第5話 一線
夕餉を終えた家は、昼間とは別の静けさに包まれていた。
障子の向こうでは虫が鳴き始め、行灯の灯が柱や鴨居に柔らかな影を落としている。
庭から吹き込む夜風は昼間よりは幾分涼しいものの、夏の湿り気をまだ残していた。
女中は茶器を洗い終えると、濡れた手を手拭いで拭き、妻のいる居間へ向かった。
「失礼いたします」
襖を開けると、妻は座布団の上に静かに座っていた。
「そこへお座りなさい」
穏やかな声だった。
叱責の響きはない。
それでも女中は自然と背筋を伸ばし、正座をする。
しばらく沈黙が続いた。
行灯の火が小さく揺れる。
「最近ね」
妻はようやく口を開いた。
「あなたが随分と大人びたと思うの」
女中は少し驚いたように目を上げる。
「私が……ですか」
「ええ」
妻は微笑んだ。
「この家へ来た頃は、本当に子供だったもの」
その言葉に、女中も小さく笑う。
失敗ばかりしていた頃の自分を思い出したのだろう。
「覚えております」
「毎日のように茶碗を割っていたわね」
「はい……」
恥ずかしそうに俯く。
その笑顔を見て、妻も少しだけ頬を緩めた。
しばらくは昔話が続いた。
女中が熱を出した冬のこと。
初めて一人で客へ茶を出した日のこと。
農村の両親から届いた手紙を、一緒に読んだこと。
そのどれもが、確かに家族のような時間だった。
だからこそ。
妻はゆっくりと表情を戻した。
「でもね」
女中も自然と姿勢を正す。
「大人になったということは、それだけ気をつけることも増えるということなの」
「……はい」
「男の人はね」
そこで妻は少し言葉を選んだ。
「あまり、自分の心に敏くないものなの」
女中は意味が分からず首を傾げる。
「旦那様も?」
「ええ」
妻は迷わず頷いた。
「あの人は、とても優しい人」
「はい」
「だから困っている人を見ると放っておけない」
それは女中も知っていた。
重い桶を運べば黙って持ってくれる。
高い場所の掃除をしていれば脚立を押さえてくれる。
それは主人にとって特別なことではない。
誰にでもすることだった。
「けれど」
妻は静かに続ける。
「優しさと距離は、同じではないの」
女中は黙って聞いている。
「あの人は悪くない」
「はい」
「あなたも悪くない」
女中は小さく息をついた。
「ですが……」
「それでも、近づき過ぎることはあるの」
部屋に静けさが落ちる。
「この前、手を重ねていたでしょう」
女中の肩がわずかに震えた。
「あれは……」
「見ていたの」
責める口調ではない。
事実を告げるだけの声だった。
女中は深く頭を下げる。
「申し訳ございません」
「謝ることではないの」
妻は首を振った。
「偶然だったのでしょう」
「はい」
「だから、これから気をつければいい」
女中はしばらく黙っていた。
やがて小さな声で尋ねる。
「私は……何か、思い違いをしていたのでしょうか」
その問いに、妻はすぐには答えなかった。
行灯の火が、またひとつ揺れる。
「人はね」
妻は静かに言う。
「毎日同じ人と暮らしていると、距離が分からなくなることがあるの」
女中は顔を上げる。
「家族のようになってしまうから」
その言葉に、女中は少し安心したような表情を見せる。
だが妻は続けた。
「でも、本当の家族ではない」
その一言が、静かに胸へ落ちる。
「旦那様は旦那様」
「はい」
「私は妻」
「はい」
「あなたは、この家を支えてくれる大切な女中」
女中は黙って頷く。
「その順番だけは、忘れてはいけないの」
長い沈黙が流れた。
やがて女中は深く頭を下げる。
「……はい」
その返事は震えていた。
妻はそっと微笑む。
「あなたを叱りたいわけではないの」
「……はい」
「この家を守りたいだけ」
その言葉は偽りではなかった。
女中も、それが分かっていた。
だからこそ胸が痛む。
「旦那様は、本当に良い方です」
思わず漏れた言葉だった。
妻は静かに頷く。
「ええ。だからこそよ」
その一言に、女中は何も返せなかった。
部屋を出る頃には、夜風が少し強くなっていた。
廊下を歩きながら、女中は自分の胸に手を当てる。
主人を思っているのだろうか。
そう問われれば、違うと答える。
家族のように慕っているだけだ。
それ以上ではない。
そう思っている。
――思っているはずなのに。
妻から「距離」という言葉を聞いてから、その距離が急に見えなくなってしまった。
自室へ戻ると、小さな机の上には、昼間使っていた富士山の扇子が置かれていた。
主人から渡された扇子。
何気ない親切。
そのはずだった。
女中はしばらく見つめたあと、そっと引き出しへしまう。
明日からは、使わないようにしよう。
それが、一線を守ることなのだと思った。
だが、その扇子を引き出しへしまう指先には、なぜか少しだけ寂しさが残っていた。




