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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第87話 今しかない姿


写真を撮る日が、いよいよ明日に迫った。


女中は朝から、いつも以上に忙しく働いていた。

忙しくしていれば、余計なことを考えずに済む。

そう思っていた。

けれど、仕事の合間に鏡を見ると、やはり髪や着物が気になった。


鏡の前を通るたび、足が止まる。

髪の結び目を指先で確かめ、襟元を撫でる。

直すところなどないのに、もう一度だけと鏡を覗いてしまう。


「……いけない」


女中は小さく呟き、また仕事へ戻った。

それでも、胸の中の落ち着かなさは消えなかった。


 ──昼過ぎ、妻が女中を呼んだ。


「女中、こちらへいらっしゃい」


「はい」


女中が座敷へ入ると、妻のそばには一枚の風呂敷包みが置かれていた。


「これは?」


「明日、着るものよ」


妻が風呂敷をほどく。

中から現れたのは、淡い藤色を帯びた着物だった。

光の当たる場所では、ごく薄い紫に見える。

けれど、陰へ入ると少し灰色が混じり、落ち着いた色合いになる。


生地には細かな格子が織り込まれていた。

その格子の上に、細い枝を伸ばした小さな花が散らされている。


花は大きく描かれていない。

控えめな大きさで、ところどころに白い花弁が浮かんでいる。


近くで見なければ気づかないほどの柄だった。

袖口には同じ色の細い縁取りがあり、

襟元には少し濃い藤色が添えられている。

派手ではない。

けれど、普段の女中の着物とは明らかに違っていた。


「私が……ですか?」


「あなた以外に誰がいるの?」


妻は笑った。

女中は着物を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「でも……このようなものを」


「写真に残すのでしょう?」


「はい」


「なら、少しくらい綺麗にしてもいいじゃない」


女中はそっと着物へ手を伸ばした。

指先が生地に触れる。

滑らかな感触が伝わってきた。


自分が普段着ているものとは、明らかに違う。

こんなものを自分が着てよいのだろうか。

その思いが、最初に浮かんだ。


「畏れ多い」


そんな言葉が、胸の中に浮かんだ。


自分は女中なのだ。

主人と妻のために働く身である。


そんな自分が、このような着物を着て写真に残る。

それだけのことが、身分不相応なことのように思えた。


それと同時に、嬉しい気持ちは隠せなかった。

胸の奥が、じわりと温かくなる。


「……ありがとうございます」


「お礼は写真を撮ってからでいいわ」


妻はそう言って、着物を女中へ渡した。


女中は両手で受け取った。

まるで大切なものを預かるように。


「着てみなさい」


「今ですか?」


「ええ」


女中は少し戸惑いながら、別の部屋へ向かった。


襖を閉める。

着物を広げると、藤色の生地が畳の上に静かに広がった。

小さな花の柄が、春先の野に咲く花のように見えた。


女中はしばらく、その着物を眺めていた。

嬉しい。

けれど、怖い。


これを着た自分を、旦那様はどう見るだろう。

奥様はどう思うだろう。


写真館の男には、変に思われないだろうか。

そんな不安が次々に浮かんだ。


それでも袖へ腕を通した。

生地が肌に触れる。

いつもの着物とは違う重みがあった。


女中は胸元をそっと押さえた。


やがて戻ってくる。

妻は女中の姿を見ると、静かに頷いた。


「よく似合うわ」


「……そうでしょうか」


「ええ」


女中は落ち着かない様子で袖を見た。

藤色の袖に散った小さな花が、

自分の手の動きに合わせて揺れている。


「何だか……自分ではないような気がします」


「いつものあなたも今のあなたも、全部、あなた自身でしょう?」


妻は鏡を女中の前へ置いた。

女中は鏡の中の自分を見つめた。


いつも見慣れている顔。

けれど、少しだけ違って見える。


着物の色のせいなのか。

髪を整えているせいなのか。

それとも、明日が写真を撮る日だからなのか。

自分では分からなかった。


「……私も、こんな顔をするのですね」


「どんな顔?」


「分かりません」


女中は小さく笑った。

妻も笑う。


「明日はもっと緊張するわよ」


「……はい」


女中は鏡を見たまま、小さく息を吐いた。

胸の中には、いくつもの気持ちが重なっていた。


写真を撮ってもらえることへの嬉しさ。

妻と一緒に残ることへの安心。

主人のいるこの家で、今の自分を形に残せることへの憧れ。

そして、そんなことを望んでよいのかという不安。


自分は女中なのだから。

そう思う一方で。

明日だけは、少し違う自分になってみたい。

そんな気持ちもあった。


「でも、無理に笑わなくてもいいの」


妻は女中の髪へ手を伸ばした。


「その時のあなたの顔が、一番いいのだから」


妻の指が、髪の乱れをそっと直していく。

女中は鏡の中の妻を見る。

その手つきは、昔と変わらなかった。


幼い頃、髪を結ぶことさえ上手くできなかった自分の後ろに、

妻が立っていた。


あの頃も、こうして髪を整えてもらった。

今はもう、自分でできる。

それでも妻の手が髪に触れると、幼い頃へ戻ったような気がした。


「……はい」


その言葉が、なぜか嬉しかった。

自分を綺麗にすることよりも、今の自分を、そのまま見てもらえることが嬉しかった。


妻は女中の髪から手を離した。

そして、鏡の中の女中を見つめた。


「大きくなったわね」


「……奥様?」


「昔は、この着物だって大きすぎたでしょうね」


女中は少し笑った。


「はい」


妻も笑う。

けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ寂しさがあった。

妻自身も、若い頃に写真を撮ったことはほとんどなかった。


写真というものが今ほど身近ではなかったこともある。

でも、それだけではない。


その頃は、明日も今日と同じように来ると思っていた。


若さも、笑顔も、隣にいる人の姿も、

いつまでも、そのままだと思っていた。


「……私も」


妻は小さく呟いた。


「もっと若い頃に、写真を撮っておけばよかったわね」


「奥様も……?」


「ええ」


妻は鏡を見る。

そこには今の自分がいる。

昔の自分ではない。


「若い頃なんて、写真を撮ることがそんなに大切だと思わなかったのよ」


少し笑う。


「今になって思うの」


妻は女中を見る。


「残しておけばよかったって」


女中は黙って妻を見つめた。


「だから、あなたは残しておきなさい」


妻の声は、とても優しかった。


「今しかないものは、今しか残せないから」


女中の胸が、きゅっと締まった。


「……はい」


その返事には、さっきまでの不安とは違うものが混じっていた。


今の自分を残していい。

それを望んでもいい。

そう言われたような気がした。


そのとき、廊下から主人の声が聞こえた。


「まだやっているのか?」


「ええ」


妻が答える。

主人が襖のところまで来る。

そして、女中を見る。


一瞬だけ、言葉が止まった。

女中も主人を見る。


「……どうでしょうか」


主人は少し困ったように笑った。


「ああ……、よく似合っている」


「……ありがとうございます」


女中の頬が赤くなる。

藤色の着物の上に、その赤みがほんのり浮かんだ。


妻はその様子を見ていた。

そして、何も言わずに小さく笑った。


女中は鏡の中の自分をもう一度見た。

そこには、いつもの自分とは少し違う姿があった。

いつもとはちがうが、それもまた自分自身だった。


明日は、この姿が写真に残る。

そう思うと、怖さよりも楽しみの方が少しだけ大きくなっていた。

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