第89話 夫婦の時間
続いて、妻と主人が撮ることになった。
写真館の男が椅子の位置を整える。
「奥様、こちらへお掛けください」
妻が言われた通りに椅子へ腰を下ろす。
主人は、その後ろに立った。
女中は少し離れたところから二人を見ていた。
いつも見慣れている二人の姿なのに、
こうして写真に残すために並ぶと、少し違って見える。
「普通は、ご主人がどっしりとお座りになって、奥様が横に立たれるものなのですが」
主人は妻の後ろに立ったまま答えた。
「いいえ、ここでは妻が主人みたいなものですから」
妻がすぐに振り返る。
「なんですか、その物言いは?」
主人は悪びれる様子もなく笑った。
「でしょう?」
「何がでしょう、よ」
主人と妻は顔を見合わせた。
長年一緒に暮らしてきた二人には、言葉にしなくても通じるものがあった。
妻が呆れたように眉を上げれば、主人はそれを見て笑う。
主人が余計なことを言えば、妻はすぐに言い返す。
それはもう、どちらが先に何を言うのか分かっているようなやり取りだった。
写真館の男も思わず笑った。
「確かに」
妻もつられて笑う。
「まったく、あなたは昔からそういうことばかり」
「そうだったか?」
「そうですよ」
「覚えていないな」
「都合の悪いことだけでしょう」
女中も思わず笑った。
写真館の男は二人を眺めながら、微笑ましそうに頷いた。
「いやあ、長く連れ添われているご夫婦は、やはり息が合っておられますな」
「そう見えますか?」
主人が尋ねる。
「ええ」
写真館の男は笑った。
「何となく分かるものですよ」
妻は少し照れたように主人を見る。
「そんなものかしら」
「そんなものなんでしょう」
主人が答える。
「何だか他人事ね」
「自分のことだろう」
二人はまた笑った。
その様子を見て、女中も自然に笑顔になった。
写真館の男はカメラを覗きながら、ふと思い出したように口を開いた。
「しかし、何処のお家も、奥様がお強いもので」
主人が笑う。
「やはり、そんなものですか」
妻がすぐに主人を見る。
「まあ、それはどういう意味なのかしら」
「いや、私は何も」
主人は笑いながら手を上げた。
写真館の男は、少し調子に乗ったように続けた。
「この前行ったお屋敷でもね」
「ほう」
主人が興味を示す。
「ご主人が何か仰るたびに、奥様がすぐに……」
そこまで言って、写真館の男はふと口を閉じた。
「……おっと」
自分の言葉を思い返す。
「いけない、いけない」
男は苦笑した。
「これはお喋りが過ぎましたな」
妻が静かに写真館の男を見る。
「この調子では、うちの話も広まりそうな事ですこと」
「いえいえ」
写真館の男は慌てて首を横に振った。
「滅相もございませんです」
「本当かしら」
妻は微笑んだまま尋ねる。
「はい、もちろんでございます」
写真館の男は何度も頷いた。
そして、これ以上余計なことを言わないように、
急いでカメラへ向き直った。
「では、はい」
声の調子まで少し変わった。
「撮影に移りましょうか」
妻がその様子を見て、くすりと笑う。
「調子が良いお方ですこと」
「いやあ……」
写真館の男は苦笑するしかなかった。
主人も笑っている。
妻も笑っている。
女中も、そのやり取りを見て笑っていた。
部屋には、先ほどまでの緊張とは違う、穏やかな空気が流れていた。
写真館の男がカメラを構える。
「それでは、そのままで」
妻は椅子に座り、主人はその後ろに立つ。
二人は自然に顔を見合わせた。
何十年も一緒にいる夫婦にしか分からないような、
静かな笑みがそこにあった。
シャッターが切られる。
その一枚には、飾らない二人の時間がそのまま残された。




