第99話 一度くらい
女中は店の奥に並べられた着物を見ていた。
どれも、普段の自分が袖を通すようなものではなかった。
色も、柄も、布の光沢も違う。
淡い色のものもあれば、深い色のものもある。
細かな模様が織り込まれたものもあった。
店の表から差し込む午前の光が、
その一枚一枚の上を静かに滑っている。
女中は眺めているだけで、
自分がそこへ手を伸ばすことが場違いなことのように思えた。
「どれも……私にはもったいないです」
写真屋は笑った。
「写真に残すのですから、少しくらい綺麗にしてもいいでしょう」
「ですが……」
女中は主人を見る。
主人は生地の織りをじっと見ていた。
屋敷を出る時も、写真屋へ向かう途中も、
変わらない様子で歩いていた。
それなのに、ここへ来てからは、自分のほうだけが落ち着かない。
「私は女中なので、このような立派なもの……」
主人は少し考えた。
「それが何か問題なのか?」
女中は答えられなかった。
問題があるわけではない。
ただ、自分には似合わないと思っているだけだった。
女中という立場にいる限り、
自分が美しく着飾ることなど考える必要もない。
朝は掃除をし、食事の支度をし、主人や妻の用を済ませる。
それで一日が終わる。
それが自分の暮らしだった。
「まあ、写真を撮る間だけだろう」
「はい」
「それに」
主人は少し間を置いた。
「なぜか、俺も一緒に撮るんだからな」
女中は顔を上げた。
「旦那様もご一緒に……」
「ああ」
その一言が、不思議なくらい胸に残った。
合わせて写真屋も頷いた。
「お嬢さんで一枚。それから、お二人で一枚。これでいかがでしょう」
女中は再び着物を見る。
まだ迷っていた。
写真を撮られることだけでも恥ずかしい。
まして、このような着物を着て、主人の隣に立つ。
それを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
「……本当に、私なんかでよろしいのでしょうか」
「もちろんです」
写真屋はすぐに答えた。
「むしろ、こちらがお願いしているくらいですので」
女中は困ったように笑った。
写真屋の目には、商売のためだけではない熱心さがあった。
この人は、本当に自分を撮りたいと思っている。
そのことが、かえって女中を困らせた。
「そこまで言われましても……」
写真屋はそれ以上、急かさなかった。
ただ、着物の掛かった場所へ視線を向けている。
その静けさの中で、主人がふと口を開いた。
「まあ、いいじゃないか」
「はい」
「せっかくだ」
「……はい」
「今までこんな着物を着て、写真なんて撮ったことがないんだろう?」
「それは、ございませんが」
「なら、一度くらい撮ってみればいい」
女中は黙った。
『一度くらい』
その言葉が、妙に心へ残った。
以前、主人と写真について話したことを思い出す。
今の自分を残しておく。
何年か経った時、その写真を見れば、
この家で暮らしていたことを思い出せる。
朝の掃除。
食事の支度。
庭の手入れ。
主人との何気ない会話。
妻との時間。
その時には、ただ繰り返しているだけだと思っている日々も、
過ぎてしまえば戻ってこない。
写真というものは、その過ぎていく時間を、
一枚の中へ閉じ込めるものなのかもしれなかった。
そう考えると、目の前の着物も、さっきまでとは少し違って見えた。
「……旦那様」
「何だ?」
「本当に……ご一緒してくださいますか?」
「ああ」
主人は迷わず答えた。
「約束しただろう」
女中はしばらく主人を見つめた。
その言葉には、余計なものが何もなかった。
だからこそ、女中の胸には静かに届いた。
「はい……分かりました」
写真屋が嬉しそうに手を叩いた。
「ありがとうございます」
女中は少し恥ずかしそうに俯いた。
「ですが……」
「はい?」
「この着物は……」
「もちろん、こちらで着付けまでご用意いたします」
「そうですか……」
女中はもう一度、着物を見る。
先ほどまでは、自分には縁のないものに思えた。
けれど今は、その袖に自分の腕を通すところを、ほんの少し想像してしまう。
すると、急に恥ずかしくなった。
「では、こちらはいかがでしょう」
写真屋が一着を取り出した。
落ち着いた色合いだった。
派手ではない。
けれど、近くで見ると細かな織りがあり、
光の角度によって模様が浮かんで見える。
写真屋はそれを少し離して眺め、それから女中へ視線を戻した。
「こちらなら、お嬢さんによく似合うと思います」
女中は答えられなかった。
主人がその着物を見ると、頷きながら答える。
「さすが写真屋だな」
「それは、いろんなお嬢様を撮っておりますもので」
主人は少し笑った。
「そうか」
そして、もう一度着物を見る。
