第4話 妻のまなざし
夏は盛りを迎えていた。
朝の涼しさは日の出とともに消え、庭の飛び石は昼前には白く灼ける。
井戸で汲み上げた水も、桶に置いておけばすぐに温み、家中には青竹の簾を抜けた風だけが細く流れていた。
主人は仕事へ出かけ、家には妻と女中だけが残る。
いつもと変わらぬ朝だった。
女中は廊下を拭き、庭へ打ち水をし、仏間の花を替え、茶器を磨く。
十年前、何をするにもおぼつかなかった娘とは思えないほど、手際はよくなっていた。
妻は縁側からその姿を眺めていた。
仕事ぶりに不満はない。
むしろ、これほどよく働く女中は珍しいと思っている。
だからこそ、余計に気になってしまう。
変わったのは働きぶりではない。
家の空気だった。
主人は以前から穏やかな人だった。
使用人に声を荒らげることもなく、困っていれば自然と手を貸す。
それは昔から変わらない。
だが最近は、その優しさが一人へ向く時間だけ、妙に長く感じられるようになっていた。
それは本当に長くなったのか。
それとも、自分がそう感じるだけなのか。
妻には判断がつかなかった。
だからこそ、目で確かめようとしてしまう。
昼近くになり、女中が冷えた麦茶を盆に載せて主人の書斎へ向かった。
妻は障子越しに、その様子を見ていた。
女中は膝をつき、静かに盆を置く。
主人は礼を言う。
それだけだった。
それだけのやり取りなのに、女中はすぐには立ち上がらない。
主人もまた、急かすことはしない。
ほんの数息。
ただ、それだけの間。
しかし、その沈黙が妙に長く感じられる。
やがて女中が静かに頭を下げて部屋を出る。
主人はその背中を見送ることもなく帳面へ目を戻した。
何も起きていない。
本当に、何も。
それでも妻の胸には、小さな棘が刺さったままだった。
夕方。
洗濯物を取り込もうとした妻は、女中が縁側で扇子を使っている姿を見つけた。
見覚えのある扇子だった。
紺地に墨で描かれた富士山。
主人が若い頃から使っていた品である。
「その扇子……」
妻が声をかけると、女中は慌てて立ち上がった。
「あ……申し訳ございません」
「誰にもらったの?」
「旦那様が……暑かろうからと」
女中は隠す様子もなく答えた。
その素直さが、かえって妻の胸を締めつける。
主人なら、そういうことをする人だ。
昔から困っている人を見れば放っておけない。
それは知っている。
知っているからこそ、責めることができない。
「そう……」
妻はそれだけ言った。
だが、女中は何かを感じ取ったようだった。
「お返しいたしましょうか」
「いいえ」
妻は首を振る。
「差し上げたものなら、そのまま使いなさい」
「はい」
女中は再び扇子を仰ぎ始めた。
ぱたり。
ぱたり。
一定の音が夏の空気を揺らす。
妻はその扇子を見つめていた。
主人は昔から物を大切にする。
簡単に人へ譲る人ではない。
だから余計に、胸の内に小さな疑問が残る。
夕餉の支度が始まる頃、主人が帰ってきた。
「今日は暑うございましたね」
妻が声をかける。
「ああ。今年は殊のほか暑い」
主人はそう言って座敷へ上がる。
女中はいつものようにおしぼりを差し出した。
主人は受け取り、礼を言う。
ただ、それだけ。
だが妻は、その手元を見てしまう。
触れ合う時間は一瞬だった。
本当に、一瞬。
それでも目に入ってしまう。
夕餉の席で、妻は何気ない調子を装って尋ねた。
「あなた」
「なんだ」
「あの扇子、あの子へ差し上げたのですね」
主人は少しだけ箸を止めた。
「ああ」
「珍しいこともあるものですね」
「暑そうだったからな」
それだけだった。
嘘ではない。
だが、妻は思う。
それだけなのだろうか、と。
主人は食事を続ける。
その横顔は昔と変わらない。
穏やかで、静かで、人に優しい。
だからこそ、怖い。
本人が気づかないまま、一歩踏み出してしまうことがある。
その優しさが、誰かを迷わせることもある。
妻は、主人よりもそれを知っていた。
食後、女中が茶を片づけている。
主人は書斎へ戻り、妻は廊下に立った。
「少し、お話があるわ」
女中は手を止めた。
「はい、奥様」
「仕事の話ではないの」
女中は静かに頭を下げる。
妻はその姿を見つめながら、小さく息をついた。
これ以上遅くなる前に。
線を引かなければならない。
まだ何も起きてはいない。
だからこそ、今なら間に合う。
そう、自分に言い聞かせながら。




