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家の内側、女中の気配が変わるころ  作者: てきてき@tekiteki


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第3話 残るもの

 昼下がりの洗い場は、いつもより静かだった。


水を汲む音だけが、一定の調子で響いている。

庭先から入る光は白く、揺れた水面がそれを反射して、壁に淡い影を映していた。


女中は、いつものように洗濯をしていた。


衣類を水に沈め、揉み、絞る。

繰り返しの中に、余計な動きはない。


それでも、手に取るものによって、わずかに感覚が変わる。


布の重さ。

水の含み方。

指先に残る感触。


その中に、ひとつだけ違うものが混じる。


主人の衣類だった。


それを手に取ったときだけ、ほんのわずかに、手が止まる。

理由は分からない。


ただ、同じように扱っているはずなのに、どこか違って感じられる。


女中は、軽く首を振る。

考える必要はない。


これは仕事だ。

それ以上でも、それ以下でもない。

そう言い聞かせるように、布を水に沈める。

だが、指先は覚えている。


先日、手拭いを渡されたときの感触。

ほんの一瞬、触れただけの、それだけのこと。


それなのに、なぜか消えない。

女中は、布を強く握る。

水が弾ける。


――いけない。


その一言が、遅れて浮かぶ。

何が「いけない」のか、自分でもはっきりとは分からない。

だが、何かが違うことだけは分かる。


水音が、わずかに乱れる。

そのときだった。


「……そこか」


不意に声が落ちる。

女中は顔を上げる。

主人が立っていた。

いつからそこにいたのか、気配はなかった。


「旦那様……」


「探していたものがあってな」


それだけを言い、主人は棚へと手を伸ばす。


女中は、すぐに視線を落とした。

見てはいけない、というより、見てしまうと何かが崩れる気がした。


主人の気配が、すぐ近くにある。

狭い洗い場。

距離は、避けようがない。


「……それは」


女中の手元に目を向け、主人が言う。


「はい……洗濯でございます」


「……そうか」


それ以上は何も言わない。

だが、視線は確かにそこにあった。


濡れた布。

女中の手。

水の中で揺れる影。


ほんのわずかな沈黙。

水音だけが続く。

女中は、手を動かし続ける。

止める理由がないからだ。

止めてしまえば、それこそ意識していることになる。


主人は、棚から目的のものを取る。

それでも、すぐには去らなかった。


わずかな間。

それだけのはずなのに、妙に長く感じられる。


やがて、主人は口を開く。


「……そのままでいい」


どこか、前にも聞いた言葉だった。

女中は短く答える。


「はい」


そのやり取りが、余計に距離を意識させる。

触れてはいない。

だが、近い。

その近さが、言葉にならない何かを生む。


主人は、ふと目を逸らす。

そして、わずかに息を吐いた。


「……匂いが残るものだな」


ぽつりと落ちた言葉。

女中の手が止まる。

一瞬だけ。


すぐに動きを再開する。


「……洗いが足りませんでしたでしょうか」


声は平静だった。

だが、わずかに硬い。


「いや、そういう意味ではない」


主人は言葉を選ぶように続ける。


「布というのは……残るものだと、思ってな」


曖昧な言い方だった。

それ以上は、説明しない。

できないのか、しないのか。


女中は、それを追わなかった。

追えば、形になってしまう。

形になれば、戻れなくなる。


「……気をつけます」


それだけを返す。

それで十分だった。


主人は、ようやくその場を離れる。

足音は、やはりほとんどしない。

だが、気配だけが残る。


女中は、しばらくそのまま手を動かしていた。

水の中に沈めた布を、ただ繰り返し洗う。


同じ動作のはずなのに、先ほどとは違う。

何かが、確かに変わっている。


「匂いが残るものだな」


その言葉が、遅れて響く。

布に残るもの。

水では落ちないもの。

それが何なのか、はっきりとは分からない。


だが――

消えないものがある、ということだけは分かる。


女中は、布を強く絞る。

水が落ちる。

それでも、何かは残る。


見て見ぬふりでは、消えない。

むしろ、静かに積もっていく。

それを、まだ言葉にすることはできなかった。


ただ、確かにそこにある。

そう感じるだけだった。

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