第11話「差し向かいの晩餐」
「上がってもいい?」
と、黙っている弘明に、倫子は首を傾げながらそう言った。
「あっ、ど、どうぞ上がって……」
弘明が、そう答えると、彼女は手にした荷物を上り口に置き、腰を屈めてローヒールのフックを外した。
弘明は、彼女が置いたバックと紙袋を持って奥へ入った。居間の入口に彼女の荷物を置くと、大きな紙袋の一番上に、カラフルな柄の布が入れてあった。
「ああ、その紙袋、ちょっと待って……」
と、後から倫子が声を掛けてきた。
「えっ、これ?」
と言って、弘明が紙袋だけを彼女に戻すと、
倫子は「ありがとう」と言って、一番の上の布を手に取った。
広げると、それはエプロンだった。幾何学的な模様に中間色が組み合わされ、地味な部屋が急に垢抜けたように見えた。
白いサマーセーターに濃紺のセミロングスカート、その上にカラフルなエプロンを掛けると、倫子はもう眩いばかりの新妻風の姿になった。
「へえ――結構綺麗ね。男の人の部屋って、もっと散らかしているのかと思った」
倫子はエプロンの紐を後ろ手で縛りながら、炊事場から居間へと、
珍しいものでも見るように動きまわった。
弘明は、その後姿を追いながら逡巡した。
今なら――、と思うのだが、
彼女の天真爛漫さと、放つオーラが眩しく、
今はそれを壊したくなかった。
「でも、やっぱり何か埃っぽい――」
と言って彼女が振り返った時、弘明の眼の前に彼女の顔があった。
外では見せたことのない、
溌溂とした笑顔がそこにあった。
弘明は、邪な思いを抱く自分が情けなかった。
だが、もし純子だったらと思うと、後ろめたかった。例え追い返す為とは言っても、同じ部屋で、さっき女に挑んだのだ。しかも彼女が去ったあと、自分の下着が濡れていることに気づいた。
もしあのまま純子が拒まなかったら、と考えると空恐ろしいのだった。
倫子は自分なりに段取りを組んできたのだろう、まるでゲームでもしているように、紙袋の中から一枚の半紙を取り出し、立ち上がって弘明に差し出した。
「さあ男の人は、さっさと買い出しに行って来て下さい。その間に掃除しとくから」
そう言うと、弘明の後にまわり背中を押した。
「ああ――財布を……」
と言って、居間に戻ろうとする弘明に、
倫子はピンク色の財布を押し付けた。
「いや――これは、こんなのを持って市場へ行ったら……」
「なに――男の子が財布の色なんか、気にせんでよか――さ、行って」
弘明は、玄関の土間まで押し出され、下駄をつっかけると、もう行くしかなかった。
「行ってらっしゃい――」
明るくそう言って見送る倫子に、弘明は体よく追い出されてしまった。
そのまま渡されたメモを手に、日見市場へ買い出しに出た。
(まあいいか……)と、諦め気味だった。
日見川沿いから市場へ入ると、くの字に曲がった狭い路地が続く。行き交う人の肩があたるほどの路地に、それこそ小さな店ばかりなのだが、品揃えと売手の口上は一級品の店舗が並んでいた。
そこを倫子の財布と渡されたバックを手に買い物を始めた。最初に、馴染みの八百屋のおばさんに声を掛けて、手にしたメモをそのまま見せた。
「なんね、彼女が来とっとね――」
と、えらくでかい声でおばさんが冷やかす。
「いや……」とは言ったものの、
メモの字を見たら明らかに女性の字だと分るだろう。
「こいは、スープかなんかたいね」
「いや、なんも知らん」
疑いの眼で問い掛けるおばさんに、弘明は答えを誤魔化すしかなかった。
「よかね――若か人は」
おばさんは変な色目で弘明を見る。
だが、そんなやりとりに心が躍った。初めてのことだった。
