第76話 写真に残るもの
その翌日から、二人の間には小さな変化が生まれた。
書斎へ行くことは、もう特別なことではなくなっていた。
女中が茶を運ぶ。
主人が受け取る。
そして、ほんの少し話す。
それだけ。
けれど、その「それだけ」が二人にとっては大きくなっていた。
以前のような、主人と奉公人だけの、仕事のためだけの時間ではない。
今日あったことを話す。
庭のことを話す。
天気のことを話す。
時には、どうでもいいような小さなことまで話す。
そんな時間が、いつの間にか二人の日常の一部になっていた。
だからといって、何かを約束したわけでもない。
何か特別なことをしたわけでもない。
ただ二人とも、その時間を待つようになっていた。
──昼過ぎ。
女中はいつものように盆を持って廊下を歩いていた。
茶を淹れ、湯呑みを盆へ載せる。
今日は何を話そうか。
そんなことを考えながら、書斎へ向かう。
襖へ近づいたところで、ふと足が止まった。
中から、男の声が聞こえた。
「こちらが先日のお写真でございます」
女中は耳を澄ませる。
聞き覚えのある声だった。
写真館の男。
以前、この屋敷へ写真を撮りに来たことのある男だった。
女中は、襖の前で立ち止まった。
「なるほど」
中から主人の声がする。
「この仕上がりなら悪くないな」
「ありがとうございます。こちらは少し光を調整しております」
「そうか」
「庭の方も、なかなか綺麗に出ております」
「そうだな。実際に見るより、少し違って見える」
「写真にすると、光の具合で印象が変わりますので」
そんな会話が聞こえてくる。
女中は盆を抱えたまま、静かに待った。
以前にも、この男と主人が話しているところを見たことがある。
写真という、まだ自分にはよく分からないものについて話していた。
けれど、今日はなぜか、少しだけ気になった。
どんな写真なのだろう。
自分がいつも掃除している庭が、どんなふうに写っているのだろう。
そんな興味もあった。
しばらくして、襖が開く。
写真館の男が出てきた。
「あ……」
女中は慌てて端へ寄った。
「失礼いたします」
「どうも」
写真館の男は軽く頭を下げ、そのまま廊下を歩いていく。
女中は、その背中を見送った。
特別なことではない。
仕事の話をしていただけだ。
それなのに、なぜだろう。
今日は少しだけ、胸の奥がざわついた。
写真館の男と主人が、二人で長く話していた。
それだけのことなのに。
女中は自分でも説明できない気持ちを抱えたまま、襖の前に立っていた。
「……どうした」
書斎から主人の声がする。
女中は我に返った。
「いえ」
慌てて頭を下げる。
「お茶をお持ちしました」
「そうか。入れ」
「失礼いたします」
女中は襖を開けた。
書斎には、写真館の男が置いていった写真が何枚か並べられていた。
主人は、そのうちの一枚を手に取っている。
女中は盆を置きながら、写真へ目を向けた。
「……お写真ですか?」
「ああ」
主人は写真を見せるように少し持ち上げた。
「先ほどの方は……」
女中が尋ねる。
「写真館の男だ」
「以前にもいらした方ですね」
「ああ」
「今日は、お写真のお話を?」
「そうだ」
主人は写真を机へ置いた。
「この前撮ったものが出来上がったらしい」
「そうでしたか」
女中は写真へ目を向けた。
そこには、この屋敷の庭が写っていた。
いつも自分が掃除している庭。
毎朝、箒を持って歩く場所。
雨の日には濡れた石を拭き、落ち葉があれば拾う。
そんな見慣れた庭だった。
けれど写真になると、まるで別の場所のように見えた。
木々の形も。
石灯籠の位置も。
縁側の様子も。
確かに見覚えがある。
それなのに、そこには普段とは違う静けさがあった。
「綺麗ですね」
女中は思わず呟いた。
「ああ」
主人は頷く。
「写真館の男も、庭が良いと言っていた」
「……そうですか」
女中は、なぜか少し嬉しかった。
自分が手入れしている庭を褒められたような気がしたからだ。
毎日、誰に褒められるわけでもなく掃除している。
綺麗になっていても、それが当たり前だと思われている。
でも写真館の男は、その庭を見て良いと言った。
それだけのことなのに、女中には嬉しかった。
「いつも見ている庭なのに……」
女中は写真を見つめる。
「写真になると、違って見えますね」
「そうだな」
「不思議です」
「写真というのは、そういうものかもしれんな」
主人も写真を眺めた。
女中は、その横顔を見る。
主人は写真館の男と、こういう話をしていたのだろう。
写真について。
庭について。
自分の知らないことについて。
そう考えると、また胸の奥が少しざわついた。
それと同時に、胸の奥には別の感情も残っていた。
写真館の男が、主人と楽しそうに話していたこと。
それが、どうしても気になっていた。
仕事の話なのだ。
そんなことは分かっている。
写真を撮る仕事なのだから、写真について話すのは当たり前だ。
それなのに、なぜ自分は、こんなことを気にしているのだろう。
女中は、自分でも分からない感情を抱えたまま、主人の前へ座った。
主人は何も気づいていないように、写真を一枚ずつ眺めている。
「他にもあるぞ」
「はい?」
「こちらは玄関だ」
主人が別の写真を差し出した。
女中はそれを受け取る。
「……こちらも、いつもの玄関ですね」
「ああ」
「でも、やっぱり違って見えます」
「そうか?」
「はい」
女中は写真を見つめた。
その横顔を、主人が静かに見ていた。
「そんなに面白いか?」
「はい」
女中は素直に頷いた。
「とても不思議です」
写真を眺めながら、女中は思った。
自分も、写真に写れる日が来るのだろうか。
そんな考えが、ふと胸をよぎった。
けれど、その意味を女中自身、まだよく分かってはいなかった。
ただ、その写真を見つめていると、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。




