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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第96話 胸に残る痛み

 その日の朝、主人はいつもより早く身支度を整えていた。


 先日、写真屋から届いた話を聞いて以来、主人は一度きちんと店へ足を運んでおこうと考えていた。


 着物の襟元を整え、鏡の前で身なりを確かめる。


 今日は写真屋へ行くだけだ。


 それほど大げさな用事ではない。


 そう思いながらも、いつもより少しだけ落ち着かない。


 居間へ行くと、妻が出掛ける支度をしていた。


「あなた、今日は少し早いのね」


「ああ。写真屋へ行ってくる」


「そう」


 妻は帯を整えながら、主人を見る。


「私は一緒には行けませんからね」


「ああ。分かっている」


「今日は三島様の奥様にお呼ばれしておりますから」


「そうなのか」


「これも、商家の妻の務めですから」


「世話をかけるな」


「いいえ、いつものことですし、まあ、私も気晴らしになりますし」


 妻はそう言って微笑んだ。


 主人も頷く。


 妻がこうして外へ出ることは珍しいことではない。


 それでも今日は、一人で写真屋へ行くことになった。


「でも、一人で大丈夫?」


「おいおい、子供じゃないんだ。大丈夫だ」


 主人はそう言って立ち上がった。


 そして玄関へ向かう。


 草履を履き、出掛けようとしたところで、ふと足を止めた。


 何かを思い出したように振り返る。


 しばらくして、廊下から足音が戻ってきた。


「ああ……しまった」


 主人は書斎へ戻っていく。


 女中は不思議そうにその姿を見送った。


 やがて、書斎から主人の声が聞こえてくる。


「どこだ? えっと」


「どうしました?」


 女中が顔を向ける。


「財布を知らないか?」


「昨日、棚の上で見ましたわよ」


「ああ、そうか」


 主人は棚の上を探す。


 ほどなくして、主人が財布を手にして戻ってくる。


「やれやれ、財布を忘れていたよ」


「……はい、それはそれは」


 女中は思わず小さく笑った。


「では、行ってくるよ」


「お気をつけて」


 主人は少し忙しく玄関へ向かった。


 今度こそ、とばかりに草履を履く。


 しかし、玄関を出て間もなく、また足音が戻ってきた。


 妻は化粧台の鏡に映った主人の姿を見て、思わず振り返る。


「あら……どうされました?」


「写真屋から預かった書付を忘れた」


「……まあ」


 妻が思わず笑う。


「居間のテーブルの上」


「おお、あった、これだこれだ」


 主人は書付を手に取る。


 そして、少し照れたように妻を見る。


「今度こそ行ってくる」


「あなた、本当に一人で大丈夫なの?」


「大丈夫だ」


「二回戻ってきた人が言う台詞ではありませんね」


「……」


 主人は何も言い返せなかった。


 女中は雑巾を握りしめたまま、困ったように二人を見ている。


 妻はそんな女中へ視線を向けた。


「ちょっと、いい?」


「はい、奥様」


「この人と一緒に、行ってあげてもらえる?」


「あの……私が、ですか?」


「ええ」


 女中は主人を見る。


 主人も女中を見る。


「いや、なにもそこまでしてもらわなくてもいい」


 妻が嗜めるように口を挟んだ。


「あなたは二回も忘れ物をしたでしょう?」


「それは……」


「それに、私は今日は外せない用事があるの」


 妻は女中へ微笑む。


「お願いできるかしら?」


「……はい」


 女中は小さく頭を下げた。


「かしこまりました」


 主人は少しだけ気まずそうに咳払いをした。


「では……頼む」


「はい、旦那様」


 女中は雑巾を置く。


 それから手を洗い、手早く身なりを整えた。


 乱れていた髪を直し、襟元を確かめる。


 普段の仕事着のままだが、外へ出る以上、少しでもきちんとしておこうと思った。


 主人は玄関で待っていた。


 妻は二人の姿を見ながら、ふっと笑う。


「気をつけて行ってらっしゃい」


「行ってくる」


「行ってまいります、奥様」


「はい。帰りが遅くならないようにね」


「分かっている」


 妻に見送られ、二人は玄関を出た。


 門を抜ける。


 主人が先に歩き出す。


 女中はその後ろをついていく。


 屋敷の中なら、いつものことだった。


 主人が先を歩き、女中が少し後ろからついていく。


 けれど外へ出ると、少し違う。


 女中は自然と主人から三歩ほど離れて歩いていた。


 通りには、朝の用事を済ませる人々の姿がある。


 店を開ける者。


 荷物を運ぶ者。


 道の端を歩く人。


 その中を主人と女中が歩いていく。


 女中は周囲の視線を意識していた。


 誰もこちらをじっと見ているわけではない。


 それでも、すれ違う人が一瞬こちらへ目を向けることがある。


 主人が振り返る。


「……そんなに離れなくてもいいだろう」


「いえ……」


 女中は少し困ったように答える。


「外ですので」


「外だと何か違うのか?」


「……人目がございますから」


 主人は一瞬、黙った。


 自分たちの周囲を軽く見回す。


 確かに、何人かがこちらへ視線を向けている。


 それも一瞬のことだった。


 しかし、主人にも女中の言う意味が分からないわけではなかった。


 主人と女中。


 男と女。


 二人で歩いていれば、事情を知らない者からすれば、何かと思われることもある。


 主人はそれ以上何も言わず、前を向いた。


「そうか、そうだな」


「はい」


 それだけだった。


 二人は再び歩き始める。


 主人の歩幅は大きい。


 女中の歩幅はそれほど大きくない。


 普段なら屋敷の廊下を歩く程度なので気にならない。


 しかし、外の道では、その違いがはっきりする。


 主人が二歩進めば、女中は少し早足になる。


 主人が歩みを緩めれば、女中も合わせる。


 それでも距離は変わらない。


 三歩。


 きっちり三歩。


 主人が少し速度を落とす。


 すると女中も、それに合わせて歩く。


 また主人が振り返る。


「……本当に三歩なんだな」


「申し訳ございません」


「いや、謝らなくていい」


 主人は小さく笑った。


「お前らしいと思っただけだ」


 女中はその言葉に、少しだけ目を伏せる。


「……そうでしょうか」


「ああ」


 それ以上、主人は何も言わなかった。


 ただ、いつもより少しだけ歩く速度を落としていた。


 女中は、そのことに気づいていた。


 主人が自分に合わせてくれている。


 それだけのことなのに、胸の奥がほんの少し温かくなる。


 そして胸の奥で、ほんの少しだけ嬉しくなった。


 それでも。


 三歩の距離だけは、最後まで崩さなかった。

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