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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第88話 自慢の娘

 ──翌日。

朝から屋敷の中には、いつもとは違う空気が漂っていた。

写真館の男が来る日だった。


女中は早くから身支度を整えていた。

髪を結び、妻から渡された着物を着る。


鏡の前に立つ。

淡い藤色の着物は、朝の光を受けると柔らかな色合いに見えた。

細かな格子の織り目の中に、小さな白い花が散らされている。

普段の仕事着とは違うその姿に、女中はしばらく鏡の中の自分を見つめていた。


「……本当に、私が着てもいいのかしら」


そう思うと、胸の奥が少し熱くなった。

そこへ主人が通りかかった。

ふと足を止め、女中を見る。


「うん、よく似合っている」


短い言葉だった。

けれど、女中にはそれだけで十分だった。


「……ありがとうございます」


声が小さくなる。


主人はもう一度、女中の姿を眺めた。


「いやー、綺麗だな」


「あなた、褒めすぎよ」


妻がすぐに口を挟んだ。


「そうか?」


「女中が困っているでしょう」


主人は女中を見る。

確かに、女中は俯いたまま頬を赤くしていた。


「……嬉しいです」


そう答えるのが精一杯だった、嬉しかった。

けれど、恥ずかしかった。


自分の着物を褒められることも、

綺麗だと言われることも、これまでほとんどなかった。

まして主人からそう言われるとは思っていなかった。


女中は胸の前で、そっと指を重ねた。


この家に来たばかりの頃は、何もできなかった。

掃除も、炊事も、着物の扱いさえ満足にできなかった。

それでも妻は教えてくれた。


主人は叱らずに見守ってくれた。

今日、自分はこうして綺麗な着物を着て、

写真に残してもらおうとしている。


――この家に来て、良かった。

ふと、そんなことを思った。

心の中に、その言葉が静かに浮かんだ。


女中は鏡の中の自分をもう一度見た。

そこに映っているのは、昔の小さな自分ではなかった。

いつの間にか、この家で年月を重ねた一人の女だった。


「ちょっと、いいかしら」


妻が優しく呼ぶ。


「はい」


「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」


「……はい」


返事をしたものの、指先がかすかに震えている。

自分でも気づいていた。

着物の袖がわずかに揺れる。


「緊張しているのね」


妻が女中の手を見る。


「……少しだけ」


「大丈夫」


妻はそう言って、女中の手をそっと包んだ。

温かな手だった。


「私も一緒にいるでしょう」


女中は妻を見る。

その言葉だけで、胸の奥にあった硬いものが少しずつほどけていった。


「はい」


女中は小さく頷いた。

そして、もう一度だけ鏡を見る。


緊張はまだ消えていない。

けれど、もう一人ではなかった。


やがて玄関から声が聞こえた。

写真館の男が来たのである。

大きな機材を抱え、助手とともに屋敷へ入ってくる。


「おはようございます」


「お待ちしていました」


主人が出迎える。

女中は少し離れたところから、その様子を見ていた。


機材が運び込まれていく。

黒い布。

三脚。

大きな箱。


後ろで助手達が段取りや支度をする中、

写真館の男が女中に目を留めた。


「これは……綺麗なお嬢さんですね」


突然そう言われ、女中は目を丸くした。


「え……」


自分に向けられた言葉だと分かるまで、

ほんの少し時間がかかった。


綺麗なお嬢さん。

その言葉は、女中にはどこか遠いものだった。


自分は女中である。

朝から掃除をして、食事を整え、主人と妻の身の回りを世話する。

鏡を見る時でさえ、髪の乱れや着物の襟を直すためだった。


誰かに見られるために、

自分を綺麗にすることなど、考えたこともなかった。

それなのに、今は目の前の男が、自分を一人の若い女として見ている。


胸の奥が、ふっと熱くなった。

けれど、その熱はすぐに恥ずかしさへ変わった。


どうしていいのか分からず、女中は視線を落とした。

主人は何でもないことのように答えた。


「うちの自慢の娘です」


「娘さんですか」


写真館の男が少し驚いたように女中を見る。

その瞬間だった。

女中の胸の中で、何かが大きく揺れた。


「自慢の娘……」


その言葉だけが、ほかの音から切り離されたように聞こえた。


「娘」


自分が、この家の娘。

もちろん、本当の意味では違う。

そんなことは分かっている。

分かっているはずなのに、その言葉はあまりにも優しく胸へ入ってきた。


この家へ来たばかりの頃の自分を思い出した。

何も知らず、

何もできず、ただ言われたことを懸命にしていた小さな自分。


そんな自分を、この家は置いてくれた。


失敗して泣いたこともあった。

それでも、追い出されることはなかった。


主人が笑ってくれた日もあった。

妻が髪を結ってくれた日もあった。

一つ一つの記憶が、胸の奥から静かに浮かんでくる。


だからだろうか。

「自慢の娘」という言葉が、ただの言い間違いには思えなかった。


主人にとって自分は、少なくとも、

長い年月を一緒に過ごしてきた大切な存在なのだ。

そう思っただけで、胸がいっぱいになった。


(嬉しい、嬉しくて仕方がない)


