第94話 心配するという事
──翌日の午後。
昼下がりの光が障子を通して細く畳へ落ちていた。
女中は盆を両手で支えながら、廊下をゆっくり歩いていた。
盆の上では湯呑みの中の茶が、歩くたびにかすかに揺れている。
書斎の前まで来ると、女中は一度足を止めた。
中から紙をめくる音が聞こえていた。
いつもの音だった。
それなのに、昨日の主人の言葉が胸の奥に残っているせいか、その音まで少し違って聞こえた。
女中は静かに襖を開けた。
主人は机に向かい、写真を手にしていた。
一枚ずつ、光に透かすようにして眺めている。
女中が入ってきたことに気づくと、主人は写真を机へ置いた。
「ありがとう」
「はい」
女中は盆を脇へ置き、湯呑みを主人の右手側へ寄せた。
置き終えてから、ほんの少しだけ主人の顔を見た。
血色はいつもと変わらない。
目にも疲れた様子はない。
それでも、昨日の言葉が頭を離れなかった。
「旦那様」
「ん?」
主人が顔を上げる。
女中は言葉を続けようとして、指先を膝の上でそっと重ねた。
「昨日のお話ですが……」
「昨日?」
「その……お身体のことです」
主人は一瞬、何のことか分からないように眉を上げた。
やがて思い出したらしく、口元に苦笑が浮かんだ。
「ああ、あれか」
更に口角が上がる。
「心配するほどのことじゃない」
「本当に……そうなのでしょうか」
「本当だよ」
女中は返事を聞きながら、主人の顔から目を離せなかった。
「どこか、お悪いところがあるのでは……」
「ないよ」
短い返事だった。
主人は湯呑みに手を伸ばし、茶を一口飲んだ。
その手つきも、いつもと変わらない。
「昔のようにはいかんがな」
「昔のようには……」
女中の声が小さくなる。
「ああ」
主人は湯呑みを机へ戻した。
「歳を取れば、それなりに疲れることもある」
少し間を置いて、主人は笑った。
「だが、特段悪いところがあるわけじゃない」
「はい……」
女中は頷いた。
それでも胸の奥に残ったものは消えなかった。
昔のようにはいかない。
その言葉だけが、耳の奥に残っていた。
主人が元気でいることを知りたい。
ただ、それだけだった。
「では……本当に、何もないのですね」
「何もない」
「そうですか……」
主人はそれ以上答えず、机の上の写真へ目を戻した。
女中は小さく頭を下げた。
襖を閉める前に、もう一度だけ主人を見た。
主人は写真を眺めていた。
いつもの横顔だった。
それを確かめてから、女中は襖を閉めた。
廊下へ出ると、手にしていた盆を持ち直した。
さっきまで何とも思わなかった盆の重さが、妙に腕へ伝わってくる。
女中は歩きながら、胸元へそっと手を添えた。
どうして、こんなに気になるのだろう。
旦那様は何もないと言った。
奥様も、きっと同じことを言うだろう。
それなのに、女中の中には小さな疑いが残っていた。
(本当は何かあるのではないか)
自分には言っていないだけなのではないか。
そんな考えが浮かぶたび、女中は首を小さく振った。
考えすぎだと思おうとした。
けれども、そう思えば思うほど、昨日の言葉が鮮明になった。
その日の夕方。
女中は台所で妻と並んでいた。
妻は大根をまな板へ置き、包丁をゆっくり下ろしていた。
一定の間隔で、乾いた音が続いている。
女中は何度か口を開きかけた。
そのたびに、言葉を飲み込んだ。
やがて、妻が手を止めた。
「どうしたの?」
女中は顔を上げた。
「奥様」
「なに?」
「旦那様のお身体ですが……」
妻は包丁を置き、女中を見る。
「身体?」
「どこか、お悪いところはないのでしょうか」
妻はしばらく女中の顔を見ていた。
それから、布巾で手を拭いた。
「特に聞いていないわよ」
「本当ですか?」
「ええ」
女中は小さく息を吐いた。
けれど、すぐにまた尋ねた。
「でも……昨日、あのようなことをおっしゃっていましたから」
「昨日?」
「遺影がどうとか……」
妻は思い出したように目を細めた。
「ああ」
それから、ほんの少し肩を落とした。
「あれは、あの人の悪い癖よ」
「悪い癖……ですか」
「何でも大げさに言うの」
妻はそう言って、また包丁を手に取った。
「病気じゃないわ」
「そうですか……」
包丁がまな板へ触れる。
また、一定の音が続き始めた。
女中はその音を聞きながら、妻の横顔を見ていた。
妻はいつも通りだった。
慌ててもいない。
心配そうな顔もしていない。
その様子が、女中には少し不思議だった。
