第8話 祭りの夜
町に祭囃子が流れ始めると、家の中にもわずかに浮き立つ空気が入り込んだ。
夕刻になると、遠くから笛の音が風に乗って届く。
子どもたちの笑い声。
露店を呼び込む威勢のいい声。
提灯の明かりが夕闇に滲み始める頃には、普段は静かな通りにも人影が増えていた。
その日、主人は仕事を早めに切り上げて帰宅した。
玄関で草履を脱ぐと、女中がいつものように迎える。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
その短い挨拶も、以前よりどこかぎこちない。
妻はその様子を見ながら微笑んだ。
「今日はお祭りですもの。夕餉を少し早く済ませましょう」
主人は頷く。
「そうだな」
女中は黙って支度を始めた。
夕餉は普段より少しだけ豪勢だった。
煮物の香りが立ち、焼き魚には庭で採れた青柚子が添えられている。
祭りの日くらいは、と妻が腕を振るったのだ。
食事を終えると、外から太鼓の音が近づいてきた。
どん、どん、と腹へ響く低い音。
女中は思わず耳を澄ませる。
主人はその様子に気づいた。
「祭りは久しいか」
女中は少し恥ずかしそうに笑う。
「村にいた頃以来でございます」
「そうか」
それだけの会話。
だが、妻は静かに言った。
「少し見てきたらどう?」
女中は驚いたように顔を上げる。
「よろしいのですか」
「ええ。毎日よく働いてくれているもの」
女中は主人の方を見る。
主人も静かに頷いた。
「早く戻れば構わん」
女中は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
しばらくして、女中は藍色の木綿の着物へ着替えて現れた。
普段着と変わらぬ質素なものだったが、髪を整え、小さな簪を一本差しただけで印象が違う。
主人は思わず視線を向ける。
妻も、その視線を見逃さなかった。
女中は玄関で再び頭を下げる。
「行って参ります」
「気をつけて」
妻が送り出す。
主人は何も言わず、小さく頷くだけだった。
戸が閉まる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
遠くから祭囃子だけが聞こえている。
やがて妻が湯呑を置いた。
「きれいになりましたね」
主人は少しだけ間を置いた。
「ああ」
「昔は本当に子供だったのに」
主人は答えない。
答えられない。
「あなた」
妻は静かな声で続けた。
「さっき、見ていましたね」
主人は湯呑を持つ手を止める。
「……何をだ」
「着替えたあの子を」
主人は否定しなかった。
できなかった。
「人は変わるものだ」
それだけを言う。
妻は小さく笑った。
「ええ。人は変わります」
その言葉には、どこか寂しさがあった。
一方、女中は祭りの人混みを歩いていた。
綿飴を持つ子ども。
射的ではしゃぐ若者。
浴衣姿の娘たち。
村の祭りより、ずっと賑やかだった。
だが、心はどこか落ち着かない。
ふと足を止める。
飴細工を売る屋台の前だった。
職人が熱い飴を伸ばし、鳥や兎の形を作っている。
幼い頃なら、目を輝かせて眺めていただろう。
今は、ただ静かに見つめるだけだった。
「姉さん」
不意に声を掛けられる。
振り返ると、若い男が立っていた。
「一つどうだい」
飴細工を差し出して笑う。
女中は慌てて頭を下げる。
「結構です」
足早にその場を離れた。
胸が少しだけ苦しかった。
主人以外の男と言葉を交わしただけなのに、妙に落ち着かない。
なぜだろう。
自分でも分からない。
帰り道。
提灯の灯りが石畳へ長い影を落としている。
女中はふと立ち止まり、小さな紙袋を見つめた。
祭りで買ったもの。
ほんの小さな金平糖だった。
妻への土産にと思って買った。
主人の顔も浮かんだ。
甘いものは好きだっただろうか。
そう考えた瞬間、自分で驚く。
なぜ、そのことを考えたのだろう。
女中は首を振る。
違う。
家への土産だ。
それだけだ。
そう言い聞かせながら、家路を急いだ。
その頃、縁側では主人が一人、祭囃子へ耳を傾けていた。
帰りが遅い。
そう思った自分に、主人は苦く笑う。
祭りへ行った娘の帰りを待つ。
それだけのことだ。
それだけであるはずなのに。
夜風は少しだけ涼しくなっていた。
しかし、家の内側に宿った熱だけは、まだ少しも冷めてはいなかった。




