第93話 遺される時間
写真が出来上がったのは、それから数日後のことだった。
写真館の男が届けてきた包みを、主人が受け取る。
薄い紙に包まれた写真を、妻と女中も静かに覗き込んでいた。
「これが、この前の写真か」
主人が一枚ずつ取り出していく。
庭の写真。
玄関の写真。
縁側から見た庭。
そして、妻と主人が並んで写った写真。
「まあ」
妻が写真を手に取る。
「綺麗に撮れておりますね」
女中も少し離れたところから覗き込んでいた。
自分が写っている写真を見ると、どこか落ち着かない。
写真の中の自分は、普段鏡で見る自分とは違っていた。
そこにいるのは、毎日この家で働いている女中だった。
けれど同時に、今という時間の中にいる一人の人間でもあった。
「これもいいな」
主人が別の写真を手にする。
そこには、庭を背景にした女中の姿が写っていた。
「まあ、随分と真面目な顔をしているわ」
妻が笑う。
「そうですか」
女中は少し恥ずかしそうに俯いた。
「もう少し笑ってもよかったんじゃないか」
主人が言う。
「そのようなことを言われましても……」
女中は困ったように笑った。
「写真を撮ると言われますと、どうしても緊張してしまいます」
「そういうものか」
主人は写真を眺めながら答えた。
「俺も、もっと緊張していたような気がするがな」
「あなたは、そうでもなかったでしょう」
妻が言う。
「そうか?」
「ええ」
「覚えていないな」
「都合の悪いことは、すぐ忘れるんですから」
妻が笑う。
主人も笑った。
女中もつられて微笑んだ。
その穏やかな時間の中で、主人はもう一度写真を見た。
そして、ふと手を止める。
「……あれ?」
「どうしました?」
妻が尋ねる。
主人は何枚かの写真を並べてみた。
妻と一緒に写っているもの。
女中と一緒に写っているもの。
屋敷だけを写したもの。
庭を写したもの。
それらを一枚ずつ確かめる。
「俺、一人で写っていないな」
妻が写真を覗き込む。
「そうね」
「そうか」
主人は少し笑った。
「俺一人で撮っていないんだな」
女中はその言葉を聞き、主人を見る。
主人は別に気にした様子もなく、写真を手の中で揃えていた。
「まあ、俺の存在はそんなもんだ」
「そんな……」
女中の口から、思わず声が漏れた。
主人が女中を見る。
「ん?」
「いえ……」
女中は俯いた。
主人にとっては、何気ない言葉なのだろう。
けれど、女中には、その言葉が少し寂しく聞こえた。
この人がいなくなれば、この家はどうなるのだろう。
そんな考えが、一瞬だけ胸をよぎった。
「別に気にすることでもないさ」
主人は笑う。
「一人写真か。遺影代わりというのも、縁起が悪いか」
その言葉を聞いた瞬間、妻の表情が変わった。
女中も顔を上げる。
「それなら、なくてもいいのかもな」
主人は冗談めかして写真を眺める。
「まあ、俺一人で改めて撮ってこよう」
妻が静かに主人を見る。
「あなた」
「ん?」
「その例えはいくらなんでもどうかと思います」
妻の声は穏やかだった。
けれど、その中にはたしなめる響きがあった。
「少し不謹慎では?」
主人は一瞬黙った。
そして、自分の言葉を思い返す。
「……そうだな」
主人は写真を机の上へ置いた。
「品は守らねばならん」
妻は何も言わずに主人を見ている。
主人は、少し遠くを見るような目をした。
「堕ちていくのは容易く、這い上がるのはとてもではないからな」
女中は、その言葉を静かに聞いていた。
いつもの主人の軽い調子とは違っていた。
冗談を言って笑わせる時とは、少し違う。
主人自身も、自分の言葉を戒めるように話している。
妻が小さく息を吐いた。
「そういうところは、昔から変わりませんね」
「どういうところだ?」
「自分で余計なことを言って、自分で考え込むところです」
「そうだったか」
「そうですよ」
妻は呆れたように笑う。
主人も苦笑する。
「それなら、気をつけるとしよう」
「ええ」
妻が頷く。
その横で、女中は黙って写真を見ていた。
旦那様が一人で写っていない。
ただ、それだけのことだった。
けれど、女中にとっては、それが妙に心に残った。
主人は、今、この家にいる。
毎日、書斎にいる。
朝になれば起きて、仕事をし、夕方になれば家へ戻る。
そんな当たり前の日々が、ずっと続くような気がしていた。
だから、写真に主人一人の姿がないことなど、たいしたことではないと思っていた。
けれど、旦那様自身がそれを口にすると、不思議だった。
写真というものは、今を残すものだ。
残すからこそ、残らなかったものにも目が向く。
女中は、手元の写真を見る。
そこには主人がいる。
妻の隣にいる主人。
自分の隣にいる主人。
けれど、一人の主人はいない。
それが、なぜか少し寂しかった。
「旦那様」
女中が小さく声を掛ける。
「なんだ?」
「……本当に、お一人で撮られるのですか?」
主人は女中を見る。
「そうだな」
少し考えてから、笑う。
「一枚くらい、自分だけのものがあってもいいだろう」
「……はい」
女中は頷いた。
それを聞いて、少し安心したような気持ちになる。
妻も写真を手に取りながら言った。
「そうしてくださいな」
「分かった」
主人は笑う。
「今度はちゃんと、俺一人で撮ってもらおう」
「今度は変なことを言わないでくださいね」
妻が念を押す。
「遺影だなんて」
「分かったよ」
主人は苦笑した。
女中も、ようやく小さく笑った。
先ほどまで胸の奥にあった不安が、少しだけほどけていく。
旦那様は元気でいる。
今もこうして笑っている。
それだけでよかった。
女中は写真を一枚、そっと手に取った。
そこには、主人と自分が並んでいる。
写真の中の二人は、何も語らない。
ただ、同じ場所に立っている。
それだけだった。
けれども、その一枚を見つめる女中の胸には、言葉にできないものが残っていた。
いつか、この写真を見る日が来る。
その時も、旦那様は隣にいるのだろうか。
そんな考えが浮かび、女中はすぐに打ち消した。
今は、そんなことを考える必要はない。
旦那様はここにいる。
奥様もいる。
そして、自分もこの家にいる。
(そう、それでいい)
女中はそう思いながら、写真を大切そうに重ねた。
主人はそんな女中の様子を見て、少しだけ笑った。
「それ、そんなに大事か?」
「……はい」
女中は答えた。
「とても」
主人は何も言わなかった。
妻も、何も言わなかった。
ただ、三人の間に静かな時間が流れていた。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。
写真の中に閉じ込められた時間だけが、その光の中でいつまでも変わらずに残っていた。