「奥様は……心配ではないのですか?」
包丁の音が止まった。
妻は大根を切ったままの姿勢で、少しだけ女中を見た。
「もちろん心配よ」
「では……」
「長く一緒にいるもの」
妻は包丁を置いた。
「少しくらい調子が悪ければ分かるわ」
「……はい」
「今のところ、特別なことはないわよ」
妻はそれだけ言うと、切った大根を鍋へ移した。
女中も、それ以上は聞かなかった。
そのつもりだった。
そして、数日後。
主人が廊下を歩いている姿を見かけた時、女中はまた足を止めた。
主人は書斎から出てきたところだった。
一度だけ肩を回し、それから何事もなかったように歩いていく。
その仕草が、女中には疲れているように見えた。
夕方、台所で妻を見つけると、また口にしてしまった。
「奥様」
「なに?」
「旦那様ですが……」
妻は振り返った。
「また?」
女中は黙った。
「どうしたの?」
「昨日、少し疲れていらっしゃるように見えま
したので」
「いつものことでしょう」
「そう……でしょうか」
「ええ」
妻は女中の顔を見た。
女中は視線を落とした。
それでも、もう一度だけ尋ねた。
「本当に、何もないのですね」
妻は少し黙った。
そして、ふっと口元を緩めた。
「ないわよ」
「……そうですか」
「あなた、本当に気にしているのね」
「はい」
妻は少し首を傾けた。
「そんなにあの人に病気になって欲しいの?」
「え……」
女中は顔を上げた。
妻は笑っていた。
ほんの少し、からかうような笑みだった。
その時になって初めて、女中は自分が何度も同じことを尋ねていることに気づいた。
「いえ……そんな……」
「なら、あまり何度も聞かないことね」
「申し訳ありません……」
「謝らなくてもいいわ」
妻はそう言って、鍋の蓋を少し持ち上げた。
白い湯気が立ちのぼり、二人の間を一瞬だけ隠した。
「ただね」
妻は蓋を戻し、女中を見る。
「心配するのはいいけれど、あの人が元気でいるうちは、元気でいるものとして接してあげなさい」
「……はい」
「病人でもない人を、病人のように扱ったら、あの人が気を悪くするでしょう」
「はい……」
女中は俯いた。
自分は主人を心配していた。
けれど、何度も尋ねるうちに、心配することそのものが目的になっていたのかもしれない。
主人に何かあってほしいわけではない。
むしろ、その反対だった。
何もないことを確かめたかった。
確かめても、また不安になった。
だから、妻に尋ねた。
それが、妻にはどう見えていたのだろう。
女中は恥ずかしくなり、指先を握り合わせた。
妻はそんな女中を見て、少しだけ声を和らげた。
「大丈夫よ」
女中が顔を上げる。
「あの人は、まだそう簡単には倒れないわ」
「……はい」
女中は小さく笑った。
妻の言葉は、主人自身の言葉よりも不思議なほど胸へ落ちた。
長く一緒に暮らしてきた者にしか分からないものが、きっとあるのだろう。
その夜。
女中はいつものように茶を淹れた。
湯を注ぐと、茶の香りが静かに立ちのぼった。
盆を持って廊下を歩く。
書斎の前で一度足を止めた。
それから襖を開けた。
主人は机に向かっていた。
女中が入ると、主人は顔を上げた。
「おや、今日は随分と静かだな」
「そうでしょうか」
「ああ」
女中は盆を置いた。
湯呑みを主人の前へ置く。
主人がそれを手に取った。
「どうした?」
「いえ……」
主人は女中の顔を見る。
女中は一度目を伏せ、それから主人を見た。
「旦那様」
「なんだ?」
「お身体……どうか、ご無理はなさらないでください」
主人は少し黙った。
それから、穏やかに笑った。
「ああ、わかったよ」
「はい」
主人は湯呑みへ目を落とした。
「心配してくれているんだな」
女中は答える前に、ほんの少しだけ唇を噛んだ。
「……はい」
「ありがとう」
女中は深く頭を下げた。
その一言が、胸の奥へ静かに落ちていった。
不安がすべて消えたわけではなかった。
それでも、今はそれでよかった。
「昔のようにはいかない」
主人自身がそう言った言葉だけは、まだ胸に残っている。
けれども、特段悪いところがないのなら、それでいい。
今日も主人はここにいる。
いつもの机に向かい、いつものように茶を飲んでいる。
その姿を見ているだけで、女中の胸にあったものが少しずつほどけていった。
女中は盆を手に取った。
襖を閉める前に、もう一度だけ主人を振り返った。
主人は写真を手にしていた。
その横顔を確かめると、女中は静かに襖を閉めた。




