第80話 写真に残るもの
写真館の男が次に来る日まで、あと数日だった。
女中は、そのことを意識するたびに、少しだけ落ち着かなくなった。
撮ってもらいたい。
そう思っている。
でも先日、旦那様に話した噂が頭から離れない。
「魂を取られる」
「写真に死者が写る」
「写真を撮ると身体が弱る」
どれも、根拠のない噂なのだろう。
旦那様も笑っていた。
それでも、一度聞いてしまうと、心のどこかへ残ってしまう。
──昼下がり。
女中は庭の掃除をしていた。
箒を動かしながら、ふと顔を上げる。
冬の庭。
枯れた葉。
山茶花。
縁側。
いつも見ている景色だった。
これが写真になる。
そう思うと、今までとは少し違って見えた。
女中は箒を止める。
もし、この景色が何十年も残るのなら。
自分がここにいたことも、残るのだろうか。
自分がこの家で働いていたこと。
この庭を掃除したこと。
旦那様と話したこと。
そういうものまで。
「……写真って、不思議」
小さく呟いた。
その時。
「何が不思議なんだ?」
背後から声がした。
女中は驚いて振り返る。
「旦那様……」
「何か考え事をしていたようだな」
「はい……」
女中は少し恥ずかしそうに笑った。
「写真のことでございます」
「ああ」
主人も庭を見る。
「楽しみにしているのか?」
「……はい」
少し間を置いて。
「でも、やっぱり怖くもあります」
「まだ怖いのか」
「はい」
女中は箒を持ったまま答える。
「先日のお話を思い出してしまって」
「魂を取られるという話か」
「はい」
主人は苦笑した。
「随分と信じているな」
「信じているわけでは……」
女中は慌てて首を振る。
「ただ、もし本当だったらと思うと」
「なら、試してみるか」
「え?」
「俺も一緒に撮ればいい」
女中は目を見開いた。
「旦那様も?」
「ああ」
「……ですが」
「一人で撮るのが怖いのだろう?」
女中は俯いた。
「……はい」
「なら、一人で怖がる必要はない」
その言葉に、女中の胸が少し温かくなる。
「ありがとうございます」
「ただし」
主人は笑った。
「魂を取られたら、二人とも困るな」
「もう……旦那様」
女中は思わず笑った。
「旦那様まで、そのようなことを」
「怖いと言ったのはお前だろう」
「はい……」
女中も笑う。
先ほどまでの不安が、少しだけ薄れていった。
「でも」
女中はふと真面目な顔になった。
「昔の人は、本当に怖かったのでしょうね」
「そうだろうな」
「今まで見たことのないものですもの」
「ああ」
「自分の顔が紙に残るなんて……」
女中は自分の顔へ触れた。
「今なら当たり前のことでも、最初に見た人は驚いたでしょうね」
「そうだな」
主人は庭へ目を向けた。
「新しいものというのは、いつもそういうものだ」
「怖いものなのでしょうか」
「怖いと思う人もいる」
「では、怖くない人も?」
「もちろんだ」
「旦那様は?」
女中が尋ねる。
「俺か?」
「はい」
主人は少し考えた。
「昔は少し怖かったかもしれんな」
「旦那様も?」
「ああ」
「意外です」
「何でも最初から平気だったわけではない」
女中は微笑んだ。
「では、旦那様も写真を撮る時には緊張されたのですか?」
「したな」
「どんなお気持ちでした?」
「動くなと言われて、動かないように必死だった」
女中は思わず笑った。
「旦那様でも?」
「俺でもだ」
「では、私も動かないように頑張らなくてはいけませんね」
「ああ」
「笑ってはいけないのでしょうか」
「それは写真館の男に聞け」
「目を閉じたら?」
「撮り直せばいい」
「顔が変だったら?」
「それも撮り直せばいい」
「何度でも?」
「ああ」
女中は安心したように頷いた。
「……それなら、少し安心しました」
主人は女中を見る。
さっきまで怖がっていた顔が、今は少し楽しそうになっている。
「本当に撮るつもりなんだな」
「はい」
「怖くないのか?」
「まだ少し怖いです」
女中は正直に答えた。
「でも」
庭を見る。
「残してみたいです」
「何を?」
女中は少し考える。
「今の私を」
主人は黙った。
女中は続ける。
「何年か経って、写真を見たら」
小さく笑う。
「この時は、ここで働いていたんだなと思えるでしょう?」
「ああ」
「旦那様とお話ししたことも、思い出せるでしょうか」
その言葉に、旦那様の表情がわずかに変わった。
「……写真だけでは、そこまでは残らんだろう」
「そうですね」
女中は笑う。
「でも、写真を見れば思い出せる気がします」
主人は答えなかった。
写真に残るのは姿だけ。
声も。
言葉も。
その時の気持ちも。
直接は残らない。
それでも写真を見ることで、記憶には蘇る。
そう考えると。
自分と女中が今こうしている時間も、いつか遠い記憶になるのだろうか。
主人は、そんなことを考えていた。
「旦那様」
「何だ?」
「もし……」
女中は少し迷った。
「写真を撮ったら、一枚いただいてもよろしいでしょうか」
「ああ」
「私、持っていたいです」
「構わん」
「ありがとうございます」
女中は嬉しそうに頭を下げた。
その姿を見ながら、主人は微笑む。
「大切にするのか?」
「はい」
「そんなに?」
「はい」
女中は写真を見つめる。
「今の私を残したものですから」
その言葉を聞いて。
主人は、ふと胸の奥に小さな痛みを覚えた。
今の女中。
今しかない姿。
それを残しておきたいと思う気持ちは、よく分かる。
しかしそれと同時に、
自分も、この娘の今の姿を忘れたくないと思っていることに
気づいてしまった。
「……そうか」
それだけを言う。
「はい」
女中は笑った。
冬の弱い陽射しの中で、その笑顔だけが妙に明るく見えた。
そして二人は、まだ知らなかった。
写真を撮るという小さな出来事が。
二人の間にある「今」を、
これまで以上にはっきりと意識させることになることを。




