第98話 二人写真
写真屋までは、あと少というところまで着た。
主人は見慣れた通りを歩いている。
その後ろを、女中が三歩ほど離れてついていく。
昼前の通りには、店を開ける者や行き交う人の姿があった。
主人は慣れた様子で歩いている。
女中は周囲を気にしながら、その後ろを歩いていた。
やがて、通りの角に写真屋の看板が見えてきた。
主人が看板へ目を向ける。
「ここだな、着いたぞ」
「はい」
主人が店の前で足を止める。
女中も少し遅れて足を止めた。
さすがに店先では、先ほどまでの三歩より少し近い。
それでも、主人のすぐ隣には立たない。
「では中へ入るとしようか」
「はい」
二人が店の中へ入る。
店内には、薬品や古い木材のような独特の匂いが漂っていた。
壁には何枚もの写真が飾られている。
家族で写ったものや、子供の記念写真らしいものもあった。
女中はそれらをちらりと見たが、すぐに視線を下げた。
「ごめんください」
写真屋の男が顔を上げた。
「ああ、これは旦那様。お待ちしておりました」
「先日はどうも、お世話になりました」
「いいえこちらこそ」
主人は持ってきた包みを差し出した。
「つまらないものですが」
「これはご丁寧に」
写真屋は受け取り、丁寧に頭を下げた。
主人と写真屋が社交辞令の挨拶と世間話を少し交わしている。
その間、女中は少し離れたところで控えていた。
屋敷にいる時と同じように、主人の邪魔にならない場所を選んで立っている。
写真屋の男が、ふと女中を見る。
「あれ?」
女中は思わず姿勢を正した。
「はい、どうかなさいましたか?」
「いえ……」
写真屋はしばらく女中を見ていた。
何かを思い出そうとしているようでもあった。
そして主人へ視線を戻す。
「旦那様」
「はい、何です?」
「今日は、奥様ではなく、その……こちらのお嬢さんと」
「ああ、うちの女中だよ」
「女中さん……ああ、そうでした!」
写真屋はもう一度、女中を見る。
女中は落ち着かない。
自分が何か失礼なことをしたのではないかと思い、手を前で重ねた。
「あの、私は何か……?」
「いえ、あの」
写真屋が少し身を乗り出した。
「失礼ですが、お嬢さんを一枚、撮らせていただけませんか?」
「え?」
女中が目を丸くする。
主人も驚いた。
「え?この子を?」
「はい」
主人は顎を触りながら、首をひねる。
「いやあ、なぜまたこの子を?」
「いや、写真屋をやっておりますと、いろいろな方を撮影しますが……」
写真屋は言葉を選ぶように頭を下げ、少し考えた。
「これほど写真映えする方は、そうそうおりません」
「いえいえ、そんな……」
女中はすぐに首を振った。
「私はただの女中でございますから」
「それは関係ありませんよ」
「ですが……」
「いえ、ぜひお願いしたいのです」
写真屋の声には、本気で惜しむような響きがあった。
女中は困って主人を見る。
主人も女中を見る。
「さて、どうする?」
「私は……」
女中は俯いた。
「そのようなことをするために、ここに来たのではございませんので……」
「まあ、そうだな」
主人は頷いた。
写真屋は残念そうな顔をする。
「そうですか……それはその、真に勿体ないと申しますか」
女中はその表情を見て、さらに困ってしまった。
「あの……申し訳ございません」
「いえいえ、とんでもない」
写真屋は笑った。
「ですが、ああ、本当に惜しい」
「何が惜しいので?」
主人が尋ねる。
「いえ、やはりこの仕事をしておりますと……」
主人が追いかける。
「何かありましたか?」
写真屋も顎に手を当てながら続ける。
そこには、言葉を選んでいる間が感じられた。
「言い方は悪いかもしれませんが、残したいという欲も出てくるものです」
主人は、小さく頷いた。
そこで、写真屋は片眉を上げると、手を打って話し出す。
「そうだ! 旦那様、ぜひ一度、
この方をきちんとした晴れ着を着て、撮影してみるというのはいかがでしょう?」
女中の顔がさらに赤くなる。
「お着物……ですか?」
「ええ」
写真屋は店の奥を振り返る。
「当店には撮影用のものもございます」
女中は思わず着物の並ぶ方向を見る。
自分がそんなものを着るなど、考えたこともなかった。
主人は黙って女中を見る。
女中は主人の視線に気づき、ますます困った。
「あの、旦那様……」
「まあ、無理にとは言わない」
主人はそう言った。
「嫌なら断ればいい」
「あ……」
女中は俯いたまま、しばらく考えた。
写真屋の男は急かさずに待っている。
店の中に、静かな時間が流れた。
表から聞こえていた人の声も、今は遠く感じられる。
女中は一度だけ主人を見る。
主人は何も言わず、ただ待っていた。
やがて女中が、小さな声で言った。
「……少しだけなら、よろしいでしょうか」
主人は、静かに頷いた。
写真屋の顔が明るくなった。
「本当ですか!実は、呉服屋から預かってた一品がございまして……」
主人も思わず笑った。
「そうなのか」
女中は主人を見る。
「あ、あの……旦那様が、ご一緒なら、心強いのですが」
主人は一瞬だけ言葉を失った。
女中にそんなふうに頼られるとは思っていなかった。
写真屋は嬉しそうに頷いた。
「もちろんですとも。ぜひとも、ご一緒に」
主人は自分の着物の袖を見下ろした。
それから、少し困ったように笑う。
「おい、私は、こんなだぞ。写真映えなど……」
写真屋はすぐに首を振った。
「いいえ、これはこれで、風格と申しますか」
主人は思わず笑った。
「また、うまいことを言うな」
「いえいえ、本当の事を言ったまでで」
女中も思わず小さく笑った。
主人はその笑顔を見て、少しだけ目を細める。
こうして思いがけず、二人で写真を撮ることになったのだった。




