第83話 いつか昔になる
その日の夕方。
妻は、昼間に見せてもらった写真をもう一度手に取っていた。
庭の写真。
玄関の写真。
どれも見慣れた景色なのに、写真の中へ収まると、少し違って見える。
いつもなら何気なく通り過ぎる場所なのに、紙の上に固定されると、そこだけ時間から切り離されたようだった。
妻は一枚を傾けながら、ふと呟いた。
「……写真に、何が写るのかしら」
向かいにいた主人が顔を上げる。
「何って」
少し考えてから答えた。
「そのままだろう」
「そのまま?」
「ああ」
主人は写真を指差す。
「そこにあるものが、そのまま写る」
「人も?」
「人もだ」
「着物も?」
「着物も」
「顔も?」
「もちろん顔もだ」
妻は写真を見つめた。
どうにも納得しきれないような顔をしている。
「……本当に、それだけなのかしら」
「それだけと言われてもな」
主人は困ったような、なんともつかない顔をした。
「写真なんだから、写真が写るんだろう」
「あなたは、そういうところが雑なのよ」
「雑って……」
主人は苦笑する。
「俺に聞かれても分からん」
「そうね」
妻も笑った。
けれど、再び写真を見る。
紙の上に残っているのは、確かに庭だった。
だがそこには、写真を撮った時の空気まで残っているようにも感じる。
風が吹いていたのか。
陽が暖かかったのか。
撮影した時には、誰かがこの庭を眺めていたのか。
写真を見るだけで、そんなことまで想像してしまう。
「不思議なものね」
「そうか?」
「ええ」
妻は写真を指先でなぞった。
「こうして見ると、今の庭なのに、もう昔のものみたいに感じるわ」
「撮った瞬間から、少し前のものになるからな」
「そういうものなのかしら」
「たぶんな」
「ずいぶん適当ね」
「写真の専門家じゃないからな」
主人は肩をすくめた。
妻はそんな夫を見て、少し笑った。
「あなたには、そういうことを考える趣味はないでしょうけど」
「まあな」
主人は笑う。
「俺は写っていれば、それで十分だ」
「そう」
妻は写真を机へ置いた。
しばらく黙っている。
それから、何かを思いついたように顔を上げた。
「なら」
「何だ?」
「女中と二人で撮ってもらっては?」
「……え?」
主人の顔が止まった。
「私と?」
「違うわ」
妻は笑った。
「あなたと女中よ」
「……」
主人は何とも言えない顔をした。
妻は、その表情を見逃さなかった。
「どうしたの?」
「いや……」
「嫌なの?」
「そういうわけではない」
「なら、いいじゃない」
「だが……」
主人は言葉を探した。
女中と二人で写真を撮る。
その光景を想像する。
隣に並んで座る。
写真館の男の前で、じっとしている。
ただ写真を撮るだけのことなのに。
なぜか妙に現実味を持って頭へ浮かんだ。
「……少し、恥ずかしいだろう」
「今さら?」
「今さらとは何だ」
「あなた、昔はもっと平気だったでしょう」
「昔は昔だ」
妻は小さく笑った。
「それに、女中は喜ぶと思うわ」
主人は黙った。
確かに、女中が写真を撮ることを楽しみにしているのは知っている。
怖いと言いながらも、自分の姿を残してみたいと、嬉しそうに話していた。
もし二人で撮ると聞いたら。
きっと喜ぶだろう。
その顔を想像してしまう。
「……そうだな」
主人は小さく呟いた。
「喜ぶだろうな」
「でしょう?」
妻は写真を机へ置いた。
「一枚くらい、いいんじゃない?」
「……」
主人は答えなかった。
けれど、嫌だとは言わなかった。
妻はそれを見て、少し笑う。
「決まりね」
「いや、まだ決まってはいないだろう」
「あなたが反対しないなら、ほとんど決まりよ」
「……勝手に決めるなと言ったのは誰だったかな」
「私よ」
妻は平然と答えた。
主人は思わず笑ってしまった。
「まったく……」
「でもね」
妻は少しだけ真面目な顔になる。
「女中が喜ぶなら、それでいいでしょう?」
主人は妻を見る。
そして、静かに頷いた。
「ああ」
「なら、そうしましょう」
「分かった」
その声には、先ほどまでの戸惑いが少し薄れていた。
──その夜。
女中はまだ、この話を知らなかった。
自分一人で写真を撮ってもらう。
それだけで十分嬉しいと思っていた。
昼間は少し不安だった。
写真を撮ることそのものが怖い気持ちも、まだ残っている。
けれど、写真館の男が来たら、思い切ってお願いしてみよう。
そんなことを考えていた。
もし主人と一緒に写真を撮れると知ったら、どんな顔をするだろう。
妻はそんなことを考えながら、静かに写真を片付けた。
そしてふと、自分が若かった頃のことを思い出した。
あの頃にも、こんなふうに写真を撮っておけばよかった。
誰かと並んで。
何気ない一日を。
何でもない笑顔を。
当時は、それが特別なものになるとは思わなかった。
明日も同じような一日が来る。
そう思っていた。
けれど時間は思っているより早く過ぎていく。
若い頃の顔も。
その時の着物も。
その頃に見ていた景色も。
今となっては、記憶の中にしか残っていない。
もし一枚でも写真があったなら、
もっと鮮明に思い出せたのかもしれない。
妻は、そんなことを考えた。
そして、昼間に見た女中の嬉しそうな顔を思い出す。
写真を撮ることを、あれほど楽しみにしていた。
なら、女中の今の姿を残しておくことは、やはり悪いことではないのだろう。
むしろ何年か経った時に、この写真が大切なものになるかもしれない。
妻は写真を一枚、そっと机へ置いた。
「……一枚くらい、残しておきましょうか」
妻は誰に言うでもなく、そう呟いた。
そして、その写真の中に。
いつか自分と女中が並んでいる姿を想像した。
それは思っていたよりも、悪くない光景だった。




