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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第95話 胸の痛み

 それから、幾日か経った。


朝の仕事を終えた女中は、廊下を拭き終えた雑巾を桶の水ですすいでいた。

固く絞ると、水が細く滴り落ちる。

その水滴を見つめながら、女中はふと手を止めた。


主人のことが、まだ気になっていた。

身体に悪いところはない。

妻もそう言っていた。


主人自身も、特別悪いところはないと言っていた。

それでも、あの日の言葉だけは胸に残っていた。


「昔のようにはいかない」


その言葉を、女中は何度も思い返していた。

自分が気にしすぎているだけなのかもしれない。


そう思う一方で、もし本当に何かあったらと思うと、気持ちを落ち着けることができなかった。


雑巾を桶から取り出し、もう一度だけ絞る。

今度は、余計な水がほとんど出なかった。

女中は立ち上がり、桶を抱えた。


その日の昼過ぎ。

主人は縁側近くの座敷で新聞を読んでいた。

障子の向こうから差し込む光が、畳の上に淡く広がっている。


女中は茶を盆に載せて運んできた。

主人の前に盆を置き、湯呑みを取り上げる。


「お茶をお持ちしました」


「ああ、ありがとう」


主人は新聞を少し畳んだ。

女中が湯呑みを置く。

立ち去ろうとしたところで、主人が顔を上げた。


「そういえば」


「はい?」


「まだ俺のことを心配しているのかい」


女中の足が止まった。

振り返ると、主人は少し笑っている。

からかっているようにも見えた。


女中は目を伏せた。


「はい」


主人は新聞を膝の上へ置いた。


「おやおや、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」


「はい……」


「身体の具合は、特に悪くない」


「はい」


それでも女中は、その場を離れなかった。


主人はそんな女中を見上げた。

何か言いたそうな顔をしている。


「どうした?」


女中は少し迷った。

言うべきではない。

そう思った。

けれど、ここまで気にしていることを隠しているのも、かえって不自然な気がした。


「お身体の加減は……いかがですか?」


主人は少しだけ目を細めた。


「おやおや、まだ心配しているのかい」


「はい」


即座に返ってきた答えに、主人は思わず笑った。


「そうか」


そして、湯呑みに手を伸ばした。

茶を一口飲む。

そのまま何気なく考えるようにして、主人は口を開いた。


「そうだな、ちょっと最近胸が……」


女中の顔から、さっと血の気が引いた。


「それは大変なことでは……」


身体がわずかに前へ出る。

主人はその顔を見て、すぐに笑った。


「ということが、お前にもないか?」


「え……」


女中は言葉を失った。

主人は笑いながら続けた。


「冗談だ」


「まだ若いんだ」


少し間を置いて、穏やかに言う。


「まあ、これから先を楽しんで生きるんだ」


女中は主人の顔を見つめていた。

冗談だった。

そう分かっても、胸の奥に残った緊張はすぐにはほどけなかった。


「はい……」


ようやくそう答えた。

主人は新聞を取り上げた。


「では、書斎に」


「あの……」


主人の手が止まった。


「なんだ?」


女中は自分の胸元へ手を添えた。

ほんの少し指先に力が入る。


「胸がたまに痛みます、私も……」


主人は新聞を膝へ戻した。

今度は笑わなかった。


「そうか……」


女中は自分でも、どうしてそんなことを口にしたのか分からなかった。

言ってしまったあとになって、急に恥ずかしくなった。


主人は少し考えるように視線を落とした。


「働きすぎだろう」


「そうでしょうか……」


「ああ」


主人は女中の顔を見た。


「休める時には休んだ方がいい」


「はい」


それで終わるはずだった。

けれど女中は、その場から動けなかった。

胸の内側にあるものを、どう説明していいのか分からない。


身体の痛みなのか。

それとも、別のものなのか。

自分自身にも分からなかった。


