第100話 隣に立つ
しばらくして、店の奥から足音が聞こえてきた。
主人は、何気なく顔を上げた。
それまで眺めていた写真から、自然と目が離れる。
一歩。
また一歩。
仕切りの向こうから、ゆっくりと人の気配が近づいてくる。
そして、女中が姿を現した。
主人は、言葉を失った。
いつもの仕事着ではなかった。
落ち着いた色合いの着物に袖を通し、髪もきちんと整えられている。
ただ着物を着替えただけではない。
髪のまとめ方が少し違うだけで、顔立ちまで違って見えた。
いつもは働くために結ばれている髪が、今日は柔らかく整えられ、
襟元から覗く首筋にも、普段にはない静かな女性らしさがあった。
頬には、うっすらと化粧が施されている。
紅も、ごく薄い。
けれど、それだけで顔に宿る光が変わって見えた。
化粧をしたことが分からないほど自然なのに、見慣れた顔の中に、
これまで気づかなかったものが浮かんでいる。
主人は、それを何と呼べばいいのか分からなかった。
「美しい」
そう言ってしまえば簡単だった。
けれど、口に出すには少しばかり近すぎる言葉のように思えた。
写真屋も黙っていた。
先ほどまで、あれこれと着物について口を出していた男が、
今はカメラの横でじっと女中を見ている。
主人と目が合う。
写真屋も、何か言おうとした。
しかし、結局何も言わなかった。
二人とも、妙に居心地が悪そうにしている。
主人は鼻の頭へ手をやった。
何となく、そこへ触れた。
写真屋も、咳払いを一つした。
「……いやあ」
それだけ言って、また黙る。
女中は、その様子を不安そうに見ていた。
自分が何か変な格好をしているのではないか。
そんな思いが、少しずつ胸の中へ広がっていく。
いつもと違う着物。
いつもと違う髪。
そして、ほんの少しだけ施された化粧。
自分では鏡を見ても、どこがどう変わったのか、よく分からなかった。
ただ、主人も写真屋も何も言わない。
それが、かえって不安だった。
女中は俯いた。
着物の袖を、指先でそっとつまむ。
「あの……」
声が小さくなる。
「どこか、おかしくありませんか?」
主人はすぐには答えなかった。
女中が不安そうに顔を上げる。
「旦那様……?」
「ああ」
主人はようやく声を出した。
けれど、その一言のあとが続かなかった。
もう一度、女中を見る。
普段なら、仕事の合間に廊下ですれ違う。
盆を持って歩いている。
掃除道具を抱えている。
時には、主人へ茶を運んでくる。
そのどれもが、長い間見慣れてきた姿だった。
けれど今、目の前にいる女中は、その記憶の中にいる姿と少しだけ重ならない。
主人は、もう一度鼻の頭に触れた。
そして、ようやく言った。
「ああ……よく似合っている」
女中の目が、わずかに揺れた。
「……ありがとうございます」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
頬に赤みが差す。
女中はそれを隠すように、また俯いた。
写真屋も、ようやく息を吐いた。
「やはり……思った通りです」
「そうでしょうか……」
「ええ。とても綺麗ですよ」
写真屋はそこで少し言葉を切った。
「いやあ……腕が鳴りますな」
女中はますます困った顔をした。
「そんな……」
「本当ですよ」
写真屋の言葉に嘘はなかった。
商売人としての愛想だけではない。
長く写真を撮ってきた者だからこそ分かる、写す前の感覚。
光の中に立った時、その人の姿がどのように残るのか。
写真屋には、それがもう見えているのだろう。
女中はそんなことを知らない。
ただ、二人から見られていることが恥ずかしかった。
「こんな格好……落ち着きません」
主人が言った。
「そのうち慣れるさ」
女中は主人を見る。
「今日は一日中、それ着ているわけじゃないんだしな」
「……はい」
返事をしながらも、女中はまだ袖口を気にしていた。
布の重さ。
帯の締め付け。
髪の形。
頬に残る化粧。
どれも身体の上にあるのに、自分のものではないような感じがする。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ胸の奥がくすぐったい。
写真屋が撮影場所へ向かう。
「では、お二人とも、こちらへどうぞ」
主人が先に歩き出す。
そこに女中も続く。
撮影場所へ着いたところで、女中の足が止まった。
「……こちらで、よろしいのでしょうか?」
「ええ」
写真屋が頷く。
「ああ、もう少し、旦那様のお近くへ」
女中は主人を見る。
主人も、少し戸惑ったように女中を見た。
その距離が、女中には分からなかった。
外へ出れば、いつも三歩ほど後ろを歩く。
それが自分にとって自然だった。
人目もある。
主人は主人で、自分は女中。
それ以上でも、それ以下でもない。
だから三歩。
その距離を守ることが、いつの間にか身体に染みついていた。
けれど今は、写真屋から隣へ立つように言われている。
女中は、そっと一歩近づいた。
それでも、まだ距離がある。
「あの、もう少しだけ」
女中はもう一歩、足を進めた。
主人の袖が近くなる。
その距離に、女中は戸惑った。
いつもなら、その袖を見ながら歩くことはあっても、
触れそうなほど近くに立つことはない。
今は違う。
ほんの少し身体を動かせば触れてしまう、そんな距離だった。
