第92話 二人だけの秘密
──その日の夕方。
女中は、いつものように廊下を掃除していた。
雑巾を固く絞り、板張りを一枚ずつ拭いていく。
夕暮れが近づくにつれ、障子から差し込む光も、少しずつ色を変えていた。
けれど、女中の心は落ち着かなかった。
昨日のことが、何度も頭に浮かんでくる。
写真館の男。
大きなカメラ。
主人の隣に立った自分。
そして――
「まるで、恋仲みたいな雰囲気ですね」
あの言葉。
女中は、雑巾を持つ手を止めた。
思い出すだけで、胸の奥がわずかに熱くなる。
もちろん、冗談だった。
写真館の男も、悪気があったわけではない。
妻も、その場では何も言わなかった。
主人も、笑って受け流していた。
それなのに、どうして自分だけが、
こんなにも気にしてしまうのだろう。
女中は再び雑巾を動かした。
昨日、主人の隣に立った。
ただ、それだけのことだった。
普段だって、主人のそばへ行くことはある。
お茶を運ぶ。
湯呑みを置く。
呼ばれれば書斎へ入る。
それは女中として当たり前の日常だった。
けれど、昨日は違った。
写真に残すために、主人と並んだ。
そのことが、妙に心へ引っ掛かっていた。
「写真」
そこには、今の自分が残る。
何年か経って見れば、この頃のことを思い出せるだろう。
この家で働いていたこと。
毎朝、庭を掃除していたこと。
主人から声を掛けられたこと。
妻と一緒に食事の支度をしたこと。
そんな日々まで、写真を見ることで思い出せるような気がした。
女中は、そこでふと考えた。
私は、本当に自分の写真だけが欲しいのだろうか。
胸の奥に浮かんだ答えに、女中は戸惑った。
主人と一緒に写った写真。
「それが欲しい」
そう思ってしまった。
けれども、それを認めることが怖かった。
自分は女中である。
主人には妻がいる。
その妻も、自分を大切にしてくれている。
そんなことを考えれば、望んではいけないような気がした。
それでも、昨日の写真を思い出すと、どうしても心が離れなかった。
夕餉の支度を終えたあと。
女中は主人の書斎へ茶を運んだ。
「失礼いたします」
「ああ」
主人は机に向かっていた。
女中は湯呑みを置く。
「お茶でございます」
「ありがとう」
いつものやり取り。
いつもの時間。
それなのに、今日はなかなか部屋を出ることができなかった。
主人が顔を上げる。
「どうした?」
「……いえ」
「何かあるのか?」
女中は少し迷った。
言ってしまえば、もう戻れないような気がした。
それでも、ここまで来たのだからと思い、口を開いた。
「昨日の……写真のことなのですが」
「ああ」
主人も、昨日の撮影を思い出したようだった。
「写真がどうかしたのか?」
「写真は……焼き増しというものが、できるので
しょうか」
「ああ。できるだろう」
主人は何でもないことのように答えた。
「ん?欲しいのか?」
「……はい」
女中は小さく頷いた。
「一枚、いただけたらと……」
「それくらいなら、いいだろう」
主人はそう言ってから、少し考えた。
「お前一人で写っている写真か?」
女中は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……それも、でございます」
「それも?」
主人が首を傾げる。
女中は膝の上で指を組んだ。
(ここで言わなければならない)
そう思うほど、声が出なくなる。
「……旦那様と、二人で写っている写真も……」
静かな書斎に、その言葉だけが残った。
主人は、すぐには答えなかった。
女中は不安になり、そっと顔を上げる。
主人は、写真のことを考えているようだった。
「そうか」
「……はい」
「欲しいんだな」
「……はい」
今度は、少しだけはっきり答えた。
主人は困ったように笑った。
「分かった。写真館に相談しておこう」
「ありがとうございます」
女中の胸に、ほっとしたような気持ちが広がった。
自分でも、どうしてこんなに嬉しいのか分からない。
ただ、その一枚が欲しかった。
主人と並んでいる写真が。
今の自分と、今の主人が、一緒に残っている写真が。
「ただ……」
主人が、少し声を落とした。
「これは、妻には内緒にしておこう」
「……え?」
女中は思わず顔を上げた。
主人は苦笑する。
「二人で写った写真を焼き増ししてくれなんて言ったら、また余計なことを考えさせるかもしれん」
女中は黙った。
妻に内緒。
その言葉が、胸に引っ掛かった。
奥様は昨日、自分と主人が並んで写ることを許してくれた。
何も言わずに見ていてくれた。
そんな奥様に、秘密を作る。
それが良いことなのか、女中には分からなかった。
けれども、主人と自分だけが知っていること。
そう考えると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「……旦那様が、よろしいのであれば」
女中は静かに答えた。
主人は少し考え、
「そうだな」
と頷いた。
「全て俺のせいということにしよう」
「……旦那様の?」
「ああ」
主人は笑った。
「妻に見つかったら、間違えて焼き増ししたと言えばいい」
「間違えて……でございますか?」
「そうだ。俺が間違えて頼んだことにすればいい」
女中は思わず、ほんの少し笑った。
「そんなこと……できるのでしょうか」
「まあ、何とかなるさ」
主人は軽く答えた。
「それくらいなら、俺が引き受ける」
その言葉を聞いた瞬間、女中の胸が締め付けられた。
以前、大皿を割ったときもそうだった。
自分を庇い、自分の代わりに責任を負ってくれた。
またあのときと同じ。
主人は、また自分の前に立とうとしている。
その優しさが嬉しい。
けれども、その優しさに甘えてはいけないとも思う。
それでも、やっぱり嬉しかった。
「……ありがとうございます」
女中が頭を下げる。
主人は少し笑った。
「まあ、たいしたことじゃない」
そして、ふと思い出したように言った。
「これは、二人だけの秘密だな」
女中は顔を上げた。
「……二人だけの……」
「ああ」
主人は頷く。
「二人だけの秘密だ」
その言葉が、女中の胸の中へ静かに落ちていった。
「秘密」
ただ写真を一枚、焼き増すだけ、それだけのことなのに、
女中にはそれがとても大切なもののように思えた。
奥様に申し訳ないという気持ちもある。
こんなことをしていいのだろうかという迷いもある。
けれど同時に、主人と自分だけが知っていることがある。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
「それでは、お茶を下げてまいります」
「ああ」
女中は湯呑みを手に取った。
襖を開け、廊下へ出る。
いつもの廊下だった。
いつもの屋敷。
いつもの仕事。
何も変わっていない。
それなのに、女中の胸の中だけが、昨日までとは少し違っていた。
「二人だけの秘密」
その言葉を、何度も心の中で繰り返す。
やがて女中は、誰にも見られないように小さく微笑んだ。
写真はまだ手元にない。
でも、その写真が届く日を待つ時間すら、今は大切に思えた。
夕暮れの光が、長い廊下を薄く染めている。
女中はその光の中を、いつものように静かに歩いていった。