主人が少し首を傾げた。


「どうした?」

女中は目を伏せた。

そして、ためらいながら言った。


「今も、旦那様を前にすると……」


そこまで言って、女中は口を閉じた。

主人も黙った。


女中の頬が、少しずつ赤くなっていく。

何を言っているのだろう。

そんな思いが胸に浮かんだ。

主人は女中の様子を見ながら、少し考えた。


「ん?」


それから、冗談めかして笑った。


「そうか、俺が原因かもな」


女中はすぐに顔を上げた。


「いえ、そのような事は……」


声が思ったより強くなった。

自分でも驚いて、女中はすぐに目を伏せた。

主人も、それ以上は言わなかった。


「いや、いいんだ」


それだけ言って、主人は湯呑みを手に取った。

女中も黙って立っていた。

主人は茶を飲みながら、さっきの自分の言葉を思い返していた。

胸が痛むという話を、軽く受け取ってしまった。


からかったつもりだった。

けれど、女中はあんな顔をした。

少し言いすぎたのかもしれない。

主人はそう思った。


それ以上、問いかけることはしなかった。


「必要なら、お茶は妻に届けさせよう」


女中はすぐに顔を上げた。


「それは、私が」


「そうか」


「はい、私にやらせてください」


主人は女中を見た。

その表情には、いつもの真面目さが戻っている。


「分かった」


女中は一礼した。


「ありがとうございます」


盆を取り上げる。


主人は再び新聞へ目を戻した。

女中は静かに襖を閉めた。

廊下へ出てからも、しばらく歩き出せなかった。


胸へ手を当てる。

さっきと同じ場所だった。

痛いような気もする。

けれど、痛くないような気もする。

主人の前に立った時だけ、そこが強く意識される。


それをどう受け取ればいいのか、女中には分からなかった。


病気なのだろうか。

疲れているだけなのだろうか。


それとも、自分の心がそうさせているのだろうか。


考えても答えは出なかった。

女中は小さく息を吐き、盆を持ち直した。


台所へ戻ると、妻が夕餉の支度をしていた。

包丁がまな板を叩く音が、一定の間隔で響いている。

女中はその音を聞きながら、いつもの場所へ盆を置いた。


妻は顔を上げた。


「どうしたの?」


「いえ……」


女中は一瞬、今日のことを話そうとした。

けれど、口を閉じた。


「何でもありません」


妻は女中を見た。

それ以上は何も聞かなかった。


「そう」


ただそれだけだった。

妻はまた包丁を動かし始めた。

女中も、自分の仕事へ戻った。


それからも妻は、何一つ生活を変えなかった。

主人に対しても、いつもと同じだった。

茶を出し、食事を整え、必要なことを話す。


主人もまた、いつものように妻へ声をかける。

そこには、今日の出来事を知っている者だけが感じるような、ほんのわずかな間があるようにも見えた。


けれど妻は、その間をわざわざ拾い上げようとはしなかった。


主人を信じている。

女中を信じている。

だからこそ、いつも通りにする。

それが妻のやり方だった。


 ──夕方。

主人が書斎から出てくると、妻が廊下にいた。


「お茶、もう一杯いかが?」


「ああ、頼む」


妻は何でもないように頷いた。


主人も何でもないように歩いていく。

女中は少し離れたところから、その二人を見ていた。


妻は主人の顔を見ている。

けれど、何も尋ねない。

主人も何も言わない。

ただ、いつもの夫婦のように歩いている。


その姿を見ているうちに、女中は少しだけ安心した。


胸の痛みについて、答えはまだ分からない。

自分が何を感じているのかも、はっきりとは言えない。

主人も、きっと同じなのだろう。


余計なことを言ってしまったと思いながら、それを言葉にはしない。


妻もまた、何かを察しているのかもしれない。

それでも何も言わない。

ただ普段のままにしている。


女中はそんな二人を見ながら、静かに頭を下げた。

そして、いつものように仕事へ戻った。


その胸の奥に残った小さな痛みだけを、誰にも見せないまま、その日は過ぎていった。

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