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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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7/23

第7話 知らぬ間に

 夏祭りが近づく頃になると、町は少しだけ賑わいを見せ始めた。


呉服屋の店先には新しい反物が並び、子どもたちは祭囃子の稽古に胸を弾ませる。

夕暮れになると、提灯を吊るす職人の姿が通りを行き交う。

どこからともなく太鼓を試し打ちする音が風に乗って聞こえてきた。


だが、その家だけは相変わらず静かだった。


主人は朝から書斎に籠もり、妻は家計簿をつけ、女中は変わらず家中を動き回る。


何も変わらない。

少なくとも、外から見ればそうだった。


しかし、一度意識してしまった距離は、元には戻らない。

女中は主人の部屋へ茶を運ぶとき、襖を開ける前に一度だけ呼吸を整えるようになっていた。


「失礼いたします」


主人は帳面から顔を上げる。


「ああ」


それだけの返事。

女中は盆を置き、深く頭を下げる。


以前なら、そのまま茶請けのことを一言二言尋ねることもあった。


今日は暑うございますね。

お疲れではございませんか。


そんな、他愛もない会話。

今は、それがない。


主人も気づいていた。

女中が、必要以上の言葉を避けていることを。


それは恐らく、妻に何か言われたからなのだろう。

そう考えれば合点がいく。


だが、それを尋ねることはできない。

尋ねた瞬間、それは「気になっていた」と認めることになる。


主人は湯呑を手に取る。

湯気の向こうで、女中はもう部屋を出ようとしていた。


「……待て」


思わず声が出た。

女中の肩が小さく震える。


「はい」


主人は口を開きかける。

だが、続く言葉が出てこない。


何を呼び止めたかったのか、自分でも分からない。


茶が熱すぎたわけでもない。

頼み事があるわけでもない。


ただ――呼び止めてしまった。

短い沈黙が流れる。


「……いや」


主人は視線を落とした。


「何でもない」


「……かしこまりました」


女中は静かに一礼し、部屋を出る。

襖が閉まる音だけが残った。


主人は額を押さえる。

何をしている。

自分でも理解できなかった。


用もないのに人を呼び止めるなど、自分らしくない。

それほどまでに、あの「距離」が気になっていたのか。


昼下がり。


女中は洗い場で器を洗っていた。

主人に呼び止められたことが、まだ胸に残っている。


何か用事があったのだろうか。

それとも、本当に何でもなかったのだろうか。

考えても答えは出ない。


水へ器を沈めながら、小さく首を振る。

考えてはいけない。

仕事に集中しなければ。


そう思うほど、主人の「待て」という声が耳に残る。


その頃、妻は縁側から二人を見ていた。


主人は書斎に戻り、女中は洗い場にいる。

離れている。

何も起きてはいない。

だが、妻には分かった。


二人とも、不自然なくらい互いを避けている。

それは、距離ができたということではない。

距離を測り続けているということだった。


人は本当に何とも思っていない相手との距離など、考えない。

近すぎるとも、遠すぎるとも感じない。

だが、一度意識してしまえば違う。


一歩近づけば近すぎる。

一歩離れれば遠すぎる。


その一歩を、何度も測るようになる。


妻は静かに目を閉じた。


――遅かったのかもしれない。


そう思った自分を、すぐに打ち消す。

まだ何も始まっていない。

始まってはいけない。

そう信じたい。


夕暮れ。


蜩が鳴き始める頃、主人は縁側に腰を下ろしていた。

庭では女中が打ち水をしている。


柄杓から落ちる水が、乾いた土へ吸い込まれていく。

その音だけが、静かな庭に響いていた。


主人は庭を見ないように空を見上げる。

女中もまた、縁側を見ないように水を撒く。


互いに目を合わせない。

それが今できる、精一杯の距離だった。


だが、人は見ないようにするほど、その存在を意識してしまう。

主人はそのことを知り始めていた。


女中もまた、まだ言葉にはできないまま、それを感じ始めていた。


夏は、まだ終わらない。


そして、家の内側に満ち始めたこの静かな熱もまた、行き場を失ったまま、少しずつ積もり続けていた。

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