第81話 まだ撮られていない写真
写真館の男が屋敷へ来る日が近づいていた。
女中は、そのことを考えるたびに、少しだけ胸を弾ませていた。
主人と写真について話したこと。
初めて間近で写真を見せてもらったこと。
そして、自分も写真を撮ってもらえること。
最初は、写真というものが少し怖かった。
魂まで写ってしまうという噂。
亡くなった人の姿が写るという話。
そんなものを聞かされれば、どうしても不安になる。
けれど、主人と話しているうちに、その怖さは少しずつ薄れていた。
それよりも自分の姿が、
一枚の紙の中に残るということへの興味の方が大きくなっていた。
どんな顔で写るのだろう。
どんな着物を着ていけばいいのだろう。
写真館の男は、どんなふうに撮るのだろう。
そんなことを考えていると、自然に口元が緩んでしまう。
そんなある日の夕方。
主人が妻へ声を掛けた。
「そういえば、今度、写真館の男が来る」
「写真館?」
妻は手を止めた。
「ああ。先日の写真の仕上がりを持ってくるそうだ」
「そう」
妻は頷いた。
「その時に、女中の写真も撮ってもらおうと思っている」
妻の眉が、ぴくりと動いた。
「……女中の?」
「ああ」
主人は何でもないことのように答えた。
「本人も撮ってほしいと言っている」
「そうなの?」
妻は女中を見る。
女中は少し緊張しながら頷いた。
「はい……」
その返事には、わずかな期待が混じっていた。
妻は、しばらく黙っていた。
そして。
「私は嫌だわ」
「……え?」
女中の顔から、笑みが消えた。
胸の奥で、何かがすっと冷たくなる。
主人も少し驚いたように妻を見る。
「どうしてだ?」
「どうしてって……」
妻は少し困った顔をした。
「あなた、すぐに勝手に決めてきてしまうでしょう」
「勝手に、とは……」
「だってそうじゃない」
少しだけ声が強くなる。
「写真館の男を呼ぶことも、女中の写真を撮ることも、
私には何も相談していないでしょう?」
「それは……」
「私は、この家のことを何も考えていないように見える?」
「いや、そういう意味では……」
主人は言葉に詰まった。
妻は少し怒っている。
けれど、本気で写真そのものを嫌っているわけではない。
ただ、また自分に相談することなく話を決めてしまったことが気に入らないのだ。
「あなたはいつもそうなのよ」
「……そうか?」
「ええ」
妻はため息をついた。
「思いついたら、自分で決めてしまう」
「悪かった」
「女中も女中よ」
「……はい」
突然話を振られ、女中は背筋を伸ばした。
「旦那様に言われたからといって、すぐに話を進めなくてもいいでしょう」
「……申し訳ございません」
女中の声が小さくなる。
先ほどまで楽しみにしていた気持ちが、急にしぼんでいく。
自分は、出過ぎたことをしてしまったのだろうか。
主人にお願いしたこと自体が、間違いだったのだろうか。
そんな思いが胸へ広がった。
「私は……」
女中は俯いた。
「ただ、一度撮ってみたいと思っただけで……」
「ええ」
妻の声も少し柔らかくなる。
「分かっているわ」
それでも、女中の顔は上がらなかった。
「……はい」
返事だけが、小さく落ちた。
主人はそんな女中を見た。
明らかにしょんぼりしている。
先ほどまで写真の話をしていた時の、明るい顔とはまるで違う。
膝の上で手を揃え、視線を落としている。
まるで、自分が悪いことをしてしまった子どものようだった。
「そこまで落ち込むことはない」
主人が言う。
「……はい」
「写真を撮ること自体が悪いと言っているわけではない」
女中は少しだけ顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ」
妻も頷いた。
「私も、写真そのものが嫌なわけではないのよ」
「……はい」
「ただね」
妻は主人を見る。
「何でもあなたが先に決めてしまうのが嫌なの」
「……分かった」
「次からは相談してちょうだい」
「ああ」
主人は苦笑した。
「悪かった」
「本当に分かっているの?」
「分かっている」
「ならいいわ」
妻はようやく表情を和らげた。
けれど女中は、まだ少し俯いていた。
写真そのものを拒まれたわけではない。
それは分かった。
けれど、一度胸へ膨らんだ期待は、すっかり小さくなっていた。
──夕餉の支度へ戻る途中。
女中は主人の少し後ろを歩いていた。
廊下には二人の足音だけが響いている。
しばらくして、主人が振り返った。
「女中」
「はい」
「写真のことなら、まだ何も決まっていない」
「……はい」
「だから、そんな顔をするな」
女中は慌てて顔を上げた。
「そんな顔……しておりますか?」
「ああ」
「……申し訳ございません」
「また謝った」
「……はい」
主人は苦笑した。
女中も少しだけ口元を緩めた。
「お前が本当に撮りたいなら、妻とも話してから決めればいい」
「……はい」
女中は小さく頷いた。
そして少し考えてから。
「私……」
「何だ?」
「やっぱり、撮ってみたいです」
「そうか」
「でも……奥様がお嫌なら」
女中はそこで言葉を止める。
「無理には……」
主人は静かに頷いた。
「そうだな」
「……はい」
女中は少し寂しそうに笑った。
「私、楽しみにしていたものですから」
その言葉を聞いて、主人は女中を見る。
「そうだったのか」
「はい」
「そんなに?」
「……はい」
女中は小さく頷いた。
「今の自分を残してみたいと思っていました」
主人は何も言わなかった。
ただ、その言葉を聞いている。
「でも、奥様がお嫌なら仕方ありません」
「そうだな」
女中は頷いた。
けれど、その声には寂しさが残っていた。
主人は、それ以上何も言えなかった。
写真一枚の話。
それだけのことなのに。
女中にとっては、いつの間にか大切なものになっていた。
──その夜。
女中は布団へ入ってからも、写真のことを考えていた。
撮ってみたい。
本当にそう思っていた。
写真館の男が来たら。
どんなふうに撮るのだろう。
どんな顔で写るのだろう。
どんな着物を着ればいいのだろう。
髪は、いつもよりきちんと結った方がいいだろうか。
そんなことまで考えていた。
そしてその写真を、一枚もらえたら……。
大切にしまっておきたい。
いつか何年も経ってから、それを見たら。
今の自分を思い出せるかもしれない。
そんなことを考えていた。
でも妻の、
「私は嫌だわ」
という言葉が耳に残っている。
女中は布団の中で、小さく息を吐いた。
「……仕方ありません」
自分に言い聞かせる。
「私が、わがままを言ったのですから」
そう呟いたものの。
本当は、自分がわがままを言ったとは思っていなかった。
ただ、写真を撮ってみたかった。
それだけだった。
それでも、家の中で自分だけが勝手なことをするわけにはいかない。
女中はそう思い直した。
胸の奥に残る寂しさを、そっと押し込める。
そして、いつものように目を閉じた。
眠りにつくまでの間。
頭の片隅には、写真の中へ残った自分の姿が何度も浮かんでいた。
まだ撮ってもいない一枚の写真。
それなのに女中にとって、それはもう少し特別なものになっていた。