布のバックに野菜を詰め、あとは肉屋に寄って、鶏の胸肉とやらを300g、そしてなぜかオレンジジュースが書いてあった。最後にそれを酒屋で二本買って、市場をあとにした。
帰り道、部屋へ帰れば倫子がいる、と思うだけで素直に嬉しかった。
弘明はアパートへの道を急いだ。
ドアを開けると、エプロン姿の倫子が待っていた。
「これ……どこへ置こうか」
「はい、ありがとう。ここへ置いて――」
そんなやりとりをして、弘明は奥の机の椅子に座り、お勝手の倫子を見ていた。
トントントンと、まな板の音、水を出して鍋を動かす音が続いた。
いつもは殺風景な部屋が、倫子がかいがいしく食事の準備をする音で、
まるで別の場所にいるような気がした。
そこに音のある静かな時が流れていた。
倫子の後姿を見て、弘明は心底彼女が好きだと思った。それは聖書を前にしても、十字架を手にしても、決して嘘偽りのない弘明の真理だった。
だがそれは、倫子のいう愛とは違うのであろう。
弘明が抱く愛欲は、他の女でも自慰でも満たすことが出来る。でもきっと、その行為が終わった途端、直ちに霧散してしまう。その虚しさ、その不確かさに、弘明は疑念を持っている。
そんな薄っぺらいものが欲しい訳ではない。
倫子と交わり、彼女の体の奥底に己の迸るものを注ぎ込み、
二人の心と身体がひとつになる。
それが確実になれば、きっとそれが愛だと信じていた。ただそれで、己の愛欲が収まるのかといえば、いまの弘明にその自覚はまだ備わっていない。
やがて弘明は倫子と、炬燵のテーブルを挟んで差し向かいに座った。
テーブルには、スープと煮物と鶏の胸肉の照り焼き。そしてごはんに、弘明の好きな麦味噌の味噌汁が並んでいる。それは弘明にとって、久方ぶりのまともな食事だった。
二人で食べながら、取り留めのない話をした。
そして二人で食器をお勝手へ運び、
後片付けして、また二人で炬燵に座った。
倫子は何も言わず、炬燵の上に置いたインスタントの瓶からカップにコーヒーを入れて、沸かしたお湯を注いでくれた。それで、何も起こらないまま、日は西へ傾いて行った。
じゃあ……と、二人の話が途切れた時、
倫子は腕時計を見ながら帰り支度をした。
弘明は、もう流れに抗うことはしなかった。
ただ二人で淡々と流れる時を過ごしていた。
夕暮れの坂道を、二人してバス停まで歩いた。せめて一度抱き締めたかった。恐らく一生後悔するだろうと思った。だが、やはり弘明は何も出来なかった。
話が途切れた時、倫子は浮かぬ表情を見せた。その度に弘明は、心に浮かぶ邪悪な思いを恥じた。それでも彼女に挑もうとする度に、その倫子の潤んだ瞳の前で立ち消えていった。
そしてバスが来て、彼女がひとり乗り込み、最後列の席へ座った。振り向いて弘明に手を振る倫子の目に、最後の望みを抱いたが、もう何も浮かんではいなかった。
弘明はひとりアパートへ戻り、誰もいない部屋の灯りを点けた。
いつもは洗い物で溢れる流し台が綺麗に片付き、
その上に洗った食器が並んで寒々と光っていた。
ここに彼女が……と、弘明は倫子の座った座布団に手を当て、彼女の温みを探った。だがそれもただ空しいだけ。ひとり部屋に座り、その重苦しい空気に圧し潰されそうだった。
あの時、唇を奪ってしまえば、そのまま押し倒してしまえば……
と、ひとり夢想した。
身悶えする彼女の姿態を思い浮かべ、畳の上へ寝そべり、ズボンの前を開けた。
そして欲望のままに……果てた。だがその後には、不確実な罪悪感だけが残った。
だから、また会うしかない。教会でもどこへでも行って、最後は入信して……。
そんな虚しさが募り、またいつもと同じ夜がきて、静かに更けていった。
(第11話おわり)