「どうだ、それがいいんじゃないか」
女中は主人を見る。
「……旦那様も、それをお選びになるのですか?」
「まあ、俺は詳しくないからな」
主人は少し困ったように笑った。
「ただ、お前には似合いそうだと思っただけだ」
女中の頬が、ほんのり赤くなった。
「……そうですか」
それ以上は言えなかった。
何か言えば、自分の顔がもっと熱くなってしまいそうだった。
写真屋が着物を女中へ差し出す。
「では、こちらへ」
「はい……」
女中は両手で一式を受け取った。
布地の重みが、静かに手のひらへ伝わってくる。
普段着ている着物とは違う。
同じ布でできているはずなのに、その重さまで別のものに感じられた。
女中は一度だけ、主人を振り返った。
「では……行ってまいります」
「ああ」
主人は短く答えた。
写真屋が店の奥へ声を掛ける。
「おーい、着付けを頼む。大至急だ」
「はいよ」
奥から、女の声が返ってきた。
女中はその声に少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、着物を抱え直し、店の奥へ消えていった。
主人は、その後ろ姿を見送った。
いつも見ている背中だった。
けれど今日は、その背中が少し違って見えた。
やがて仕切りの向こうから、衣擦れの音が聞こえてくる。
布を広げる音。
帯を解く音。
小さな足音。
そして、着付けをする女性の声が聞こえた。
「おやまあ、綺麗な髪だこと」
「いえ……そんな」
「何を言ってるんだい。こんなに綺麗な髪をしておいでなのに」
女中の声が、少し困ったように返ってくる。
「普段は……このような格好はいたしませんので」
「そりゃあ、そうだろうねえ」
女性は笑った。
「でもね、着物ってものは不思議なもんさ。
着る人が変われば、同じ着物でも違って見えるんだから」
「そうでしょうか……」
「ああ。お顔立ちもきれいだし、髪もいい。
はあ、こりゃあ、着物を着せたら随分と映えるよ」
「……お恥ずかしいです」
「何を恥ずかしがるんだい。褒められた時ゃ、
素直に”ありがとうございますっ”てにっこり笑っていればいいのさ」
しばらく俯いて、恥ずかしそうに答える。
「……ありがとうございます」
「ほら、そうそう。それでいいんだよ」
女性は帯を手に取った。
「さあ、もう少しだけ我慢しておくれ。帯を締めたら、もう一息だからね」
「はい」
主人はその声を聞きながら、椅子に腰を掛けていた。
ただ待っているだけだった。
それなのに、落ち着かなかった。
仕切りの向こうでは、いつも見慣れている女中が、
いつもとは違う姿になろうとしている。
そう思うと、なぜか時計を見る気にもなれなかった。
写真屋が主人の様子を見て、少し笑った。
「旦那様、随分と静かでございますね」
「んん?そうか?」
「ええ」
「別に、何もすることがないだけだ」
写真屋は少し、目を細めると。
「あらそうですか」
と短く答え、それ以上は何も言わなかった。
仕切りの向こうから、また衣擦れの音がする。
主人は何となく背筋を伸ばした。
すると、着付けの女性の声が聞こえてきた。
「しかしまあ……」
「はい?」
「旦那様も、よくこんな綺麗なお嬢さんを連れてきたもんだねえ」
「えっ……」
女中の声が小さく上ずった。
「ち、違います。私は……」
「あら、何も変なことを言ったつもりはないよ」
女性は笑った。
「さあさ、動かないで。せっかくの着物が崩れちまうよ」
「……はい」
仕切りの外で、写真屋が苦笑した。
「おいおい、あんまりからかうなよ」
「あら、からかってなんかいないよ」
「そんなもん、聞いてるこっちが照れるじゃないかよ」
「何を言ってるんだい。あんたは写真を撮るだけだろう」
「そうだけどな」
主人は黙って聞いていた。
妙に、自分まで居心地が悪い。
けれど、席を立つ理由もない。
仕切りの向こうから聞こえてくる女中の声が、
普段より少しだけ遠く感じられた。
やがて、衣擦れの音が止まった。
「さあ、できたよ」
着付けの女性の声がする。
「ほら、顔を上げてごらん」
「……はい」
「うん。やっぱり思った通りだ」
女性の声には、満足そうな響きがあった。
「ああ、これなら旦那様も、きっと驚くよ」
「……そんな……」
女中の声が、さらに小さくなる。
主人は、無意識に背筋を伸ばした。
ただ写真を撮るだけだ。
それだけのことだと思っていた。
けれど今は、その扉の向こうにいる女中が、どんな姿で現れるのか。
そのことばかりが気になっていた。
主人は黙って仕切りのほうを見る。
しばらくして、向こうから小さな足音がした。
一歩。
また一歩。
それが近づいてくる。
主人はなぜか、いつもよりゆっくりと息を吐いた。
そして、女中が姿を現すのを待った。