女中は身体を固くした。
胸の奥が、急に騒がしくなる。
着物を着ているからなのか。
写真を撮るからなのか。
それとも、主人の隣に立っているからなのか。
自分でも分からなかった。
ただ、いつもの三歩が、今日は遠い場所にあるように感じた。
三歩後ろにいれば、何も考えずに済む。
そこにいれば、自分は女中でいられる。
主人を見上げることもなく、ただ後ろを歩いていればいい。
けれど今は、その距離を許されていない。
写真のためとはいえ、主人の隣にいる。
それだけのことが、女中にはひどく大きなことのように思えた。
主人もまた、落ち着かなかった。
隣にいる女中の姿を、どう見ればいいのか分からない。
先ほどから何度も、いつもの女中を思い出そうとしている。
朝、廊下を掃いていた姿。
茶を運んできた姿。
庭へ出ていく姿。
それらはすべて、今もこの女中と同じ人間なのだ。
分かっている。
分かっているのに、目の前にいる姿には、見慣れないものがあった。
着物のせいだけではない。
化粧のせいだけでもない。
年頃になった女を、今までとは違う距離から見ている。
そのことに、主人自身が戸惑っていた。
「緊張するか?」
主人が小さな声で聞いた。
「……はい」
女中は正直に答えた。
主人は明後日の方を向くと。
「ああ」
そして、静かに言った。
「俺もだ」
女中は顔を上げた。
「旦那様も……?」
「そうだな」
主人は苦笑した。
「こういうものは、慣れないからな」
女中の口元に、ほんの少し笑みが浮かんだ。
それだけで、固くなっていた肩の力が抜けた。
自分だけではない。
そう思えたことが、何よりもありがたかった。
写真屋がカメラを構えた。
「では、撮りますよ」
店の中が静かになった。
女中は正面を向いた。
背筋を伸ばす。
主人も姿勢を整える。
「動かないでくださいね」
女中の胸が、早鐘のように鳴っていた。
主人が隣にいる。
いつもの屋敷ではない。
いつもの仕事着でもない。
今、自分は女中として働いているのではない。
ただ、一人の女として、ここに立っている。
そんなことを考えてしまうと、かえって恥ずかしくなった。
けれど同時に、胸の奥には静かな喜びがあった。
この瞬間が残る。
今の自分が。
今の主人と一緒に。
写真の中へ残る。
それは、以前から胸の奥で願っていたことだった。
まだ自分でも、それをはっきり願いとして認めてはいなかった。
でも今なら分かる。
自分は、この人と同じ写真の中にいたかったのだ。
主人の隣に立ちたいと、どこかで思っていたのだ。
それが、こんな形で叶うとは思わなかった。
「はい」
写真屋が声を掛けた。
「そのままで」
女中は息を浅くした。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ、このままでいる。
そう思った。
シャッターが切られた。
乾いた、小さな音だった。
その音は店の静けさの中へ吸い込まれるように消えた。
女中は思わず瞬きをした。
「……終わりましたか?」
「ええ」
写真屋が笑う。
「絶対、綺麗に撮れていますよ」
女中は、ようやく息を吐いた。
身体の中に張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。
主人も肩の力を抜いた。
「これが……写真になるのですね」
「ああ」
女中はカメラを見る。
黒い箱。
その小さな中に、今の自分が残った。
自分では見ることのできない自分の姿。
そして、その隣には主人がいる。
女中は、そのことをすぐには言葉にしなかった。
嬉しい。
そう思った。
けれど、その一言だけでは足りない気がした。
写真が出来上がれば、今日の自分を見ることができる。
着物姿の自分。
主人の隣に立つ自分。
今はまだ、自分の目には何も残っていない。
でも、いつか写真が出来上がった時、
そこには今日の時間が一枚の紙の上に残っている。
そのことが、女中には不思議だった。
今日という日は、もう二度と戻ってこない。
この着物を着ることも。
主人の隣に立つことも。
写真屋の前で緊張している今の自分も。
すべては、やがて過ぎていく。
でも写真だけは、その過ぎていく時間を引き留めてくれる。
女中は、胸の奥にそっと手を添えるような気持ちになった。
ずっと後ろから見ていた主人。
いつも三歩後ろから、その背中を追っていた。
その距離は、自分にとって当たり前だった。
今日も外へ出れば、きっとまた三歩後ろを歩く。
それが自分のいる場所なのだと思う。
けれど、この一枚の中だけは違う。
三歩後ろではない。
ほんの一瞬だけ。
主人の隣にいる。
そのことを思うと、女中の胸の奥が静かに温かくなった。
女中は小さく笑った。
主人は、その横顔を見ていた。
何も言わなかった。
女中も、何も言わない。
写真屋だけが、二人の姿を静かに見つめていた。
まだ写真は出来上がっていない。
それでも、もうこの時間は過ぎてしまった。
だからこそ女中は、その一瞬を忘れないように、心の中へそっとしまった。
いつか写真を手にした時。
今日のことを思い出すだろう。
着物の重さ。
薄い化粧の匂い。
店の中に差し込んでいた光。
シャッターの乾いた音。
そして何よりも――
隣にいた主人の気配を。
女中はもう一度だけ、静かに笑った。




