第1話(3/3)
時刻は午前八時、バスの出発まであと二十五分。
広場には、両校の男女が別れて輪を作っていた。
だが肝心の部長と幹事が来ていない。弘明はそろそろイラつき始めていた。
その時だった。
不意に背後から声が掛った。
「おはようございます。渉外の池田と言います。今日はよろしくお願いします」
いつの間にか県女の輪の中からひとり、弘明の背後に来ていた。
「うちの方は十名全員、揃いました」
彼女は、一度駅舎の大時計を確認した後、弘明にそう言った。
「バスは八時二十五分でしたね。だから、まだ少しあります」
「ああ、そうですね」
所在なく弘明がそう言うと、すかさず彼女が問い掛けてきた。
「工大の渉外の方、ですよね?」
「いや渉外は、副部長の片山ですが……」
「ごめんなさい、てっきり渉外の方かと」
「あっ、山岡と言います。山岡弘明です」
弘明は酷く緊張していた。
彼女の押しは、かなりのものだった。
「池田リンコです。よろしくお願いします」
彼女はそう言って、丁寧に腰を折って挨拶した。
慌てて弘明も頭を下げた。
「リンコ⋯⋯」
思わず弘明は、持った疑問を呟いていた。
「ええ、倫理の倫で、リンコです」
恐らく彼女は言い慣れているのであろう、明るい顔でそう答えると、笑みを浮かべた。
白のブラウスにモスグリーンのカーディガン、それにベージュのスカートが良く似合っていた。丸顔で濃い眉毛、素朴なポニーテールはどこか年上の雰囲気だった。
背は百七五センチの弘明からすると、かなり低かった。
だがその物言いは糸を紡ぐように清らかだった。
それに彼女の眼――、
まるで黒と言うか、
二重瞼の奥に大きな瞳が輝いていた。
その全てに、弘明は見とれていた。
「なにか……」
彼女の問い掛けに弘明は戸惑った。
だがその瞳が、弘明の心を捉えて離さなかった。
「どうか、しました?」
「えっ、いや」
弘明の体に稲妻が走った。
首の後ろが痺れて、瘧の様なものが脊椎から下半身へ走る。
彼女に自分の身体の動きを悟られそうで、慌てて返事をした。
「いえ、なんでもありません」
「では……みなさんが集まったら、声を掛けて下さい」
彼女はそう言うと、身を翻した。
すると解れた髪が頬に掛り、それを手で押さえながら県女の輪へ戻っていく。
その仕草が連動写真のように、弘明の網膜に焼き付いていった。
駅舎の大時計が、午前八時十五分を指していた。
すでに相手は全員揃っている。
だが、弘明の方はまだ集まり切らない。
三年の部長と、弘明と同期の片山、もう一人は新入生で、片山の高校の後輩だという。
彼らの親は共に国鉄で働いているらしい。弘明には、彼らの気が知れなかった。
同郷だかなんだか知らないが、二人揃って新部長の腰巾着のように振る舞っている。
新部長も新部長で彼らのご追従に満更でもない様子。
四回生に進級した前の部長が、なにかと弘明を可愛がってくれたこともあり、部内の人間関係は、最初から微妙だった。
ただ群れることを嫌う弘明にしてみれば、
そんなことはどうでも良いことだった。
ある意味、絵を描くのは女と出会う為であり、弘明に取って最も得意な、しかも最後に残った手段だった。一緒に絵を描くか、相手をモデルにするか、描く戦略は色々あった。
だが池田倫子という女性を目の前に、一度言葉を交わしただけで、もう戦略も何もなかった。
ただ、その眼を見た瞬間、弘明はもう夢中になっていた。
(第1話おわり)




