第84話 二人で残す今の姿
──翌日。
朝の屋敷には、まだ少し冷たい空気が残っていた。
障子越しの光が廊下へ細く差し込み、磨かれた板の間に淡い筋を作っている。
妻は、昨日の写真の話を思い出していた。
座敷には朝の静けさがあり、遠くから庭を掃く箒の音がかすかに聞こえてくる。
女中一人で撮る。
それだけでも十分だと思っていた。
でも昨夜、主人と話しているうちに、別の考えが浮かんだ。
妻は湯呑みを両手で包みながら、しばらくそのことを考えていた。
「ねえ、あなた」
「何だ?」
主人が新聞から顔を上げる。
「私も女中と一緒に写ろうかしら」
主人が顔を上げた。
「お前も?」
「ええ」
妻は少し笑った。
「女中一人より、二人で写った方がいいでしょう」
主人は少し考えた。
窓の外へ目を向け、庭の様子を眺める。
そして、ふっと表情を緩める。
「それは華があっていい」
「でしょう?」
「ああ」
主人は納得したように頷いた。
「二人なら写真館の男も撮りやすいだろう」
「そうね」
妻は満足そうに笑った。
そのとき、廊下の向こうから控えめな足音が近づいてきた。
ちょうど女中が廊下を通りかかったところだった。
「ちょっといい?」
「はい」
呼ばれて、女中が部屋へ入ってくる。
襖を静かに閉め、二人の前で姿勢を正す。
「何かご用でしょうか」
「写真のことよ」
「……はい」
女中の表情が少し緊張する。
写真という言葉を聞いただけで、先日の撮影のことが頭に浮かんだ。
妻は、そんな女中を見て微笑んだ。
「あなた、一人で撮るのが少し怖いと言っていたでしょう?」
「はい……」
女中は小さく頷く。
「だからね」
妻は主人を見る。
主人も頷いた。
「私も一緒に写ることにしたの」
「……奥様も?」
「ええ」
女中の目が大きくなる。
思いがけない言葉だった。
「二人で並んで撮ってもらいましょう」
女中は言葉を失った。
奥様と一緒に二人で写真に残る。
そのことを想像すると、胸の奥が一気に明るくなった。
昨日まで感じていた写真へのわずかな不安が、いつの間にか遠のいていく。
「……本当ですか?」
「本当よ」
女中は主人を見る。
主人も笑っている。
その穏やかな顔を見た瞬間、女中の中にあった迷いが消えていった。
「この人もこう言ってます」
妻が主人を指す。
「二人なら華があっていい、と」
「……」
女中の頬が、見る見るうちに緩んでいく。
妻は少し口角を上げながら告げる。
「いいですね?」
「……はい!」
女中の返事が、思わず大きくなった。
屋敷の静けさの中では、その声がいつもより大きく響いた。
女中は慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません」
「ふふ」
妻が笑う。
「そんなに嬉しい?」
「……はい」
女中は隠そうとした。
けれど、嬉しさは、どうしても顔に出てしまう。
口元が緩む、目も輝いている。
妻はその様子を黙って眺めていた。
主人も、その様子を見て微笑んだ。
「そんなに楽しみか」
「はい……」
女中は頷いた。
「とても楽しみです」
その声には、もう怖さなどほとんど残っていなかった。
写真館の男が来る日が、待ち遠しい。
妻と一緒に写る、今の自分を残す。
そして……その写真を、いつか見返す。
庭の木々が今とは違う姿になっていても、写真の中には今日の屋敷が残る。
そう考えるだけで、胸が弾んだ。
「では、写真館の男が来たらお願いしましょう」
「はい」
女中は嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございます、奥様」
「礼を言うほどのことではないわ」
妻はそう言いながらも、女中の表情を見て微笑んでいた。
障子から差し込む光の中で、その笑顔はいつもより幼く見えた。
その顔を見れば、写真を撮ることを許してよかったと、妻にも思えた。
そして主人も、二人の女性が並んで写真に収まる姿を想像しながら、
「確かに、華があるな」
と、もう一度呟いた。
女中は、その言葉を聞いて、また嬉しそうに笑った。
庭から、風に揺れた木の葉の音が聞こえてきた。
いつもと変わらない朝だった。
けれど女中にとっては、その日が少しだけ特別な一日になっていた。




