第86話 今日という景色
写真館の男が屋敷へ来る日が、少しずつ近づいていた。
その朝、妻は女中の姿を見て、思わず小さく笑った。
「ずいぶん嬉しそうね」
「……そうでしょうか」
「ええ。朝から何度も鏡を見ているもの」
女中は返事に詰まった。
鏡の前を通るたび、足が止まる。髪の結び目に指を当て、
ほどけていないか確かめる。
襟元を撫で、袖口を引く。
直すところなどないのに、また鏡へ戻ってしまう。
「そんなに気になるなら、もう一度見てくればいいわ」
「いえ……大丈夫です」
「ふふ。別に恥ずかしいことじゃないでしょう」
「……はい」
女中は小さく答えた。耳まで赤くなっている。
妻はその横顔を見つめた。
まだ背丈が妻の肩にも届かなかった頃、女中はこの家へ来た。
髪を結ぶ手つきも知らず、紐を引けば痛がり、
結び目が崩れれば唇を震わせた。
妻が後ろから手を添えると、女中は鏡の中の自分ではなく、
妻の指ばかりを見ていた。
今では、誰の手も借りない。
髪をまとめ、襟を合わせ、鏡の中の自分を自分の目で確かめている。
幼い頃には袖の中で泳いでいた着物も、
今は肩に馴染み、立つ姿には細い芯が通っていた。
「ねえ」
「はい」
「写真を撮るなら、いつもの顔でいいのよ」
「いつもの顔……ですか?」
「ええ。無理に綺麗に見せようとしなくてもいいの」
女中は鏡の中の自分を見た。
そこにいるのは、昔、髪を結べずに泣きそうになっていた子ではない。
けれど、妻の手が後ろから伸びてくるような気がして、
女中はそっと髪に触れた。
「でも……せっかくですから」
「せっかく?」
「はい」
女中は恥ずかしそうに笑った。
「今の自分を、ちゃんと残しておきたいです」
妻はすぐには返事をしなかった。
女中の言葉が、胸の奥へ静かに沈んでいった。
今の姿は、朝の光のようにそこにある。
けれど光は移り、影は伸びる。
幼い手が妻の袖を掴んでいた日も、いつの間にか遠くなっていた。
この子も、いつかこの家を出るのだろうか。
別の屋根の下で髪を結び、別の朝を迎えるのだろうか。
そう思うと、胸の奥に細い痛みが走った。
けれど、その痛みの中には、誇らしさもあった。
泣きそうな顔で妻の手を待っていた子が、
今は自分の姿を自分の言葉で残したいと言っている。
「そうね」
妻は静かに答えた。
「きれいにしてもらいましょう」
「奥様?」
「せっかくなのだから、今のあなたを一番いい形で残してもらえばいいわ」
「……はい」
女中の顔が、ぱっと明るくなった。
「髪も、もう少し整えた方がいいでしょうか」
「今のままで十分よ」
「でも、写真に残るのですから」
「気にしすぎると、かえって表情が硬くなるわ」
「……それは困ります」
女中は頬に片手を当て、真剣な顔で答えた。
妻は口に手を当てて、また笑った。
「なら、鏡を見るのはこれで最後にしなさい」
「はい」
返事をしたあとも、女中は鏡の前から動かなかった。
妻は何も言わずに見守った。
女中は最後にもう一度だけ、自分の姿を見た。
幼い頃には、鏡の中の自分が泣けば、奥様の手を探した。
今は泣かない。ただ、そこに立つ自分を、逃げずに見つめている。
そのとき、廊下の向こうから主人が現れた。
「何の話だ?」
妻が振り返る。
「写真の話よ」
「写真?」
「ええ。女中がずいぶん楽しみにしているみたいだから」
主人は女中へ視線を向けた。
見られていたことに気づき、女中は少し俯いた。
「そんなに楽しみか?」
「……はい」
小さな声だったが、喜びは隠せなかった。
主人は女中の顔をしばらく見つめた。
幼い頃、主人の足音を聞くだけで物陰へ隠れていた子がいた。
呼ばれても返事ができず、妻の背中から半分だけ顔を出していた。
今、その子は主人の前に立ち、目を伏せながらも逃げてはいない。
主人は穏やかに笑った。
「そうか……、ならよかった」
その短い言葉に、女中の胸が温かくなった。
楽しみにしていてもいいのだと思えた。
浮かれているのではないかと心配していたが、
主人も妻も、それを笑わなかった。
女中は顔を上げ、主人へ小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うほどのことではないだろう」
主人は照れたように言った。
「写真を撮るだけなのだからな」
「はい。でも……」
女中は言葉を探した。
「私にとっては、大切なことです」
主人は少し驚いたように目を瞬かせた。
妻も、女中を静かに見つめている。
女中は、自分でもなぜそこまで大切に思うのか、
うまく説明できなかった。
ただ、今の自分がこの家にいることを、形にして残しておきたかった。
妻のそばで働いている自分。
主人の声を聞きながら暮らしている自分。
幼い手で箒を握り、何度も叱られ、何度も教えられ、
いつしかこの屋敷の朝を誰より早く迎えるようになった自分。
その日々が、いつか遠い記憶になっても、
それを見れば思い出せるように。
「そうだな」
主人はしばらく考えたあと、静かに言った。
「大切にすればいい」
女中はその言葉を聞き、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
妻は二人を見ながら、何も言わなかった。
ただ、静かに湯呑みへ手を伸ばした。
湯呑みから立ち上る湯気が、
朝の光の中でゆっくり揺れている。
写真を撮る。
それだけのことに見える。
けれど、三人にとっては、
思っていたより大きな意味を持つのかもしれない。
妻はそう考えながら、窓の外へ目を向けた。
庭の木々が風に揺れている。
葉の間から差し込む光も、石畳に落ちた影も、
今日という日の景色だった。
この景色もまた、いつか写真の中に残るのだろう。
女中の姿とともに。
幼い手を妻に預けていた子が、
今は自分の足でこの庭に立っている。
妻は湯呑みを両手で包んだ。
写真館の男が来る日は、もうすぐそこまで来ていた。




