第91話 並んだ二人
女中の一人撮りが終わると、写真館の男はカメラの位置を少し変えた。
妻が立ち上がり、女中のところへ歩いていく。
「次は、あなたと主人で撮ってもらいましょう」
「え……」
女中は思わず主人を見る。
主人も少し意外そうな顔をしていた。
妻は女中の肩にそっと手を添えた。
「ほら、こちらへ」
女中が立ち上がろうとすると、妻は優しく制した。
「あなたは良いから、座ってなさい」
「でも女中なので……」
「良いのよ」
妻は穏やかに笑った。
「そのままでいいの」
女中は戸惑いながら、もう一度椅子へ腰を下ろした。
主人がその様子を見ていた。
そして、ふと思いついたように言った。
「なら、二人で立って並べば良い」
妻が主人を見る。
「二人で立つ?」
「ああ」
主人は女中の隣へ歩いていく。
「その方が自然だろう」
妻は少し考えた。
それから小さく頷いた。
「では、それで」
女中は主人が隣へ来るのを見て、わずかに身体を固くした。
さっきまで一人で撮っていた時とは違う緊張だった。
主人はすぐ隣に立っている。
いつもなら、それほど意識する距離ではない。
同じ家で暮らしているのだから、顔を合わせることも、言葉を交わすことも珍しくない。
けれど、今は違った。
写真に残すために、二人で並んでいる。
そのことを意識すると、急に距離が近く感じられた。
妻も二人を見ていた。
主人と女中。
並んで立っているだけなのに、そこには言葉にしにくい空気があった。
二人の間にあるものを、妻は以前から薄々感じていた。
それが今、こうして目の前に形になっている。
でも、妻は何も言わなかった。
ただ静かに二人を見つめていた。
写真館の男も、何かを感じ取ったようだった。
カメラを構えながら、一度二人を見て、それから妻を見る。
「奥様も……それで、よろしいのでしょうか……」
歯切れの悪い問いだった。
妻は写真館の男を見た。
そして、ほんの少しだけ間を置いた。
「はい」
穏やかな声だった。
「宜しゅうございます」
その言葉には迷いがなかった。
妻の眼差しには、わずかな覚悟があった。
二人を並べることが何を意味するのか。
妻自身にも、分からないわけではなかった。
それでも、ここで隠すようなことはしたくなかった。
主人と女中を信じている。
そして、自分自身も、この家を守っていかなければならない。
そのすべてを胸の内に抱えたまま、妻は静かに二人を見ていた。
「では、お願いします」
写真館の男がカメラを構えた。
主人と女中は並んで立つ。
「もう少し、近づいてください」
女中の身体がわずかに強張った。
主人も一瞬だけ動きを止めた。
そして写真館の男の指示に従って、二人は少しずつ距離を縮めた。
肩と肩が触れそうなところまで近づく。
ほんのわずかな距離だった。
それだけのことなのに、女中にはひどく近く感じられた。
主人の気配が、すぐ隣にある。
衣服の擦れる小さな音さえ聞こえそうだった。
主人もまた、その距離を意識していた。
普段なら何でもないことなのに、今は写真館の男がこちらを見ている。
妻も見ている。
そう思うと、自然にしていることさえ難しくなった。
女中はとうとう耐えきれず、視線を下へ落とした。
「はい、女中さん!」
写真館の男が声をかける。
「はい……」
「顔を上げて、こちらを向いてください」
女中はすぐには動けなかった。
胸の鼓動が、自分でも分かるほど大きくなっている。
それでも、ゆっくりと顔を上げた。
隣には旦那様がいる。
少し離れたところには奥様がいる。
女中は一度だけ妻を見るような気持ちで前を向いた。
そして、ゆっくりとカメラへ顔を向けた。
その表情には、まだわずかな戸惑いが残っていた。
でも後ろめたいようなものではなかった。
写真館の男は、その顔を静かに見つめた。
「……まるで、恋仲みたいな雰囲気ですね」
冗談のつもりだった。
場を少し和ませようとしただけだった。
けれど、その言葉が落ちた途端、部屋の空気が変わった。
女中の顔が強張る。
主人も、すぐには何も言わなかった。
写真館の男は、そこで初めて自分の言葉の重さに気づいた。
妻へ視線を向ける。
「……奥様」
妻は何も言わず、写真館の男を見ていた。
怒っているようには見えなかった。
声を荒らげてもいない。
ただ、その眼差しだけが静かだった。
「今の言葉は、どういうおつもりでしょう」
穏やかな声だった。
だからこそ、写真館の男は返す言葉を失った。
「いえ……その……」
男の口元がわずかに引きつった。
冗談だった、と言えば済む。
そう思ったものの、その一言さえ口に出すのがためらわれた。
妻の顔を見れば見るほど、
自分が余計なところへ踏み込んだことが分かってくる。
「いや、あの……」
写真館の男は一度口を開きかけた。
しかし、妻の静かな眼差しに気圧されるように、
すぐに言葉を飲み込んだ。
「……申し訳ありません」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
妻は何も言わずに見つめている。
写真館の男は慌てて頭を下げた。
「余計なことを申し上げました」
「冗談だったのでしょう?」
妻の声は穏やかだった。
「は、はい……もちろんです」
男は何度も頷いた。
「その……場を和ませようとしただけでして」
言い訳をしながら、自分でも苦しいと思った。
もう余計なことは言うまい。
そう心に決めた。
「ええ」
妻は短く答えた。
「でしたら、それで結構です」
その言葉に、写真館の男はほっと息をついた。
「ありがとうございます」
そして、すぐに口を閉じた。
何かもう一言付け加えようとしたが、やめた。
今は黙っている方がいい。
そう判断したのである。
カメラを持つ手にも、先ほどまでとは違う慎重さがあった。
女中はまだ俯いている。
主人も黙っていた。
妻は二人の姿を見て、それから優しく言った。
「ほうら、顔を上げて」
「……はい」
女中はゆっくりと顔を上げた。
まだ頬には赤みが残っている。
けれど、妻の眼差しには責める色はなかった。
ただ、いつものように静かに見守っている。
女中はそれを感じ取り、ほんの少しだけ息を吐いた。
写真館の男は、もう何も言わなかった。
ただ静かにカメラを構えた。
「……では、撮ります」
二人は並んだまま、前を向いた。
シャッターが切られた。
そして今度は、誰も笑っていなかった。




