第79話 写真の噂
それから数日。
女中は、写真のことを時折思い出していた。
写真館の男が、また屋敷へ来る日。
その時には、自分も写真を撮ってもらう。
そう考えるだけで、胸の奥が少し弾んだ。
しかし、楽しみにしているはずなのに、
ふとした瞬間に不安になることもあった。
写真というものを、まだよく知らない。
見たことはある。
けれど、自分がその中へ入るとなると、話は違った。
──昼下がり。
女中はいつものように書斎へ茶を運んだ。
「失礼いたします」
「ああ」
主人は机へ向かっていた。
女中は盆を置く。
その上には、先日見せてもらった写真が何枚か置かれていた。
「あ……」
女中は思わず足を止める。
「どうした?」
「お写真が……」
「ああ」
旦那様は一枚を手に取った。
「先日のものだ」
庭の写真だった。
女中は少し近づいて見る。
「やはり、不思議です」
「まだ気になるか」
「はい」
女中は頷いた。
「何度見ても、不思議でございます」
「そうか」
「だって……」
女中は写真を見つめる。
「ここにあるものが、そのまま紙の上に残っているのでしょう?」
「そういうものだ」
「でも、どうしてなのでしょう」
「写真館の男に聞けば、もっと詳しく教えてくれるだろう」
「……そうですね」
女中はしばらく写真を眺めていた。
そして、ふと、顔を曇らせる。
「……旦那様」
「何だ?」
「私……」
女中は写真から目を離した。
「やっぱり、少し怖いです」
「写真が?」
「はい」
主人は意外そうな顔をした。
「どうしてだ」
女中は答えようとして、ためらった。
「……変な話なのですが」
「構わん。言ってみろ」
「写真を撮ると……」
女中は声を落とした。
「魂まで写ってしまう、という話を聞いたことがあります」
主人は一瞬、黙った。
それから小さく笑う。
「魂まで?」
「はい……」
女中は真剣だった。
「写真を撮られると、人の中にあるものを持っていかれる、と」
「誰に聞いた?」
「奉公に出る前に、近所のお婆さんが……」
女中は思い出すように話す。
「写真というものは、昔はとても珍しかったそうです」
「まあ、そうだろうな」
「だから、写真館へ行く人を見て、
あれは大丈夫なのかと話していたそうで……」
女中は少し身を縮めた。
「何枚も撮ると、身体が弱くなる、と言う人もいたそうです」
「そんな噂まであるのか」
「はい」
女中は頷く。
「それに……」
「まだあるのか?」
「写真を撮る時には、長いこと動いてはいけないのでしょう?」
「ああ」
「それが、なんだか……」
女中は言葉を探した。
「人が生きたまま、死んだ人のようにじっとしているのが怖いのです」
主人は、少し考えた。
「昔の写真なら、
長くじっとしていなければならないこともあるだろうな」
「やっぱり……」
「だが、それは写真を写すのに時間が掛かるからだ」
「そうなのですか?」
「ああ」
「魂を取るからではなく?」
主人は苦笑した。
「そんなことはない」
「本当に?」
「本当だ」
主人は写真を指先で叩いた。
「これを見てみろ」
「はい」
「庭が写っているだろう」
「はい」
「だが、庭の魂を取ったようには見えん」
女中は写真を見る。
確かに、そこにはいつもの庭がある。
木々も。
石灯籠も。
縁側も。
何も失われていない。
「……そうですね」
「写真を撮ったからといって、庭が消えたわけではない」
「はい」
「なら、人間だけ魂を取られるというのも妙な話だろう」
女中は少し考えた。
「……確かに」
けれど、それでも不安は消えない。
「ですが……」
「まだ怖いか」
「少し」
女中は正直に答えた。
主人は写真を置いた。
「写真館の男も、そんな話は何度も聞いているかもしれんな」
「写真館の方も?」
「ああ」
「怒らないのでしょうか」
「どうだろうな」
主人は笑った。
「商売をしていれば、いろんな噂を聞くものだ」
「……そうですか」
女中は少し安心した。
そして、もう一つ思い出したことがあった。
「それと……」
「何だ?」
「写真には、亡くなった人が写ることもある、と聞きました」
主人の表情が変わる。
「亡くなった人?」
「はい」
「それは、どういう意味だ」
「生きている人と一緒に撮ると……」
女中は声を落とす。
「亡くなった人の姿が、後ろに写ることがある、と」
主人は黙った。
「そんな話まであるのか」
「はい」
女中は少し震えた。
「だから、写真というものは怖いものだと……」
主人は、しばらく考えてから言った。
「写真に限らず、不思議なものには噂がつきまとう」
「……はい」
「新しいものなら、なおさらだ」
女中は黙って聞いている。
「知らないものは怖い」
「はい」
「だから、人は自分の知っているものに結びつけて説明しようとする」
女中は写真を見る。
「……魂、と」
「ああ」
「なるほど……」
女中は少し考えた。
写真そのものが怖いというより。
知らないものだから怖い。
そう考えると、少しだけ気持ちが楽になった。
「それでも」
女中は写真を見つめた。
「私が撮る時には、やっぱり少し怖いです」
「そうか」
「もし、本当に何か取られてしまったら……」
「その時は」
主人は少し笑った。
「写真館の男に返してもらえばいい」
「……もう」
女中は思わず笑った。
「そんなこと、できませんよ」
「なら、心配する必要もない」
「はい」
二人の間に、穏やかな笑いが広がった。
女中はそのまま写真を見ていた。
「……旦那様」
「何だ?」
「それでも、撮ってみたいです」
「そうか」
「怖いですけれど」
女中は小さく笑う。
「怖いからこそ、見てみたい気もします」
「なら、撮ればいい」
「はい」
女中は写真をそっと机へ戻した。
怖い、けれど、知りたい。
その気持ちの方が、少しだけ強くなっていた。
そして、写真館の男が次に屋敷へ来る日を、
女中はまた待つことになった。
今度はただ楽しみにするだけではない。
少しの怖さと。
それ以上の好奇心を抱えながら。
女中は、自分が写真の中へ残る日を待っていた。




