第97話 三歩の間
二人は屋敷を出て、しばらく歩いた。
主人は前を歩いている。
その後ろを、女中がついていく。
主人の歩幅は大きく、ゆったりとしている。
それに対して女中は、小さな歩幅で歩いていた。
女中は仕事柄、裾を乱さないように歩くことを躾られている。
足を大きく開かず、着物の裾を擦らせないようにする。
それが身についているのもあり、外へ出ても自然と歩幅は小さくなる。
主人が二歩で進むところを、女中は三歩ほどかけて進む。
そのため、主人との距離は自然と開いていく。
女中が追いつこうと少しだけ歩みを早める。
その時、主人が振り返った。
「……まだ三歩か」
「はい」
主人は女中の足元を見る。
それから自分の足元を見る。
「律儀だな」
「そうでしょうか」
「ああ」
主人は前に向き直った。
また歩き出す。
女中もついていく。
主人の足取りに合わせようとすると、どうしても歩幅が合わない。
けれど女中は、無理に主人の歩幅へ合わせようとはしなかった。
これまでそう教えられてきた。
主人の前を歩かない。
主人と肩を並べない。
裾を乱さず、静かに歩く。
それが女中として身についた歩き方だった。
主人が少し速度を落とす。
女中も、それに合わせる。
さらに主人が歩みを緩める。
女中は今度は歩幅を変えず、そのまま主人の速度に合わせた。
主人がふと振り返る。
女中はすぐに目を伏せた。
主人は何も言わず、また前を向く。
少し歩いたところで、今度は主人が立ち止まった。
「……まいったな」
「はい」
「俺が止まったら、お前も止まるのか?」
「……はい」
「そういうものなのか?」
女中は少し考えてから答えた。
「私は本日、荷物持ちとして同行させていただいておりますので」
主人は困ったように笑った。
「今日は商いじゃないぞ」
「ですが……」
女中は軽く周囲へ目を向ける。
通りには人がいる。
店先からこちらを見る者もいる。
誰も長く見ているわけではない。
それでも、女中にはこちらに向けられている視線が気になった。
「あの、一目もございますし」
「見られると困るか?」
「いえ……その」
女中は言葉を探した。
「旦那様と女中が、二人で歩いているところを見られれば……」
「なるほどな」
主人も周囲へ軽く目をやる。
ちらっとこちらを見るような視線を、感じないわけではない。
事情を知らない者からすれば、
二人で歩いていることをどう見るかは分からない。
女中はこれまでにも、外に何度か使いに出たことはある。
しかし、屋敷の外に慣れているわけではない。
一人なら用事だけ済ませて帰ればいい。
それが今日は、主人と一緒である。
だからこそ、いつも以上に人の目が気になっていた。
主人はそれを察したように頷いた。
「では、そのままでいい」
「はい」
二人はまた歩き始めた。
今度は主人も、無理に歩幅を合わせようとはしなかった。
ただ、先ほどより少しだけ歩く速度を落としている。
女中は気づいた。
自分に合わせてくれている。
けれど、それを口にはしなかった。
主人も何も言わない。
ただ二人の足音だけが、静かに通りへ続いていく。
しばらくして、主人が道端の店に目を止めた。
小さな和菓子屋だった。
「手ぶらというわけにもな……少し見ていくか」
「はい」
主人が店先へ近づく。
女中も後をついていく。
今度は主人が振り返る前に、女中が少しだけ足を速めた。
主人のすぐ後ろまで近づく。
主人が振り返る。
「お前も見ていいんだぞ」
「私は……その……」
「好きなものがあるなら言えばいい」
女中は並んだ菓子を見る。
色とりどりの小さな菓子。
しばらく眺めていたが、首を横に振った。
「いいえ、大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「そうか」
主人は少し考えた。
「では、これを8個詰めてもらえるかな」
主人が案の詰まった饅頭を一つ選ぶ。
「これは先日のお礼として、写真屋に渡すとしよう」
「お喜びになると思います」
「そうだな」
主人は笑った。
「よし、お前の分も一つ選べ」
「私の……?」
「そうだ」
「ですが……」
「今日付き合ってもらっている礼だ」
女中は困った顔をする。
「そんな……」
「選ばないなら、俺が選ぶぞ」
「……では」
女中は小さな柿色の菓子を一つ指差した。
「これを……」
「こんな小さな物でいいのか?」
「はい、これで十分でございます」
「分かった、うちの分もな」
主人は店の者に二つ包んでもらった。
主人は軽く挨拶をして店を出る。
女中はゆっくりとお辞儀をして、店を後にする。
主人は先ほどの包みの小さな一個を女中にを渡す。
「ほら」
「ありがとうございます」
女中はそれを両手で受け取った。
そして、その包みを見つめる。
ほんの少しだけ、頬が緩んだ。
主人はそれを見て口元を緩めると、
何も言わずに前を向いた。
そしてまた歩く。
しばらくして、主人がふと振り返る。
「写真屋は、この先だ。もうすぐだな」
「はい」
「楽しみか?」
女中は少し考える。
「あの……少し、緊張しております」
「俺もだ」
「旦那様も?」
「ああ」
女中が少しだけ顔を上げる。
「……意外でございます」
「そうか?」
「はい」
主人は笑う。
「写真なんて、そう何度も撮るものじゃないからな」
「……はい」
女中も小さく笑った。
二人はまた歩き始める。
主人が前を歩く。
女中がその後ろをついていく。
いつものように、少し離れて。
けれど、先ほどまで気になっていた三歩の距離が、
今は少しだけ違って感じられた。
主人が歩みを緩めれば、女中も自然についていける。
女中が少し歩幅を変えれば、主人も気づかないふりをして待っている。
三歩という距離は変わらない。
それでも、その三歩の間にあるものだけが、
少しずつ変わっていた。




