言ったら、もっと出してくれるとに」
(なんや、こいつ……)
と思ったが、弘明は口ごもった。
純子は、サラサラと音が聞こえそうなショートカットに、ちょっと厚化粧していた。薄いベージュのブラウスは七分袖で、濃紺に水玉模様のミニにスレンダーな素足が眩しい。
膝を崩して横座りして、バックを畳の上に置いた。
(いったい何しに来たんや)
と、弘明は複雑な気持ちで、純子の生意気な物言いに耐えていた。
「日曜日に、五島沖で二十キロのアラを釣って、新聞に出たとよ、うちのお父さん」
「あ……そう」
「だけん機嫌良かと。旅館でもテナントでも、もっと出すわよ、今度やってみたら」
純子は嬉しそうに話を続ける。
弘明は赤い口紅を塗った唇の動きに気を取られていた。
(もし押し倒したら、どうするやろ)
と、心に浮かんだ思いを消そうと必死だった。
「インスタントだけど、飲む?」
「インスタント……」
「うちは、貧乏人やからね」
と言って、返事も聞かずに立ち上がった。
炊事場でやかんに水道の水を汲んでコンロに火をつけた。コーヒーの瓶は居間だと思い、振り返ってみると、小さな座布団に横座りする純子の素足が目に入った。
絵を見ようと体を捻っていた。
弘明は一瞬躊躇した。
だが息を継いだ瞬間、彼女のつけるオーデコロンか、甘い石鹸の様な香りが弘明の鼻腔を満たしていた。
止まらなかった。
居間の畳に膝をつくと、純子の肩に両手をやって、
そのまま彼女を押し倒そうとした。
「いや――」
純子は小さく叫び素早く身を翻した。
彼女の膝が割れて腿の内側が剥き出しになった。
その瞬間、弘明の心の中で(いけ)という思いと、
(やめろ)と止める気持ちが交錯した。
純子は立ち上がって茫然と弘明を見つめていた。
両手を胸の前で交差して怯えていた。
さっきまでじゃれていた子猫が、突然襲われたかのように、切ない顔をしていた。
弘明は、ゆっくり立ち上がり、部屋の隅の机の椅子に座った。
「俺はこんな奴や、こんなつきあいしか出来へん、せやから、もう帰り」
弘明はそう言って純子に背を向けた。
彼女の返事はない。無言のままだった。
机の上の目覚まし時計が十時半を過ぎていた。
放って置く訳にはいかなかった。
「もう帰り……帰らんと、ほんまにやるで――」
と、低い声を荒げると、
その途端、純子は弾けるように畳の上のバックを取って、身を翻した。
あとは靴を履く音、ドアが開閉して、そして足音は遠ざかって行った。
アパートは丘の中腹に建つ2階建てで、その2階の一室。傾斜地にあって道路から鋼製の階段が掛っている。その階段を、トントントンと重い足取りの音が消えて行った。
(帰った)と思うと、弘明は炊事場に立った。
コンロに掛けたやかんが沸騰していて、グラグラと煮え立っていた。火を落とし、やかんを洗い桶につけた。水を細目に、垂れ流しにした。
ものの二分、弘明は流れ落ちる水道の水を、じっと見つめていた。
(忘れよう)と、自らに言い聞かすと、洗い桶につけていたやかんを上げて、素手で底を触った。
(あれで良かった)と、思いながら、やかんのお湯を流しへ捨てた。
弘明は居間に戻り、座布団をひっくり返し、クンクンと犬の様に鼻を鳴らした。
椅子にでも座ろうかと思ったが、気が変わって部屋を通り抜けて窓を開けた。隣のアパートしか見えない窓だが、空気を入れ替えねばと思い、目一杯開けた。
純子の香水の匂いが残っているかも知れないと、念には念を入れた。
それから、まんじりともせずに、椅子に座って待った。
やがてトントントンと、純子が降りて行った階段で音がした。
弘明は立ち上がり、開けた窓を閉めた。確実に靴音は近づく。
ちょっと間があり、トントンとドアをノックする音が響いた。
弘明は板間から玄関に行って、そこで「はい」と返事をしそうになった。
だが一度後ずさりして、居間の敷居まで戻り、
おもむろに「はい」と返事をした。
そして堂々と板間を通り、片足を土間の下駄に預け、手を伸ばしてドアを開けた。その瞬間またドア一杯に真昼の光りが差し込み、眩しさの中に人がいた。
倫子だった。
その姿が神々しく、弘明は言葉を飲み込んだ。
「おはようございます……」
と言って倫子は、
一歩玄関の中へ入り、ゆっくりとドアを締めた。
そして振り向くと、
一段高い板間に立つ弘明に、明るい顔を向けた。
「誕生日、おめでとうございます」
そう言って、頭を下げた。
倫子の姿に、弘明の尖っていた心持ちが、素直になって行くのだった。
(第10話おわり)




