第90話 知らなかった表情
続いて、女中一人で撮ることになった。
写真館の男が椅子の位置を整える。
「こちらへどうぞ」
女中は言われた通りに椅子へ腰を下ろした。
正面には、黒い布をかけた大きなカメラがある。
先ほど妻と並んで撮った時には、それほど気にならなかった。
けれど、一人になると、急にその存在が大きく感じられた。
「もう少し顔を上げてください」
「はい」
女中は背筋を伸ばした。
「そのままで」
女中はじっとしていた。
けれど、どうしても肩に力が入る。
膝の上に置いた手にも、わずかに力がこもった。
カメラを見るほど、表情が硬くなっていく。
その様子を横から見ていた主人が、ふっと笑った。
「そんなに怖い顔をするな」
「……旦那様」
女中は主人を見る。
主人はいつものような顔で笑っていた。
「写真を撮るだけだ」
「はい……」
そう答えたものの、女中の緊張は消えなかった。
「……あの」
「何だ?」
「やっぱり、一人だとちょっと……」
主人は少し考えるような顔をした。
「大丈夫だ」
「はい?」
「前に撮影してもらった、親戚の叔母も、この前亡くなった」
女中の顔から笑みが消えた。
「……え?」
主人は平然と続ける。
「写真を撮ってもらっておいて良かったと思ってな」
女中は目を見開いた。
「あの、それは、それは……困りますから」
「何がだ?」
「やっぱり、その……」
女中は椅子から立ち上がろうとした。
それを見て、妻が思わず小さく笑った。
「あなた、そんなに困らせないの」
主人が妻を見る。
「何がだ?」
「あの方は、かなりのご高齢だったでしょう?」
「ああ、そうだな」
主人は少し考えてから頷いた。
「うん。そうだった、そうだった」
女中は立ちかけた姿勢のまま、二人を交互に見る。
「あの……その……」
どうしていいのか分からない。
本当に心配していい話なのか。
それとも主人は何か別のことを言っているのか。
頭の中が追いつかない。
妻はそんな女中を見て、優しく声をかけた。
「良いのよ、安心して」
「……はい?」
主人も少し申し訳なさそうに女中を見る。
「悪かった」
「旦那様……」
「たちの悪い冗談だ」
主人は苦笑した。
「許してくれ」
女中は主人の顔を見つめた。
怒っているわけでもない。
呆れているわけでもない。
ただ、どう反応していいのか分からない。
「旦那様……」
もう一度、小さく呼んだ。
その声には、戸惑いと安堵が入り混じっていた。
どうしていいのか分からない。
けれど、主人が冗談だったと言ってくれたことには、ほっとしている。
そんな二つの気持ちが、まだ幼さの残る顔にそのまま浮かんでいた。
頬には薄い赤みが残り、目元には驚きの名残がある。
それでいて、その目の奥には、子供の頃にはなかったものがあった。
幼い顔立ちの中に、少しずつ大人の女性の輪郭が生まれ始めている。
少女の面影を残しながら、もう少女ではない。
その境目に立っているような、不思議な表情だった。
不安に揺れたあと、ようやく安心した顔。
笑っていいのか、まだ分からない顔。
恥ずかしさを隠そうとして、わずかに俯く顔。
それらが一つになって、ほんの一瞬だけ現れた。
切なさを帯びているのに、どこか美しかった。
それは、本人にはまだ自覚のない美しさだった。
写真館の男は、その一瞬を見逃さなかった。
「――失礼」
シャッターが切られた。
女中が顔を上げる。
「え?」
写真館の男は、思わず笑っていた。
「すいません」
「……はい?」
「これは、撮らずにいられません」
女中はさらに困惑した。
写真館の男はカメラを確認しながら言った。
「今の表情が、とてもいいんです」
「今の……ですか?」
「ええ」
妻も主人も、思わず女中を見る。
女中はまだ、自分がどんな顔をしていたのか分からない。
ただ、胸の奥には、先ほどまでの不安がまだ少し残っていた。
そしてその隣には、主人が笑っていることへの安堵があった。
その二つが混ざったままの顔だった。
写真館の男は、もう一度カメラを見た。
「この一枚は、こちら持ちで構いませんので」
女中は目を瞬かせた。
「そんな……」
「良い表情が撮れました」
女中はますます恥ずかしくなり、俯いた。
けれど、その口元にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
妻がその様子を見て、優しく笑う。
主人も、どこか申し訳なさそうにしながら笑っていた。
女中は二人の顔を見た。
そして、自分も小さく笑った。
さっきまであれほど怖かったカメラが、今は少しだけ近くに感じられた。
自分でも知らなかった一瞬が、写真の中に残されたのだと思うと、
不思議な気持ちになった。
「では、もう一度お願いします」
写真館の男が声をかけた。
「はい」
今度の返事には、先ほどまでの硬さがなかった。
女中は椅子に座り直した。
肩の力を抜く、膝の上に置いていた手も、自然に重ねた。
「もう少しだけ、こちらを向いてください」
「はい」
女中は素直に顔を動かした。
カメラを見ても、もう怖くなかった。
妻が少し離れたところから見守っている。
主人も黙ってこちらを見ている。
二人がそこにいる。
それだけで、女中は落ち着いていられた。
「そのままで」
シャッターが切られる。
今度は、女中も身構えなかった。
写真館の男が確認する。
「いいですね」
「本当ですか?」
「ええ。とても自然です」
女中は少し照れながら笑った。
「では、もう一枚」
「はい」
二枚目のシャッターが切られる。
それから何枚か、角度や顔の向きを変えながら撮影が続いた。
最初の頃のような緊張は、もうなかった。
写真館の男が細かな指示を出すたび、女中は素直に応じた。
時には妻の方を見て笑い、時には主人の言葉に小さく笑った。
そのたびに、シャッターの音が静かな部屋に響いた。
やがて写真館の男がカメラから顔を離した。
「これで大丈夫です」
女中は少し驚いたように瞬きをした。
「もう終わりですか?」
「ええ。十分撮れました」
女中は胸の前で小さく息を吐いた。
いつの間にか、あれほど強かった緊張は消えていた。
「ありがとうございました」
女中が立ち上がる。
「こちらこそ」
写真館の男は笑った。
女中は妻を見る。
「奥様」
「何?」
「写真……楽しみですね」
「ええ」
妻は微笑んだ。
主人も横から言った。
「いい写真になっているといいな」
「はい」
女中は嬉しそうに頷いた。
今の自分が、写真の中に残る。
そのことが、今はただ楽しみだった。




