第6話 夏の風
翌朝、女中はいつもより早く目を覚ました。
障子の外はまだ薄青く、夜露を含んだ庭木が静かに揺れている。
井戸水を汲み上げると、桶の中で朝日が揺れ、ひんやりとした冷気が指先を包んだ。
昨夜、妻に言われた言葉は、一晩経っても胸の奥から消えなかった。
――本当の家族ではない。
その一言が、何度も心の中で繰り返される。
女中は小さく息をつき、台所へ向かった。
朝餉の支度を始める頃には、家中がゆっくりと目を覚ましていく。
竈に火が入り、味噌の香りが立ちのぼる。
主人も書斎から姿を現した。
「おはようございます」
女中はいつものように頭を下げる。
「おはよう」
主人も変わらぬ声で返す。
それだけだった。
それだけなのに、女中は昨夜までとは違う距離を感じていた。
茶碗を差し出す手を、ほんの少しだけ遠くする。
主人も気づいたのか、受け取る手がわずかに止まる。
ほんの指一本ほどの距離。
だが、それだけで以前より遠く感じられた。
主人は何も言わなかった。
朝餉を終え、仕事へ向かう支度を始める。
女中は玄関で草履を揃え、羽織を差し出した。
主人は礼を言い、それを受け取る。
その時だった。
羽織の袖が女中の手にかすかに触れる。
以前なら何でもないことだった。
二人とも、気にも留めなかっただろう。
しかし今は違う。
女中は反射的に手を引いた。
主人も同じように手を引く。
「あ……」
同時に声が漏れた。
そして、互いに小さく頭を下げる。
「失礼しました」
「いや……こちらこそ」
それだけのやり取り。
だが、そのぎこちなさが、かえって二人の距離を際立たせた。
主人は玄関を出ていく。
門を閉める音が聞こえるまで、女中は深く頭を下げたままだった。
その様子を、廊下の奥から妻が見ていた。
何も言わない。
けれど、その変化には気づいていた。
距離を置こうとしている。
そう思った。
少しだけ安心する。
だが同時に、人は「距離」を意識した瞬間から、その距離ばかりを見るようになることも知っていた。
昼過ぎ。
女中は庭へ洗濯物を干していた。
白い手拭いが風を受けて揺れる。
主人の着物。
妻の長襦袢。
自分の仕事着。
同じように並んでいるはずなのに、主人の着物だけは自然と目に入ってしまう。
いけない。
女中は首を振った。
洗濯物は洗濯物。
それ以上の意味などない。
そう言い聞かせながら竿へ掛けていく。
その時、妻が後ろから声を掛けた。
「今日は風が気持ちいいわね」
「はい」
「こういう日は、洗濯物もよく乾く」
「そうですね」
何気ない会話だった。
妻は干された着物を眺める。
「あなた、本当に働き者ね」
女中は照れたように笑う。
「それしか取り柄がございませんから」
「そんなことはないわ」
妻はゆっくり首を振った。
「だからこそ、私は安心して家を任せられるの」
その言葉に、女中は胸が熱くなった。
信頼されている。
その喜びと同時に、昨夜の言葉がよみがえる。
――この家を守りたいだけ。
妻は自分を責めたのではなかった。
守ろうとしていたのだ。
主人も。
自分も。
この家そのものを。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
夕方。
仕事を終えた主人が帰ってくる。
玄関先で女中は出迎える。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
それだけの言葉。
それだけなのに、お互い少しだけ笑みがぎこちない。
主人はその変化を感じながら、心の中で苦く笑った。
距離を置く。
それで済む話だと思っていた。
だが、人は距離を測ろうとした途端、その距離ばかりを意識してしまう。
近づこうとは思っていない。
それなのに、「近づかないようにする」ことが、かえって相手を意識させる。
皮肉なものだった。
夜。
主人は縁側へ出た。
昼間の熱を失った風が、庭木を揺らしている。
鈴虫の声が静かに響く。
その音を聞きながら、主人は目を閉じた。
娘のようなもの。
何度そう言い聞かせただろう。
その言葉は間違っていない。
間違っていないはずなのに。
繰り返すほど、自分へ言い聞かせているようにしか聞こえなくなる。
主人は小さく息を吐いた。
家の内側では、今日も何一つ変わらない一日が終わる。
誰も笑い、誰も働き、誰も一線を越えてはいない。
それでも。
目には見えない何かだけが、昨日より少しだけ動いていた。