できることなら、その言葉をそのまま胸の中へしまっておきたかった。

けれど、女中はすぐに現実へ引き戻された。


「いえ、あの……」


何か言わなければならないと思った。

けれど、何を言えばいいのか分からない。


自分でも、この言葉を否定したいのか、

否定したくないのか分からなかった。


「こういうことは、間違って広まっては困りますから」


妻の声がした。

穏やかだった。

それでも、はっきりとしていた。


「この子は、うちの女中なんですよ」


女中の胸の中で、先ほどまで膨らんでいたものが、

静かに元の場所へ戻っていった。


そうだった。

自分は、この家の娘ではない。

女中なのだ。


奥様の言葉に間違いはない。

もし外で「娘さん」と呼ばれ、それが人の耳に入れば、

余計な誤解を生む。


奥様がそれを避けようとしたことも分かる。

むしろ、奥様らしいと思った。


それでも――。

ほんの一瞬だけでも、「娘」と呼ばれたことが嬉しかった。


その嬉しさまで消してしまうことはできなかった。

女中は俯いたまま、着物の膝元を見つめた。


嬉しいのに、胸の奥が少しだけ痛い。

けれど、その痛みを妻のせいにはできなかった。


旦那様の言葉も、奥様の言葉も、

どちらも本当なのだと思った。


自分は女中であり、それでもこの家に大切にされている。

その二つは、同時に存在している。

そのことを、女中は初めて少しだけ実感した。


「撮影の支度が終わりました」


写真屋の助手の声が飛ぶ。

写真屋が振り返り、手を上げる。


「では、いいかしら」


妻が呼ぶ。


「はい」


「こちらへ」


妻が、長椅子の空間をトントンと掌で軽くたたく。

女中は妻の隣へ座った。

写真館の男が二人を見て、位置を調整する。


「もう少しこちらへお願いします」


女中は少しだけ身体を動かした。

妻がそっと笑う。


「そんなに固くならなくても大丈夫よ」


「はい……」


けれど、女中の肩にはまだ力が入っていた。

膝の上に置いた手も、わずかに震えている。

先ほどの言葉が、まだ胸の中に残っていた。


綺麗だと言われたこと、自慢の娘と言われたこと、

そして、自分は女中だと改めて知らされたこと。


どれも間違いではない。

だからこそ、心の置き場所が分からなかった。

妻はそんな女中の様子を見ていた。


「ほうら」


「はい」


「大丈夫よ」


妻は、先ほどと同じように女中の手にそっと触れた。


「そんなに頑張らなくてもいいの」


女中は妻を見る。


「……はい」


「今日は写真を撮るだけでしょう」


その言葉に、女中は少しだけ笑った。


「はい」


手の震えは、まだ完全には止まらなかった。

それでも、妻の手の温かさがそこにあった。

それだけで、少しずつ呼吸が戻ってくる。


主人が横から口を挟む。


「お前も緊張しているんじゃないのか?」


「私はしていません」


妻はすぐに答えた。


「そうか?」


主人が笑う。

女中も思わず笑ってしまった。


写真館の男が、その瞬間を見ていた。


「今の表情がいいですね」


「……え?」


女中は驚いた。


「そのままでお願いします」


女中は慌てて姿勢を正す。

妻が小さく笑う。


「ほら、言ったでしょう」


「はい……」


写真館の男が準備をする。

部屋が静かになる。


先ほどまで聞こえていた話し声も消えた。


女中は前を向いた。

カメラの向こうを見る。


「動かないでください」


女中は息を止めた。

妻の肩が、すぐそばにある。

それだけで安心できた。


やがて、シャッターが切られた。

小さな音が響いた。

女中は目を瞬かせる。


「……終わりましたか?」


「一枚目です」


写真館の男が答えた。

女中はほっと息を吐いた。

妻が笑う。


「どうだった?」


「……怖くありませんでした」


女中はそう答えた。

そして、少しだけ笑った。

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